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S020|法は正しい。――白バイ事故判決が市民に残した、冷えた後味


はじめに

白バイが高速度で接近していた。
トラックは右折した。
事故が起きた。
そして、トラック運転手が有罪になった。

この件について、法の側からはもう説明がついているのだろう。
右折車には重い安全確認義務がある。
対向直進車の動静を見て、安全に曲がれる場合に限って右折すべきである。
事故が起きた以上、その判断に落ち度があったのなら責任は免れない。
理屈としては、そういう話になる。

なるほど。
法理論としては整っている。
判決文に書けば、きれいに見える。
だが、その「きれいさ」がそのまま市民の納得になるかと言えば、話は別である。

むしろ今回、多くの人が感じたのは、理屈の美しさではなく、後味の悪さだったのではないか。

右折車は、事故が起きた瞬間から不利になる

右折車は、事故が起きた瞬間から不利である。
右折は対向車の進路を横切る。
だから法の上では、もともと厳しく見られやすい。
そこへ「安全確認義務違反」という言葉が乗ると、話はほとんど完成してしまう。

しかし、現実の道路は、そんなに整然とはしていない。
人は教本どおりには動かない。
右折のたびに、全員が模範解答のような厳格な確認をしているわけではない。
多少の見切りもある。
多少の経験則もある。
多少の「このくらいなら行けるだろう」もある。
それでも毎日、大半の交差点は何とか流れている。

もちろん、それが褒められた運転だとは言わない。
だが、社会はそういう不完全さを含んだまま回っている。
そして事故が起きた途端、その日常の曖昧さは消される。
法廷の中では、あとから立派な言葉に置き換えられる。
あの時点で予見可能だった。
あの時点で回避可能だった。
だから過失がある、と。

ここで市民感覚は立ち止まる。
本当にそうなのか、と。

120キロ近い接近を、現場の一瞬で読めと言うのか

相手が普通の直進車ならまだしも、今回は白バイである。
しかも相当な高速度で接近していた。
そこに、多くの人は引っかかった。
120キロ近い速度で来る相手を前提に、右折の成否を語るのか。
それを現場の一瞬にいる運転者へ求めるのか。
後からなら、いくらでも言えるではないか。
そう思った人は少なくないだろう。

法は、そこを別の言い方で処理する。
120キロを予見しろと言っているのではない。
右折開始の判断自体が安全ではなかったのだ、と。
理屈としては、たしかにそう組める。
だが市民から見れば、その理屈はあまりにも便利である。
相手がどれほど異常な速度で来ていても、最後には「右折側の確認不足」でまとめられるのなら、右折車はいくらでも後から悪者にできる。

相手が警察だと、なおさら白ける

しかも相手は警察である。
ここが、この件をさらに白けさせる。
人は、条文より先に公平さの匂いを嗅ぐ。
警察側の危険な走行には事情が説明される。
一方、トラック運転手の右折には厳格な義務が当てられる。
この構図を見た時、市民は理屈の細部より先に、こう感じる。

ああ、そっちは守られるのだな、と。

もちろん裁判所は、そんな露骨なことは言わない。
もっと整った言葉で語る。
法理論という形にして語る。
その方が、ずっと上品だからである。
だが、上品に見えることと、公平に見えることは同じではない。

「感情ではなく法で考えろ」という言い方の冷たさ

こういう時、よく言われる。
感情ではなく法で考えなければならない、と。
それもまた、一面では正しい。
だが私は、その言い方にはいつも妙な傲慢さを感じる。
なぜなら、市民は法学部の講義室で生きているのではないからである。

人は判例集をめくりながら右折していない。
不完全な視認、不完全な距離感覚、不完全な交通の流れの中で運転している。
その現実を棚に上げて、事故のあとからだけ完全な理屈を当てるなら、法はいつでも勝てる。
だがそれは、正しいというより、あと出しで強いだけにも見える。

法が市民感覚から離れて見える時

しかも今回のように、相手が警察であればなおさらである。
市民はそこで、法の正しさより先に、権力との距離を感じる。
自分が同じ立場になった時、はたして同じだけ丁寧に事情を見てもらえるのか。
それとも、こちらの不完全さだけが厳格に切り取られるのか。
その疑いが生まれた時点で、判決がどれだけ法理論として整っていても、社会の信頼は削られていく。

執行猶予が付いたから、それで納得できるのか

執行猶予が付いたから温情がある、という見方もあるだろう。
たしかに形式としてはそうかもしれない。
だが市民感覚からすれば、問題はそこではない。
実刑か執行猶予かの前に、なぜこの構図で有罪になるのか、そこが引っかかっているのである。
有罪だけはきっちり取る。
ただし強くは罰しない。
それで話を納めようとするなら、かえって「結論だけは最初から決まっていたのではないか」という印象すら残る。

判決が終わらせるのは事件だけで、納得ではない

法は一件を終わらせる。
判決は確定する。
手続は閉じる。
だが、そのたびに市民の納得が置き去りにされるなら、残るのは信頼ではない。
冷えた諦めである。

そして諦めた市民は、もう法を敬わない。
ただ、逆らえないものとして眺めるだけになる。
あるいはもっと悪く、相手が誰かで結論が変わる世界なのだと学習するだけになる。

もしそうなった時、失われるのは一人の被告人の評判だけではない。
法そのものへの信用である。

まとめ

法の理屈は分かる。
だが、それで市民が安心すると思うなら、少し考えが甘い。
今回の判決が示したのは、法の整合性というより、法が市民感覚からどれほど離れて見えうるか、という事実ではないか。

法は正しい。
だから安心しろ。

そう言われて安心できるほど、
市民はもう素直ではない。

それで守られるのは、市民の安心ではない。
せいぜい、権力の体面だけだろう。


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