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H19|倫理はあるが覚醒がない社会――宗教的「目覚め」不在の代償

H18で述べたように、仏教改革が進まないのは僧侶の意志の問題ではなく、需要・供給・社会的許容度が噛み合って「改革不能構造」を作っているからだ。では、その結果として現代日本社会は何を失っているのか。本章では、仏教が生を語れなくなった社会の特徴を、道徳の欠如ではなく「覚醒の欠如」という観点から整理する。結論を先に言えば、現代日本は倫理はあるが、覚醒がない社会になっている。

「倫理はある」とはどういうことか。日本社会には、礼儀、勤勉、協調、他者配慮、秩序尊重といった規範が強く存在する。ルールを守る、列に並ぶ、迷惑をかけない、空気を読む。これは一見、美徳であり、実際に社会を安定させる力がある。しかし問題は、その規範が「内面の理解」から出ているわけではなく、「空気による適応」として働きやすい点にある。正しいから守るのではなく、守らないと浮くから守る。ここで倫理は主体の選択ではなく、社会への同調として現れる。

では「覚醒がない」とは何か。ここで言う覚醒は、宗教的な神秘体験のことではない。自分の苦がどこから生まれているのか、何に執着しているのか、何に恐れているのかを見抜き、世界の前提を問い直す力のことだ。仏教的に言えば、無常・無我・縁起の理解を通じて、損得や評価や役割に振り回されない主体性を立ち上げることに近い。覚醒がある社会では、人は空気の中で反射的に動くのではなく、問いを持ち、判断し、引き受ける。覚醒の不在とは、この「問い」と「引き受け」が社会の中心に育たないことを意味する。

この覚醒不在が、どんな社会病理を生むか。第一に、同調圧力の強化である。問いを持つ人間が増えると、空気支配は効きにくくなる。だから問いは嫌われ、問いを発する者は「面倒」「意識高い」「変な人」として処理されやすい。結果、問いは引っ込む。問いが引っ込むと、空気が強くなる。空気が強くなると、さらに問いが引っ込む。この循環が生まれる。宗教が生を語れない社会では、この循環を断ち切る装置が弱い。

第二に、責任転嫁の常態化である。空気で回る社会は、誰も命令していないのに人が動く。だから問題が起きても、誰も責任を取らない。「みんなそうしているから」「前例があるから」「ルールだから」。こうして主体は希薄になる。仏教が本来扱うべき「業」や「因果」の視点――自分の行為が自分の心と世界をどう作っていくか――が社会に根づかないと、責任は外部に流れやすい。結果、組織の中では「責任者不在」が繰り返され、個人は疲弊し、攻撃は弱者に向かう。

第三に、内面の処理能力の低下である。宗教が生を語れない社会では、苦の処理は別の場所に委ねられる。仕事、消費、娯楽、承認、酒、SNS。これらは短期的な鎮痛剤として機能するが、苦の根を見抜く力は育てにくい。すると人は、苦を感じたときに問いを立てるのではなく、刺激で埋める方向に流れる。仏教が「苦の構造」を言語化し、扱う回路を提供できない社会では、苦は個人の問題として閉じ込められやすい。閉じ込められた苦は、爆発するか、鈍麻するか、どちらかになる。

第四に、正義の暴走である。覚醒がない社会は、しばしば倫理を絶対化する。問いがないため、規範が相対化されず、正しさが硬直する。硬直した正しさは、他者を裁く力になる。だがここでも責任は取られない。「正しいことを言っただけ」として免罪される。SNSの炎上や集団叩きは、その典型だ。仏教が持つ「自他の執着を見抜く視点」や「怒りの連鎖を断つ視点」が公共言語にならないと、正義は容易に暴力へ変わる。

ここまで述べた病理は、宗教が強い社会にも別の形で存在する。だから私は「宗教があれば全て解決する」とは言わない。ただ、現代日本の問題は、宗教が強すぎるのではなく、宗教が生を語る回路を失い、「問い」と「覚醒」を公共空間から退場させたところに特徴がある。倫理があるのに苦が減らない。秩序があるのに息苦しい。正しさがあるのに責任がない。この矛盾の根に、覚醒不在がある。

次回(H20)は、これらを総括する。
「日本はまだ江戸時代を終えていない」――仏教問題は過去ではなく現在進行形であり、社会の統制OSの未清算として残っている。
終章では、歴史叙述を現代の課題へ接続し、結論として回収する。


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