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S320|粗探しが情報発信を殺す――「ほんだし」AI画像炎上を見て思うこと

味の素の公式Xに掲載された「ほんだし」の画像が炎上したという記事を読んだ。

投稿された画像では、「ほんだし」のパッケージに書かれた文字やロゴの一部が崩れていたという。

味の素側の説明によれば、実写写真の明るさや背景をAIで変更した際に生じたもので、確認不足だったとして謝罪している。ITmediaの記事では、この問題について「AIを使用したこと」そのものではなく、崩れた自社商品の画像を公開したことから感じられる「商品と顧客へのリスペクトの欠如」が炎上の本質だと論じている。

記事の主張にも分かる部分はある。

自社商品のロゴや商品名がおかしくなっているのだから、公開前に確認した方がよかった。それはその通りだろう。

しかし私は、この一件を見て別のことを思った。

こんな細かいことで、いちいち炎上していたら、何も投稿できなくなるのではないか。

そもそも、何を伝えるための投稿だったのか

ここで一度、投稿の目的に戻ってみたい。

問題になった投稿の本質は、「ほんだし」のパッケージを鑑賞してもらうことではない。

「ほんだし」を使って、めんつゆを手軽に作る方法を紹介することだった。

つまり主役は、

「めんつゆをサッと作れる」

という情報である。

商品画像は、その情報を分かりやすく伝えるための補助だったはずだ。

もちろん画像は正しい方がいい。

しかし、画像のロゴが少し崩れていたからといって、めんつゆの作り方そのものが間違っているわけではない。食品安全上の問題が発生したわけでもない。価格や内容量を誤って表示したわけでもない。

それにもかかわらず、画像を拡大して、

「文字が崩れている」

「AIを使ったのではないか」

「自社商品なのにこんな画像を出すのか」

と騒ぎ始める。

私は、この反応の方に違和感を覚える。

間違いを見つけることが目的になっていないか

ロゴの崩れを指摘すること自体が悪いとは思わない。

「ここ、おかしくなっていますよ」

で済む話なら、それでいい。

問題は、小さなミスを発見したところから、

「企業としてあり得ない」

「商品への愛がない」

「AIで手を抜いた結果だ」

というところまで話を膨らませてしまうことである。

そこまで行くと、本来の情報を評価することよりも、

「間違いを見つけた側が相手を断罪すること」

の方が目的になってしまってはいないだろうか。

品質管理の仕事でも、すべての不具合を同じ重大度では扱わない。

人命や安全に関わる不具合と、外観上の微細な傷を同じものとして扱えば、品質管理そのものが成り立たない。

情報発信でも同じではないだろうか。

食品として危険な内容なのか。

消費者を誤認させる内容なのか。

単なる画像上の違和感なのか。

本来なら、その重大度を分けて考えるべきだと思う。

SNSでは、それが全部「炎上」という一つの箱に放り込まれてしまう。

「AIを使うのはズル」という感覚

もう一つ、今回の騒動の遠因にあると思うのが、

「AIを使うのはズルだ」

という感覚である。

生成AIに対しては、いまだに

「楽をしている」

「手抜きだ」

「人間がちゃんと作れ」

という反応がある。

だからAIによる画像の崩れを見つけると、

「ほら見ろ。AIなんか使うからこうなる」

という話になりやすい。

だが、本当にそうなのだろうか。

画像を加工するならPhotoshopを使えばいい、という意見もあるだろう。

しかしPhotoshopは非常に高機能なソフトである。

個人で導入するには費用もかかるし、使いこなすには相応の学習が必要になる。

レイヤー、マスク、選択範囲、色調補正、合成。

ちょっと背景を変えたい、少し明るくしたいというだけの人が、それらを一から覚えるのは簡単ではない。

生成AIなら、

「背景を明るくしてほしい」

「この部分を消してほしい」

と頼めば、それなりの結果を短時間で得られる。

これは「ズル」なのだろうか。

私は違うと思う。

生成AIの大きな価値の一つは、

これまで専門技術を持つ人にしかできなかったことの敷居を下げたこと

にある。

計算機が暗算を不要にし、Excelが大量の計算を容易にし、デジタルカメラやスマートフォンが写真撮影を身近なものにした。

生成AIも、その延長線上にある道具だと思っている。

ITmediaの記事自身も、現在のスマートフォンでは複数画像の合成やAIによる補正が日常的に行われており、私たちは意識せずAI加工された写真を使っていると指摘している。

ならば、「生成AIを使った」というだけで道徳的な意味まで付け加える必要はない。

AIにはAI特有の欠点がある

もちろん、生成AIならではの問題もある。

Photoshopで背景だけを加工したなら、触っていない「ほんだし」の文字が突然別の形になることは普通はない。

生成AIでは、それが起こる。

背景を直したつもりなのに、商品まで勝手に描き直してしまう。

ここは人間側が理解しておく必要がある。

今回の味の素の件についても、

「AIを使ったから悪い」

ではなく、

「AIという新しい工程を導入したのに、それに対応した確認方法が十分ではなかった」

と考えればいいのではないか。

実際、ITmediaの記事も結論ではAIを全面禁止するのではなく、ブランドに関わる部分について生成後のチェックが必要だとしている。

これは精神論ではなく、単なる工程管理の問題として考えることもできる。

新しい道具には新しい癖がある。

その癖を理解して使えばいい。

しかし、確認をどこまで求めるのか

とはいえ、ここでも難しい問題が出てくる。

企業の公式発信だからといって、あらゆる画像をピクセル単位で確認することを求めるのだろうか。

SNSにちょっとした料理の工夫を紹介するだけでも、

ロゴは崩れていないか。

背景に不自然なものはないか。

指の本数は合っているか。

文字は一字も変わっていないか。

AI使用と疑われる部分はないか。

拡大したときに問題になるところはないか。

そんなことを一つ一つ確認しなければ投稿できないとなったら、企業側が取る行動は簡単である。

「そこまで面倒なら、投稿しない。」

となる。

企業が一番避けたいのは炎上である。

便利なレシピを一つ紹介して得られる利益より、炎上したときの損失の方が大きいなら、最初から発信しない方が合理的になってしまう。

結果として失われるのは、企業側の発信機会だけではない。

私たち消費者が受け取れる、

「こんな使い方もありますよ」

「こうすると簡単ですよ」

という小さな情報も失われていく。

完璧を要求すると、誰も話さなくなる

これは企業だけの問題でもないと思う。

個人のSNSやブログ、noteでも同じである。

誤字が一文字あった。

写真の一部がおかしかった。

表現が少し不正確だった。

そのたびに内容全体を否定され、投稿者の人格や姿勢まで批判されるのであれば、丁寧に考える人ほど発信しなくなる。

「間違えたら直せばいい」

程度の社会の方が、私は健全だと思う。

もちろん、医療、安全、法律、災害情報など、間違いが重大な結果につながる分野では話が違う。

だが、すべての情報発信に同じ精度を要求する必要はない。

めんつゆの作り方を紹介する投稿の画像で、「ほんだし」のロゴが少し崩れていた。

それを見つけた。

なら、

「ここ、AI加工で崩れていますよ」

で終わってもよかったのではないか。

粗探しが情報発信を殺す

今回の騒動を見て、私はAIの画像生成技術よりも、むしろ受け手側の問題を考えてしまった。

間違いを指摘することと、間違いを材料に相手を断罪することは違う。

そして、

小さな瑕疵を許さない社会は、必ず発信する側を萎縮させる。

生成AIによって、これまで専門技術を持っていなかった人でも、文章を書き、画像を作り、アイデアを形にできるようになった。

これは面白い時代になったと思う。

その一方で、生成AIで作ったものに小さなミスがあれば、

「AIを使ったからだ」

「ズルをしたからだ」

「愛がない」

と騒ぎ立てる。

それでは、新しい道具が持つ可能性まで潰してしまう。

AIで作ろうが、Photoshopで作ろうが、手描きで作ろうが、本来見るべきなのは、

「何を伝えようとしているのか」

ではないだろうか。

今回の投稿なら、

「めんつゆをサッと作れる」。

まず見るべきなのは、そこだったはずだ。

細かなロゴの崩れを見つけることよりも、その情報によって誰かの料理が少し楽になることの方が、私はずっと大切だと思う。

間違いを見つける目は必要だ。

しかし、それ以上に、

その間違いが、本当に騒ぎ立てるほど重要なものなのかを判断する目

も必要なのではないだろうか。



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