H18|仏教改革が起きない理由――意志の問題ではない
ここまでの連載で、仏教が「死の担当」に固定されていった歴史構造を追ってきた。江戸期の宗教統制と寺請制度による機能限定、明治の廃仏毀釈と国家神道による格下げ、戦後の自由化による私事化、そして朱子学的統制OSが空気として温存された現代。ここまで来ると、自然に出てくる疑問がある。「それなら、なぜ仏教は改革しないのか」「志ある僧侶が立ち上がれば変えられるのではないか」。しかし私は、この問いの立て方自体が問題だと思っている。改革が起きないのは、意志がないからではない。構造が改革を許さないからである。本章では、その構造を三つの層に分けて整理する。
第一の層は、需要構造である。現代の多くの人が寺に求めているのは、悟りでも修行でも思想でもない。葬式と法事、墓、先祖供養、地域の慣習としての儀礼である。ここは冷徹に見なければならない。仏教が生を語ろうとしても、その需要が薄い。むしろ「余計なことを言わないでほしい」という需要すらある。宗教が生を語ることは、人々の価値観に触れる。それは面倒で、時に不快で、対立を生む。現代社会は、価値観の衝突を避ける方向に最適化されている。結果として、寺が提供するサービスも、衝突を生まない儀礼へと収束する。改革とは、需要に逆らうことでもある。需要がないところに改革は根付かない。
第二の層は、供給構造である。寺院は経済的に「葬式・法事・檀家」に依存している。これは僧侶の欲の問題ではなく、収益モデルの問題だ。地域の寺が公共財のように維持されるためには、資金が必要になる。建物、墓地、維持管理、僧侶の生活。そこに確実に発生する収入源が、死後儀礼である。もし寺が「生を語る道場」に変わるなら、収益は読めなくなる。しかもそれは、既存檀家の期待と衝突しやすい。檀家にとって寺は、先祖を守る場所であり、思想の場ではないことが多い。供給側が儀礼に最適化されるのは、制度と経済の合理性の帰結である。
第三の層は、社会的許容度である。ここが最も深い。H17で述べたように、現代日本には空気支配としての統制OSが残っている。この統制OSは「問い」を嫌う。宗教が生を語ることは、問いを立てることに直結する。なぜ苦しむのか、何を価値とするのか、なぜ働くのか、なぜ生きるのか。こうした問いは、人を覚醒させ得るが、同時に秩序を揺らす。空気支配はそれを避け、宗教を私事として封じ込める。だから、僧侶がどれほど志を持っても、社会がそれを公共言語として受け取らない。宗教の言葉が「押し付け」「危ない」「ややこしい」と扱われれば、改革は社会的に孤立する。
この三層が重なると、改革はほぼ不可能になる。需要は儀礼を求め、供給は儀礼で成り立ち、社会は問いを嫌う。ここで改革を試みる僧侶が現れたとしても、その人は三方向から圧を受ける。檀家からは「寺の仕事をしてくれ」と言われ、同業からは「余計なことをして波風を立てるな」と言われ、社会からは「宗教が出てくるな」と言われる。これは個人の意志で突破できる種類の問題ではない。
さらに言えば、「改革」という言葉自体が罠になる。仏教が改革によって社会の中心に戻る、という前提には、社会が宗教に中心を求めるという条件が必要だ。ところが現代日本は、中心を求めない社会である。中心がないほうが、責任を取らずに済む。中心がないほうが、空気で回せる。だから宗教の復権は歓迎されない。仏教が生を語れないのは、仏教の失敗ではなく、社会の選択の結果でもある。
ここまでの話をまとめる。改革が起きないのは、僧侶の意志が弱いからではない。構造が改革を許さないからだ。仏教は江戸以来「死の担当」として社会に配置され、明治で格下げされ、戦後で私事化され、現代の空気支配の中で問いを封じられている。この配置のままでは、仏教が生を語る回路を取り戻すことは極めて難しい。
次回(H19)は、この構造が社会全体に与える影響を扱う。
仏教が生を語れない社会は、何を失っているのか。
「倫理はあるが覚醒がない社会」――同調圧力・空気支配・責任転嫁の土台を、仏教問題として照らし直す。
