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【非受験地帯】

第1話「合格者のいない殺人」

第一章:学力とは何か

2038年。

日本から「受験」という言葉が消えた。

正式には教育特区法の改正だったらしい。 だが、その正式名称を正確に記憶している国民など、一人もいない。

新聞が「非受験地帯法」と呼び始め、その乱暴な通称だけが 社会の濁流にそのまま定着してしまった。

高校も大学も、国家試験すらも、「試験による選抜」は一律に違法となった。

テレビは「偏差値からの解放」と歓喜し、評論家たちは 「子どもを競争から救った歴史的改革」と、耳当たりの良い講釈を垂れ流した。

国民もそれに満足げに拍手した。 誰も、その決定的な矛盾を疑問に思わなかった。

椅子の数は、昨日と同じなのに…。

東京地方検察庁

判事から次席検事への出向という「法曹交流制度」の渦中にいる千鶴は、 涼やかな目元の奥に冷徹な理性を宿し、一枚の報告書を静かに閉じた。

死亡者名 田中 春太郎
職業 大学入学判定委員会議長
死亡場所 自宅書斎
死因 急性心不全の疑い。
外傷なし、毒物反応なし。

部屋は完全に施錠された密室、遺書らしきものは存在しない。 ただ、机の上には、名刺サイズの白いカードだけが残されていた。

黒いインクで、ただ一行。

「学力とは何か?」

捜査を担当した刑事が、早く処理を終わらせたい様子で苦笑した。

「教育者らしい書斎でした。持病もあったようです。事件性はないでしょう」

千鶴はカードから目を離さない。

「判定委員……」

「え?」

「試験が存在しない国に、判定委員だけは存在する?」

刑事は首をかしげた。

「制度には詳しくありません」

「警察官は誰が選ぶ」

「……」

「検事は」

「……」

「判定委員は」

刑事は答えられなかった。 千鶴はカードを静かに保存袋へ戻した。

「選抜は消えていません。名前が変わっただけです」

その日の午後。 千鶴の携帯電話が鳴った。

「判定委員の一人と連絡が取れません」

事務官の声だった。

「今日予定されていた大学判定委員会を無断欠席しています」

「自宅は」

「不在です」

「携帯は」

「電源が切れています」

「家族によれば、昨日から帰宅していないそうです」

千鶴は無意識に、机の上の写真へ目を向けた。

学力とは何か?

ただの病死。 そう片付けるには、タイミングの良すぎる偶然か…。


文化地理がっかり学会の例会。

議長である千鶴は本職のため欠席していた。 その不在というだけで、会議室の空気は妙に晴れやかだった。

土屋は紅茶を一口すすり、いつものように人の神経を逆撫でする笑みを浮かべた。

「試験を廃止した結果…」

誰も答えない。 土屋は、贅沢な皮肉をこれでもかとまぶしながら続けた。

「試験官を神様に昇格させた。 答案用紙は賄賂を受け取れない。判定委員は受け取れる。 人類は公平を嫌って、不公平を民主化しただけ」

高島が鼻で笑い、手元の資料を忌々しげに放り出した。

「試験は残酷だと言う連中ほど、人間の好き嫌いには寛容だからな。 答案用紙には依怙贔屓がない。その違いも理解できないで公平を語るとは、実に贅沢な時代だ」

そこへ、事務局員が血相を変えて部屋へ飛び込んできた。

「失礼します」

空気が一変する。

「千鶴検事から連絡です」

土屋が眉を上げた。
「今度は誰が逮捕された?」

海尾が
「昨日一日で、汚職で350人逮捕されましたね。」

高島が呆れてぐう音もでない
「今年は汚職事件が1万人を超える勢いらしい。」

土屋が投げ捨てるように吐き出した
「金銭の出納記録がしっかり残るこの時代に汚職とは…」

事務局員
「大学判定委員が一人、行方不明になりました」

沈黙。

「昨日、判定委員が急死した件と関連があるかもしれないそうです」

高島は静かに眼鏡を外した。 その瞳は、言葉の裏にある不穏な歪みを冷淡に捉えていた。

「病死の次は失踪か」

土屋も、今度は笑わなかった。

「なるほど」

彼は小さくつぶやいた。

「この国は試験だけでなく、判定委員まで消し始めたらしい」

会議室には、もう誰も笑う者がいなかった。

東京地検

千鶴の脳裏から離れない、あの一枚のカード。

「学力とは何か?」

その問いは、死者が残した遺言なのか。
それとも…思考を放棄し、新しい単語の陰に隠れて現実から目を背け続ける この国そのものに突きつけられた、冷徹な告発なのか。

第二章:ブラックボックスの番人(へ続く)