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K608|字(あざな)は「行遠」


1.現代に字を持つということ

このnoteでは、私は「行遠」と名乗っている。

最近、「蓮心不敗」についての記事を書き、『弓道日本』に掲載された自分の原稿についても紹介した。
そうすると当然、実名で書いた文章と、このnoteを書いている「行遠」がつながってくる。

隠そうとしているわけではない。
ただ、そうなると今度は、「行遠とは何なのか」を書いておいた方がよいと思うようになった。

ペンネーム、と言ってしまえば簡単である。
しかし私自身は、「行遠」を単なるペンネームとは考えていない。

これは私の字(あざな)である。

2.字という、もう一つの名前

字という文化は、現代の日本ではほとんど使われなくなった。

もともと中国では、実名とは別に用いる名として字があり、日本でも学者や文人などがそれにならって字を用いた。

たとえば諸葛亮なら、名は亮、字は孔明である。
現代日本でわざわざ字を持つとなれば、時代錯誤と思われるかもしれない。
それでも私は、この仕組みが好きである。

人には、生まれたときに与えられた名前がある。

それとは別に、

自分はどうありたいのか。
何を忘れずに生きるのか。

そのための名前があってもよいと思う。
実名が「与えられた名前」だとすれば、字は「自分で引き受ける名前」である。少なくとも、私はそういうものとして使っている。

3.行遠の出所

「行遠」の二字は、『中庸』の一節に由来する。

君子之道、辟如行遠必自邇、辟如登高必自卑。

中庸

遠くへ行こうとするなら、必ず近いところから始める。
高いところへ登ろうとするなら、必ず低いところから始める。

「行遠」だけを取り出せば、「遠くへ行く」という大きな言葉に見える。
しかし私が大切にしているのは、その後に続く、

必自邇――必ず近きよりす

の方である。

遠くを望むことそのものは難しくない。
大きなことを言うこともできる。
高い理想を掲げることもできる。
難しいのは、その遠さと、今日の一歩をつなぐことである。

だから私にとって「行遠」は、遠くへ行く者という称号ではない。

むしろ、遠くへ行きたいのなら、まず足元から始めよと自分に言い聞かせる名前である。

4.弓道ほど、この言葉が似合うものもない

弓道を始めた頃は、段位が上がれば何かが分かるようになると思っていた。
的中が増えれば、射が完成へ近づくようにも思えた。
しかし、長く続けていると、むしろ逆のことが起きる。
分かるようになったことで、分からないものが増える。
できるようになったことで、自分のできていないところが見えてくる。

一つ直せば、別の問題が現れる。
昨日できたことが、今日はできない。
何年も向き合っている癖が、また顔を出すこともある。
弓道には、どこかに「完成」があって、そこへ一気にたどり着けるわけではない。
結局、できることは一射ずつ積み重ねることだけである。

遠くへ行こうとしても、次の一矢を飛ばすことはできない。

行遠必自邇。

弓道を続けるほど、この言葉は重くなる。

5.遠くを見ることと、近くを見ること

遠くを見ることと、足元を見ることは、反対ではない。
遠くを見るから、方向を失わない。
近くを見るから、実際に歩くことができる。

どちらか一方だけでは進めない。
理想だけを見ていれば、自分の現在地が嫌になる。

現在地だけを見ていれば、何のために続けているのか分からなくなる。
だから、遠くを見ながら、近くを歩く。

これは弓道だけの話でもないと思う。
修行でも、仕事でも、文章を書くことでも同じである。

大きなものは、一度には作れない。
思想も、一日で完成しない。
一つ考え、一つ書き、一つ間違え、また考える。

遠くまで続いた道を振り返ったとき、そこにあったのは、結局、小さな歩みの連続だけである。

6.行遠と蓮心不敗

最近、一心庵弓道場で掲げている「蓮心不敗」について、あらためて文章にした。

蓮心不敗とは、誰にも負けないという意味ではない。

失敗しても、思うようにいかなくても、自分を失わず、また次の一矢へ戻る姿勢を表している。

考えてみれば、「行遠」と「蓮心不敗」はよく似ている。
しかし、同じものではない。

行遠は、歩み方を示す。

遠くへ行くには、近きより始める。
一歩ずつ進む。
一射ずつ積み重ねる。

一方で、

蓮心不敗は、その途中でどうあるかを示す。

泥の中にあっても、泥に染まり切らない。
失敗しても、自分の課題から逃げない。
勝てなくても、敗れない。

行遠が「道」であるなら、蓮心不敗は、その道を歩くときの「姿勢」と言ってもいい。

遠くへ行く。
しかし、急がない。

転ばないことを求めない。
転んだなら、また立つ。
そして次の一歩を出す。

この二つの言葉は、私の中ではそうつながっている。

7.実名を隠すための名前ではない

インターネットで別の名前を使っていると、それは匿名のためのハンドルネームだと思われやすい。確かに「行遠」という名を使い始めたときには、実名とは別の名前としての気楽さもあった。

しかし今では少し違う。
実名で弓道の文章を書き、「行遠」としてnoteを書き、
一心庵弓道場で「蓮心不敗」を掲げている。

それらは別々の人格ではない。
全部、同じ一人の人間がやっていることである。
だから、行遠という名も、実名を隠すための仮面ではなくなった。

むしろ、どのような姿勢で物事を考え、書いているのかを示す名前になっている。

実名でなければ書けないものがある。
字だから書けるものもある。

私はその二つを、無理に一つへまとめる必要はないと思っている。

8.名前は、自分への問いである

「行遠」と名乗ったからといって、遠くへ行けるわけではない。
「蓮心不敗」と掲げたからといって、敗れなくなるわけでもない。

むしろ逆である。

できていないから、掲げる。
忘れるから、名前にする。
迷うから、戻る場所を作る。

字とは、私にとって自分を飾るためのものではない。
自分が何を忘れてはいけないのかを、何度でも思い出すための名前である。

遠くへ行きたいと思う。
しかし、遠くだけを見ない。
まず、目の前の一歩から始める。
弓を持てば、目の前の一矢から始める。
そして、うまくいかない日にも、またそこへ戻る。

行遠必自邇。

遠くへ行くには、必ず近きよりす。
だから私は、行遠と名乗っている。


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