S207|カスハラ問題を、配膳ロボットと朱子学から見る
最近、配膳ロボットが飲食店で珍しくなくなった。
猫型のロボットが料理を運び、客はそれを自然に受け入れている。
一見すると、これはただの省力化に見える。
人手不足、賃金上昇、採用難。そうした事情の中で、配膳という単純反復作業を機械に置き換えているだけだ、という説明で終わりそうである。
だが、現場で起きていることは、それだけではない。
配膳ロボットは、単に料理を運ぶ機械ではない。客の期待値を下げる装置としても働いている。
ここに、昨今のカスタマーハラスメント問題を考える手がかりがある。
厚生労働省は、カスタマーハラスメントを「正当なクレーム」とは切り分け、過剰要求や不当な言いがかりから従業員を守る必要があると整理している。さらに東京都では、2025年4月1日からカスタマー・ハラスメント防止条例が施行され、「顧客等と働く全ての人が対等な立場に立つ」ことが打ち出された。つまり、国や自治体の水準でも、すでに「客が常に上」という発想は見直しの対象になっている。
配膳ロボットは、単なる省力化ではない
配膳ロボットは、たしかに人手不足対策の道具である。
飲食や宿泊分野では人手不足感が引き続き高く、企業側は省力化投資を迫られている。実際、厚労省の白書や関連資料でも、宿泊・飲食サービス分野の人手不足の強さと、省力化投資の必要性が示されている。
だが、現場感覚ではもう一つの効き目が大きい。
それは、ロボットには過剰な期待をしにくいということだ。
人間の店員が相手だと、客は無意識にこう考える。
「これくらい察してくれるだろう」
「細かい注文にも応じるべきだ」
「説明できて当然だ」
「少し強く言えば、特別対応してくれるはずだ」
この期待が膨らみすぎると、やがて理不尽になる。
そして理不尽は、しばしば「サービスの範囲」という顔をして現れる。
その点、ロボットは違う。
機械だと分かっているから、客は最初から期待値を下げる。
細かい気配りまで求めない。
空気を読めとも言わない。
できないことは「仕様」だと受け止めやすい。
ここが重要である。
配膳ロボットは、人間の代わりではなく、客の期待を制限する防波堤としても機能している。
カスハラの土台には、「客は上」という空気がある
カスハラは、突然どこからか湧いてきた悪癖ではない。
その土台には、長く社会に染み込んできた「客は上、店員は下」という空気がある。
本来、商売は対等な交換である。
店は商品やサービスを提供し、客はその対価を払う。
そこに絶対的な上下関係はない。
だが現実には、客がまるで支配者のように振る舞い、店員がそれを受け止め続ける構図ができやすい。
その結果、正当な要望と過剰要求の境目が曖昧になる。
「客なのだから多少は許される」
「店員は我慢して当然だ」
そんな空気が、理不尽を育ててしまう。
だからこそ東京都の条例は、「顧客等と働く全ての人が対等な立場に立つ」と明記したのだろう。
これは単なる標語ではない。
今まで当たり前のように存在していた上下関係の空気に、制度の側から一線を引いたのである。
ここに、朱子学の毒がある
この「客は上、働く者は下」という感覚は、単なる商習慣だけではない。
もっと深いところで、日本社会に染みついた秩序観とつながっている。
その一つの源として、私は朱子学の毒を見る。
朱子学そのものは、本来もっと大きな思想体系であり、単純化して叩くだけでは足りない。
だが日本社会の中では、しばしば「秩序を守ることが善」「上下を乱さないことが徳」という形で受け取られてきた。
すると、人は役割に縛られる。
客は上でなければならない。
店員は下でなければならない。
部下は逆らってはならない。
下の者は耐えるのが美徳。
波風を立てないことが正しい。
こうして、礼は生きた関係ではなく、空気の強制装置になる。
接客の現場でも同じである。
丁寧であること自体は悪くない。
だが丁寧さが、「無限に耐えること」「断らないこと」「理不尽も呑み込むこと」にすり替わると、それはもう礼ではない。
ただの服従である。
ここに朱子学の毒がある。
礼が人を立てるためではなく、人を縛るために使われる。
秩序が人を守るためではなく、人をすり減らすために働く。
それが、今のカスハラ問題の底にある。
配膳ロボットは、朱子学的秩序を少し壊す
面白いのは、配膳ロボットがこの秩序を少し壊していることだ。
ロボットに向かって、「空気を読め」とは言いにくい。
「お客様なんだから特別扱いしろ」と迫っても、機械は応じない。
つまり、ロボットの登場によって、接客の場にあった擬似的身分秩序が一部切断されるのである。
人間の店員が相手だと、客は感情や圧力をぶつける。
しかしロボット相手では、それが通じない。
最初から通じないものに対しては、過剰な支配欲も働きにくい。
この意味で、配膳ロボットは単なる自動化機器ではない。
「客がどこまで要求してよいか」を再設定する装置でもある。
だから、現場によってはこういう逆説が成り立つ。
未熟なアルバイトを無理に前面に立たせるより、
配膳はロボットに任せ、
説明や判断や謝罪が必要な場面だけ人が出る。
この方が、客も納得しやすく、現場も荒れにくい。
人を減らすからではない。
期待値を切り分けられるからである。
これから必要なのは、「丁寧さ」ではなく「境界線」である
日本の接客は、長く「丁寧さ」を競ってきた。
だが、その丁寧さが青天井になると、現場は壊れる。
これから必要なのは、丁寧さの総量を増やすことではない。
どこまでが店の責任で、どこから先は応じないのか。
その境界線を明確にすることである。
厚労省がカスハラ対策マニュアルを整備し、2025年にはスーパーマーケット業向けの業種別マニュアルも公表したのは、その方向を示している。つまり、個々の従業員の忍耐ではなく、事業者として線を引くことが求められているのである。
配膳ロボット、セルフレジ、モバイルオーダー。
これらは単なる便利機能ではない。
過剰な対人期待を減らし、現場を守るための「構造的防具」でもある。
朱子学的な空気の中では、下の者が黙って耐えることが美徳とされやすい。
しかし、そんな美徳はもう限界である。
礼は、人を生かすためにある。
秩序は、現場を守るためにある。
もしそれが逆に働いているなら、もはや改めるべき時である。
終わりに
カスハラ問題は、単なるマナーの悪化ではない。
人手不足だけの話でもない。
そして、接客業の教育不足だけでもない。
その底には、
「客は上である」
「働く者は耐えるべきである」
という、古い秩序観が残っている。
配膳ロボットが広がっているのは、効率化のためだけではない。
人間に無限の忍耐を求める仕組みが、すでに破綻し始めているからである。
もし配膳ロボットが、現場を少しでも楽にし、客との距離を適正に戻し、理不尽な期待を切る役に立つのなら、あれはただの機械ではない。
朱子学の毒で固まった接客空間に、小さな風穴を開ける存在なのだと思う。
