見出し画像

K607|蓮心不敗とは何か――武侠の不敗を、弓道へ


1.誰も使っていない四字

一心庵弓道場では、道場の理念を表す言葉として「蓮心不敗」を掲げている。
先日、この四字を検索してみた。用例が出てこない。出てくるのは分解された「蓮心」ばかりである。

日本の字書では蓮の芽。中国語では、蓮の実の中心にある苦い芯を指すことが多い。また龍井茶では、古く、一芽だけを摘んだ非常に嫩い芽を「蓮心」と呼ぶ用例もある。あとは料理屋の屋号や、中国ドラマの人物名などが出てくる。

四字熟語としては、どうやら空白であるらしい。
造語だから当然と言えば当然である。
だが、造語には造語の来歴がある。
この語がどこから来て、何を捨て、何を引き受けたのかを、一度書いておきたい。

2.出所は武侠小説である

正直に書く。
この語の着想は、金庸の武侠小説から得た。

『笑傲江湖』に、東方不敗という人物が出てくる。日月神教の教主であり、作中屈指、あるいは武林最強ともいえる武功の持ち主である。
その名の通り、「不敗」を名乗る人物だ。

ただし、あの人物の強さは代償の上に成立している。
『葵花宝典』を修めるため、自らの身体を損なった。圧倒的な強さを得る一方で、自分自身の一部を差し出した人物でもある。

私には、金庸が置いた「東方不敗」という名は、どこか皮肉を帯びているように見える。
不敗であることと、幸福であることは同じではない。
強さを極めても、その強さそのものによって人生が歪んでいくことがある。

私はそこから、語だけを借りた。
そして意味を裏返した。

東方不敗の不敗は、勝ち続けることによる不敗である。
蓮心不敗の不敗は、崩れないことによる不敗である。

代償を払って強さを得るのではない。
強さのために、自分自身を壊さない。
同じ「不敗」という二字が、正反対の方向を向く。

3.東方を蓮心に替えるということ

この語の仕事は、ほとんど上二字の置換に集約されている。
「東方不敗」という名は、私には外へ向かって開かれた名として響く。

天下の中でどこに立つのか。
誰より強いのか。
誰に勝ち、誰に負けないのか。
そこには、他者との比較によって成立する「不敗」がある。

それに対して「蓮心」と置いた瞬間、視線は内側へ戻る。
蓮は泥の中に根を張る。
濁りのない場所に逃げて咲くのではない。
泥の中にありながら、泥だけにはならない。
蓮心と不敗が結びつけば、問題は「誰より強いか」ではなくなる。

問われるのは、自分が崩れるか、崩れないかである。
同じ「不敗」でありながら、比較のための語から、比較そのものを必要としない語へ移動する。

私が的中率を記録する目的も、これと同じ構造をしている。
数字は、他人と競うためだけに使うものではない。
半年前の自分と、今の自分を並べるためにも使える。
参照先が外にあるか、内にあるか。
それだけで、同じ数字がまったく別の道具になる。

4.正射必中との距離

弓道で最も広く知られている四字の一つに、「正射必中」がある。
正しく射れば、必ず中る。
原因と結果を接続する、非常に強い理念である。

的中を単なる偶然ではなく、射の正しさと結びつけて考えるという点で、弓道の核心に近い言葉でもある。

だからこそ、射手によっては、この言葉が時に重くなる。

中らなかった。
では、自分の射は正しくなかったのか。

中らない日が続いた。
では、自分はずっと間違っているのか。

本来は向上の指針であるはずの言葉が、受け取り方によっては、自分を責める言葉へ転じることもある。

蓮心不敗は、この約束の形式そのものを引き受けない。

結果を保証しない。
中るとも言わない。
上達するとも言わない。

ただ一つ、
結果がどうであれ、そこから逃げない。
その一点だけを守ろうとする。
主張としては一段低い。
その分だけ、破綻しにくい。

弓道の理念語は、多くの場合、向上を促す。

精進。
克己。
不動心。
平常心。

掲げた瞬間に、「まだ足りない」という方向へ人を押す力を持っている。
蓮心不敗には、それとは少し違う働きがある。

中らない日。
審査に落ちた日。
何年やっても直らない癖を抱えた日。

自分の射が嫌になった日。
それでも、なお射場に立っていてよい根拠を与える。

ただし、甘やかしではない。
逃げることだけは許していないからである。

5.否定形で締めるということ

四字の構造にも触れておきたい。

上二字が態度を示し、下二字が状態を示す。
「蓮心」が因であり、「不敗」が果である。

ここまでは、多くの武道語とそれほど変わらない。
違うのは、果の側を否定形で締めていることである。

日本の武道や道場の掲額では、肯定形で理想を示す言葉が多い。

正射必中。
不動心。
平常心。
到達すべき状態を名指す。

一方、武侠の世界では、否定形や逆説を含んだ名乗りが妙に似合う。

東方不敗。
独孤求敗。
無敵。

「~ではない」「~しない」という形そのものが、強烈な輪郭を持つ。
蓮心不敗も、その響きを借りている。
だから、日本の道場に掛かる四字として見ると、ほんの少し音が外れている。
国風音楽や中国ドラマ、武侠作品に長く触れてきたこととも、無関係ではないと思う。
そして否定形で締めるということは、到達目標よりも、防衛線を掲げることに近い。

どこまで登るかではない。
どこまでは退かないか。

どれほど強くなるかではない。
何を失わないか。

蓮心不敗という語の性格は、構造の段階ですでに決まっている。

6.蓮心という語が持っていたもの

調べてみて、思わぬ拾い物をした。
中国語で「蓮心」といえば、多くの場合、蓮の実の中心にある緑色の芯を指す。
漢方・中医学では「蓮子心」と呼ばれ、伝統的に薬用にもされてきた。

その性味は苦く、寒。
伝統医学では、心の熱を鎮め、煩いを除き、心神を安んじるものとして説明される。

苦い芯。
心の火を鎮めるもの。

これは、私が蓮心という語を作ったときには知らなかった意味である。
私が思い浮かべていたのは、泥中から咲く蓮の花だった。

しかし、一心庵で考えてきたことと、不思議なくらい重なる。
私はこれまで、貪・瞋・痴という三毒を、消し去るべき異物というより、人間の中に繰り返し生じる働きとして見てきた。

中てたい。
早く楽になりたい。
失敗したくない。
人から良く見られたい。

そうした心の火を完全に消してから射つのではない。
火があることを知り、それに焼かれないように射る。

「蓮心」という語の中国語での意味は、偶然にしてはよく重なる。

私にとって面白いのは、知らずに選んだ二字の中に、別の文化圏から見ても使える意味が潜んでいたということである。

ずれてはいる。だが、ずれた先も使える。
そういう語であった。

7.不染と不逃

この語には、論理上の張力が一つある。
蓮という像の核は、不染である。

泥に染まらない。
汚れに吞み込まれない。

そこには、ある種の距離を保つ徳がある。
しかし、一心庵が実際に要求しているものは、逃げないことである。

自分の失敗を直視する。
癖を見る。
的中率を見る。
中らなかった射をごまかさない。
こちらはむしろ、問題との距離を詰める方向へ働く。
不染は離れる比喩であり、不敗は踏み止まる比喩である。
力の向きが逆に見える。

だが、この張力は蓮そのものによって解ける。
蓮は、泥のないところには育たない。

失敗がなければ、直すべきところは見えない。
迷いがなければ、自分の心を知ることもできない。
中らない時期があるから、射を考える。
思うようにいかないから、工夫する。

泥は、避けるべきものではない。
材料である。

泥に入らないことが不染なのではない。
泥の中にあって、泥だけにならないことが不染である。

蓮は泥を嫌わない。
この一句がなければ、蓮心不敗は「清らかであれ」という別の訓話に落ちてしまう。
語の要は、ここにある。

8.負けないのか、敗れないのか

最後に、表記について一つ書いておく。

以前、「負けても、敗れてはならない」という一文を書いた。

負けると、敗れるを書き分けたものである。
私の中では、負けるとは、勝負の結果である。
外から与えられる。

敗れるとは、自分の内側が崩れることである。
不敗の「敗」は、後者を指している。

入門の手引きでは、平易さを取って、「勝てなくても、負けない」と書いた。
初心者に渡す文章としては、この選択でよいと思っている。

ただ、額装や道場旗のように、説明を伴わず、語だけが人目に触れる場面では、「勝てなくても、敗れない」の方が、不敗という語には正確に噛み合う。

なぜこの区別にこだわるのか。
蓮心不敗に最も起こりやすい誤読が、

不敗イコール無敵

だからである。

一度も負けたことがない。
うちは強い。
そう読まれれば、意味はほとんど逆になる。
この語は、負けることを最初から織り込んでいる。

中らない。
審査に落ちる。
勝負に負ける。
思うようにできない。

そのうえで、なお失われないものを名指している。
不敗は、敗北不能という意味ではない。
むしろ、再起可能という意味に近い。

崩れないこととは、一度も揺らがないことではない。
崩れても、また戻れることである。
だから、語だけを掲げるときには、一行を添える。

勝てなくても、敗れない。

9.掲げるということ

誰も使っていない語を掲げるのは、身軽であり、同時に心細い。
身軽なのは、定義を争う相手がいないからである。
既存語を借りれば、必ず「本来の意味は違う」と言う者が現れる。

造語には、それがない。
自分が書いたものが、そのまま定義になる。
心細いのは、外部の錨がないからである。
この語の意味を支えているのは、古典でも教典でもない。

私が書き、道場で実践してきたものだけである。
それが失われれば、四字はまた空洞に戻る。

だから、繰り返し書く。

泥の中にあって、泥に染まり切らない。
結果を求めながら、結果に支配されない。
失敗しても、自分の課題から逃げない。
中っても染まらず、外れても染まらず。
勝てなくても、敗れない。

蓮心不敗とは、特別な境地の名前ではない。
誰にも負けない人間になることでもない。

次の一矢へ向かうたびに、何度でもそこへ戻ろうとする姿勢のことである。

一心庵弓道場


いいなと思ったら応援しよう!