番外編|火生導師・行遠 ―合羽を着たら負け―
火渡りの日、火は思ったよりも燃えた。
「火渡り」と聞けば、普通の人は、ほどよく灰になった炭の上を、ありがたく静かに歩くものだと思うかもしれない。だが現実は甘くない。火は遠慮を知らない。薪は燃える。炎は立つ。煙は来る。熱は顔をなぶる。そして足の裏は、信仰心があろうがなかろうが、普通に熱い。
行遠は白衣をまとい、火の前に立った。
職業、火生導師。
火を消す者ではない。火の中に道を見つけ、人を渡らせる者である。
Lv52。
HP569。
MP890。
見た目は山伏。中身はだいぶ魔法職寄りである。
火渡りの行者は、自分だけが渡ればいいわけではない。参拝者も渡る。子どもも渡る。怖がる人も渡る。目の前で炎が生きているのを見れば、普通の人は足が止まる。
そこで火生導師の仕事が始まる。
「止まるな」
「火を見すぎるな」
「一歩でよい」
「渡れる」
これは声掛けであり、祈祷であり、半分は術である。
参拝者一人に恐怖耐性を付与する。
足元に小結界を張る。
煙による混乱を解除する。
火勢を読み、渡る間合いを作る。
MPはごりごり減る。
しかも困ったことに、物理法則は信仰では消えない。火が強ければ、普通にヤケドする。熱いものは熱い。火生導師といえど、足の裏は人間である。神仏の加護はありがたいが、皮膚には限界がある。
それでも行遠は渡る。
なぜなら、渡らねば場が始まらないからである。
火を越え、法螺を吹き、山伏問答では問う側にも立つ。単なる参加者ではない。場を締める側である。問いを放ち、空気を張り、儀礼を儀礼として成立させる。
つまり、行遠はできる。
火渡りもできる。
法螺貝もこなせる。
山伏問答で問う側も任される。
参拝者を火の中へ導くこともできる。
できるのだ。
だが、ここに問題がある。
できることと、続けたいことは同じではない。
火生導師は、火の前では立てる。法螺も吹ける。問答もこなせる。けれど、心の奥では、修験道そのものをこの先も続けていきたいのか、という問いが残っている。
火の中では迷わない。
だが、人間関係と組織の中では、どうにも火より厄介なものがある。
炎は正直だ。近づけば熱い。触れば焼ける。燃え尽きれば灰になる。
だが人間は、燃えているのか、くすぶっているのか、湿っているのか、見ただけでは分からない。これが厄介である。
そんな中、行遠の関心は少しずつ変わってきた。
外の火から、内の識へ。
火を渡ることよりも、火を見ている心とは何か。
怒りを覚える心とは何か。
失望する心とは何か。
なぜ自分は、誠のないものにこれほど耐えられないのか。
そこで唯識が出てくる。
火生導師は、次第に「識を観る者」へ向かい始める。山で火を渡った者が、今度は自分の阿頼耶識の中へ入っていく。これは逃げではない。むしろ、行の場所が変わったのである。
ただし、山の行者としての特殊技能は残っている。
その代表が、雨避けの術である。
発動呪文は、
「合羽を着たら負け」
この呪文は強い。
ただし、空一面を晴らすような大魔法ではない。そこまで大げさな術ではない。峰入りの行列が進む半径100メートルほどの雨を、少しだけ弱める。それで十分なのだ。
豪雨を小雨へ。
小雨を霧雨へ。
霧雨を「まあ笠で行けるな」へ。
これが火生導師の実用魔法である。
ここ数年、行遠は峰入りで雨が降っても合羽を着ていない。笠だけで足りる。合羽を着ると、蒸れる。動きにくい。山の気配が鈍る。そして何より、術式が崩れる。
合羽を着たら負け。
これは単なる意地ではない。山と折り合うための心得である。雨を完全に拒絶するのではなく、頭と視界だけ守り、あとは受ける。身体は濡れても、心は濡らさない。
ただ、この術には供物が必要である。
供物は、チョコレート。
米でも酒でも塩でもない。現代の火生導師にはチョコレートである。MP回復、機嫌維持、雨避けの成功率上昇。特に峰入り中のチョコレートは効く。疲れた身体と魂にしみる。
ところが近年、物価高騰により、供物の入手が困難になってきた。
これは深刻である。
雨避けの術は、天候との戦いであると同時に、カカオ相場との戦いでもある。山の神より先に、スーパーの値札が術者の心を折りに来る。
「この価格では、上級術が撃てない」
火生導師は売り場の前で静かに悟る。
それでも行遠は、笠をかぶり、法螺を吹き、火を渡り、問いを放つ。
そして胸の内で、こう唱える。
合羽を着たら負け。
チョコを切らしたら敗北。
火は熱い。
雨は濡れる。
人間関係はもっと面倒くさい。
それでも道は続く。
ただし、その道がこれまでの修験道の中にあるとは限らない。
火を渡った者は、次に心を渡る。
法螺を吹いた者は、次に識の奥の響きを聞く。
山伏問答で人に問うた者は、やがて自分自身に問う。
我、何のためにこの道を行くか。
火生導師・行遠。
外の火を知り、内なる識へ向かう者。
ただし雨の日は、笠のみ装備可。
合羽を着たら負けである。

