朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』の祭壇で、私は肛門から串刺しにされた教祖ゆとりを見た
🧱強固な障壁「ゆとり」世代
「ゆとり世代の旗手」という帯の文句は、私にとって長らく、手に取ることを拒む強固な物理障壁(ファイアウォール)であった。
そのレッテルを「若さゆえの軽薄さ」と勝手に誤読し、食わず嫌いを決め込んでいた過去の自分を、今すぐ当時の朝井氏が患っていた痔瘻(じろう)の患部とともに切除してしまいたい。
それほどまでに、作家生活15周年記念作品『イン・ザ・メガチャーチ』が放つ、逃げ場のない「人間という病」への洞察は凄まじかったのである。
💦正直に白状しよう。私は今、猛烈に混乱している。
本来であれば、15周年という金字塔を打ち立てた重厚な長編小説を、背筋を伸ばし、一字一句噛み締めるようにして「巡礼」するはずだった。
しかし、「もう一冊、同時に読んでみよう!」と気軽に手にしたエッセイ集『風と共にゆとりぬ』。

🍩「肛門記」の衝撃
今の私の脳内に鎮座しているのは、巨大な宗教施設の荘厳なビジョンではない。
真っ赤な表紙の『風と共にゆとりぬ』、その第3部「肛門記」に記された、あまりにも生々しい、そしてあまりにも壮絶な「2穴?3穴?」の記録である。

なぜだろうか。高尚な文学的体験を求めて足を踏み入れたはずの「メガチャーチ」の扉の向こうに、
✝️私は、痔瘻という名の十字架を背負い、手術台の上で尻を突き出した「教祖」の姿を見てしまったのだ。
「ゆとり」という言葉の裏側に、これほどまでに執念深く、かつ冷徹なまでの自己観察眼が潜んでいたとは思いもしなかった。
朝井リョウという作家は、自らの肉体に起きた悲劇(それも、よりによって最も尊厳を損なう部位の悲劇)すらも、一切の感傷を排除してエンターテインメントに昇華させてしまう。
🍴その筆致は、まるで麻酔なしで自らの内面を切り開くメスのようだ。
私は、彼を「世代の代表」だと思い込むことで、その鋭利な才能から目を逸らしていたのかもしれない。
「ゆとり」という言葉は、彼にとっては盾でも矛でもなく、単に世間という巨大な「メガチャーチ」の中で踊らされる個人の、滑稽で愛おしい足掻きを記述するための、一つの記号に過ぎなかったのだ。🕺
読み進めるスピードが、『メガチャーチ』を超え、
明らかに『肛門記』の方で加速している事実に戦慄する。

「聖者」の分析⛪️
一方は、救いを求める群衆と歪んだ信仰を描く巨編。
もう一方は、瘻管という名の「未知のトンネル」との戦いを描く私記。
この二つが脳内で化学反応を起こした結果、私の前には「肛門から串刺しにされながら、なおも世界を冷徹に、かつユーモラスに分析し続ける聖者」が現れた。
もはや、私の中に「ゆとり」への抵抗感は微塵も残っていない。
あるのは、この途轍もない才能の虜になり、その「穴」の深みにどこまでも沈んでいきたいという、奇妙に歪んだ読書欲だけだ。
この記事を書くべきか迷ったが、もはや後の祭りである。
私はもう、朝井リョウという名の巨大な教会の、最も信心深い信徒の一人になってしまったのだから。
私たちは、信仰も偏見も、だいたい“見たくない穴”から始まる。

草の根クリエーター
もうソウ太郎
