S104|被害者を逃がし、加害者を残す学校は、次の被害者を作っている
大磯町いじめ事件が示した、教育委員会の失敗
いじめ対応を見ていて、いつも腑に落ちないことがある。
なぜ、傷つけた側ではなく、傷つけられた側が去らなければならないのか。
なぜ、被害者が教室を離れ、転校し、居場所を失い、加害者がそのまま残るのか。
そして、なぜそれが「対応したこと」になってしまうのか。
神奈川県大磯町の事案を見ても、やはり思う。
この国のいじめ対応は、根本のところで間違っている。
事件の概要
大磯町の小学校に通っていた男子児童は、長い期間にわたり一部の同級生らからいじめを受け、2022年に転校を余儀なくされたと報じられている。2026年3月27日に町が公表した外部調査委員会の報告書では、「給食の量を減らされる」「下校中に暴言を吐かれる」などの行為がいじめとして認定された。さらに保護者は、学校や町の対応が被害者に寄り添っていないと公に非難している。
この事案で重いのは、被害者が学校を去るところまで追い込まれたあと、教育委員会の調査と公表の動きが長く続き、しかも最後まで被害者側との不信が解けていないことである。
時系列で見ると、何がまずいのか
流れを追うと、この件の歪みはよりはっきり見える。
2022年。
男子児童は、いじめを受けた末に転校を余儀なくされた。報道では、被害は5年間にわたっていたとされている。
2023年4月。
大磯町教育委員会は、この件をいじめによる重大事態とした。町の説明資料でも、本件は「令和5年4月に大磯町教育委員会がいじめによる重大事態とした案件」と明記されている。
2023年6月20日。
第三者委員による関連調査が始まった。町の資料では、ここから関係者への聞き取りや資料確認が行われたとされている。
2025年3月24日。
町の資料によれば、第三者委員による事実確認に係る関連調査はこの日まで続いた。また同日、被害児童保護者に説明し、本文内容について了承を得たとされている。
2025年4月11日。
町は、4月18日に記者発表を行い、同日午前10時にホームページで調査報告書を公表すると発表した。
2025年4月16日。
ところが町の説明資料によれば、被害児童保護者から、個人情報等のマスキングをしていない原文の交付を受けるまでは公表を控えるよう申し入れがあり、記者発表とホームページ公表は中止された。
2026年3月27日。
町はあらためて記者発表を実施した。町のホームページでも、この日に記者発表を行うと告知している。
2026年3月31日から4月1日。
被害児童の保護者は会見を開き、公表前に町から連絡がなく、調査報告書も受け取っていないと述べ、学校や町の対応を「被害者に寄り添っていない」と非難した。
この時系列を見ると、事案の本質はかなりはっきりする。
子どもを守ることより、調査と公表の整合を先にしているのである。
最初に動かすべきは、加害者の側である
本来、いじめ対応の筋は明快である。
まず、被害者を守る。
次に、加害行為を止める。
そのために必要なら、加害者を別室にする。
さらに必要なら、出席停止も使う。
そうして初めて、被害者の学ぶ場が守られる。
ところが現実には、逆になる。
被害者が保健室へ行く。
被害者が別室になる。
被害者が休む。
被害者が転校する。
これでは、守ったことにはならない。
学校の都合で、被害者をどかしただけである。
被害者が去っても、問題は終わらない
表面だけ見れば、教室は静かになる。
しかし、それは解決ではない。
ただ、見えなくなっただけである。
いじめは、一度の衝突ではない。
力関係の学習である。
相手を追い詰めても、学校は本気で止めない。
先生も強く出ない。
教育委員会も動きが鈍い。
そう加害者が学んだとき、残るのは反省ではない。
「これで通る」という感覚である。
その感覚を残したまま加害者を教室に置けば、何が起こるか。
答えは簡単である。
標的が変わるだけだ。
加害者を放置すれば、次の被害者が生まれる
ここが一番重いところだと思う。
加害者をきちんと止めず、被害者だけが去る。
そうなると、加害者の中には成功体験が残る。
やれば通る。
追い出せば勝ち。
学校も最後までは踏み込まない。
そう覚えた者が、次に別の相手へ向かわない保証はない。
しかも、傷むのは被害者だけではない。
周囲もまた学んでしまう。
逆らうと危ない。
関わると自分が狙われる。
黙っていた方が安全だ。
先生も守ってはくれない。
こうして教室は、表面上は静かでも、中では腐っていく。
つまり、加害者を残したまま被害者だけが去る学校は、いじめを終わらせているのではない。
次の被害者を静かに準備しているのである。
大磯町の事案が示したもの
大磯町の事案が重いのは、この構図がはっきり出てしまったからである。
被害者はその場にいられなくなった。
にもかかわらず、教育委員会は、重大事態認定から調査、公表まで長い時間を要した。町の資料では、第三者委員による関連調査は2023年6月20日から2025年3月24日まで続いている。
もちろん、調査は必要である。
報告書も必要である。
だが、それは子どもを守れた後に、ようやく意味を持つ。
守れなかったあとで、事務だけ整えても遅い。
子どもは、大人の会議を待ってはくれない。
学校に通う日々そのものが、すでに時間なのである。
その時間を失わせたなら、教育行政はまずその重さを引き受けねばならない。
教育委員会の失敗はどこにあるか
この件で厳しく言うべきは、教育委員会が「被害者を守る側」に立ち切れていないことである。
一つ目は、被害者保護よりも手続が前に出ていること。
調査をした。
説明をした。
会議を開いた。
報告書をまとめた。
それ自体は必要でも、それで子どもの居場所は戻らない。
二つ目は、加害者への対応が弱く見えること。
本当に必要なのは、加害行為を止めることである。
必要なら隔離する。
必要なら出席停止にする。
必要なら外部機関ともつなぐ。
そこを曖昧にしたままでは、「再発防止」は言葉だけになる。
少なくとも、公開されている資料や報道から前面に見えてくるのは、加害側への強い措置より、調査と公表をめぐる手続の長さである。これは資料の見え方からの評価であり、断定ではない。
三つ目は、被害者が去ったことで事態が終わったように見えてしまうこと。
だが、本当は終わっていない。
加害者の中には成功体験が残り、周囲には沈黙の空気が残る。
それでは、同じことが繰り返されるだけである。
「双方に配慮する」という言葉の危うさ
教育委員会や学校は、よく「双方に配慮して」と言う。
だが、この言葉はとても危険だ。
加害者への厳しい措置を避ける口実になるからである。
被害者にも配慮。
加害者にも配慮。
周囲にも配慮。
学校運営にも配慮。
そうして配慮を重ねた結果、いちばん強く守られるのが組織の体面だけ、ということが起きる。
本当に守るべきものは、もっとはっきりしている。
被害者の安全である。
被害者の学ぶ権利である。
その一点を曖昧にした時点で、配慮はただの逃げになる。
被害者を逃がして終わる対応は、教育ではない
厳しく言えば、被害者が逃げたことで終わる対応は、教育ではない。
加害者を止めることから逃げ、
場を浄めることから逃げ、
ただ弱い側をその場から外して静けさを作る。
それは、教育ではなく、処理である。
しかも、きわめて粗末な処理である。
学校は、本来、いじめ被害者が追い出される場所であってはならない。
もしそうなっているのなら、その時点で学校の敗北である。
教育委員会がそれを止められないのなら、教育行政の敗北である。
本当に必要なのは、加害者を残さない覚悟である
いじめ対応で本当に必要なのは、きれいな再発防止文言ではない。
加害者を止める覚悟である。
被害者の側を動かすのではなく、加害者の側を動かす。
必要なら別室。
必要なら出席停止。
必要なら警察や外部機関との連携。
そうして周囲にも、「いじめは通らない」とはっきり見せる。
そこまでやって、ようやく学校は被害者の側に立ったと言える。
終わりに
被害者が去り、加害者が残る。
この倒錯を、いつまで続けるのかと思う。
大磯町の事案は、一つの町の問題ではない。
全国で繰り返されてきた構図の縮図である。
被害者を逃がせば静かになる。
だが、それは静かになったのではない。
次の被害が、まだ見えていないだけである。
加害者を放置する限り、新たな被害者は生まれる。
教育委員会がまず受け止めるべき現実は、そこだろう。
被害者を逃がして終わる対応は、もう終わりにしなければならない。
でなければ学校は、子どもを育てる場ではなく、
弱い者を切り捨る場所のままである。
