E002|英語教育は、いつから全員にピアノを弾かせる授業になったのか
1.英語は本来、コミュニケーションの道具である
英語は、本来コミュニケーションの道具である。
相手の言っていることを理解する。こちらの用件を伝える。海外の情報を読む。必要があれば、仕事や研究で使う。そのための道具である。
ところが、日本の中高教育における英語は、道具というより、進路を振り分けるための選別装置になっているのではないか。
私は、そこに強い違和感がある。
2.音楽の授業で、全員がピアノを弾けるようになるだろうか
このことは、音楽の授業にたとえるとわかりやすい。
音楽は中学校で全員が学ぶ。しかし、音楽の授業を受けたからといって、全員がピアノを弾けるようになるとは誰も思っていない。
楽譜が少し読める。歌える。リズムが取れる。音楽を聴いて感じることができる。その程度が、一般教育としての音楽である。
ピアノを弾ける人は、その先にいる。
家庭に楽器があったり、幼いころから習っていたり、練習時間を積んでいたりする。つまり、ピアノが弾けることは、一般教養というより、かなり特殊な技能である。
英語も同じではないか。
英語を少し読める。簡単な挨拶ができる。注意書きがわかる。AI翻訳を使って英文情報にアクセスできる。ここまでは、現代の一般教育として意味がある。
しかし、英語を自然に話せる、聞き取れる、発音できる、英文を自在に書けるというのは、音楽でいえばピアノを弾ける人に近い。
かなりの訓練と環境が必要な技能である。
3.英語だけが、なぜ特殊技能を選別に使うのか
それなのに、英語だけは、全員にピアノ演奏能力を求めるような重さで扱われている。
しかも、その能力が進学や就職の選別に使われる。
音楽の授業で、ピアノが弾ける生徒だけを上位校に進ませるとしたら、多くの人はおかしいと思うはずである。だが、英語ではそれに近いことが起きている。
英語を話せる人を否定しているのではない。
ピアノを弾ける人がすばらしいように、英語を話せる人もすばらしい。
ただ、それを全員に要求し、人生の振り分けに使うのは別問題である。
4.努力だけでは越えにくい壁がある
さらに言えば、ピアノも努力だけで全員が同じように弾けるわけではない。
努力で伸びる人はいる。だが、努力しても五線譜の読み込みでつまずく人もいる。右手と左手を別々に動かすことが難しい人もいる。リズムを取ることが苦手な人もいる。
音感や指の動きには、どうしても個人差がある。
英語も同じである。
努力すれば誰でも同じように話せる、というものではない。文字を音に変換するところでつまずく人がいる。ローマ字読みから抜けられない人がいる。アクセントの位置がわからない人がいる。発音記号を見ても、それ自体が暗号のように見える人がいる。
五線譜は、読める人にとっては音楽を支える便利な道具である。
しかし、読めない人にとっては記号の壁になる。
発音記号もそれに近い。
英語の音を正確に示すための道具であるはずなのに、英語が苦手な生徒には、英単語という暗号の上に、さらに別の暗号を重ねられたように見える。
5.私にとって英語は暗号だった
私自身、done を長い間「ドーン」のように読んでいた。
大人になってから、それが「ダン」だと知った。英語の基本単語であるはずなのに、そこでつまずいていたのである。
water も、頭の中ではローマ字読みで「ワーテル」のようになっていた。
see の過去形が saw であることも、直感的にはわからない。seed ではないのか、と思ってしまう。
これは単なる怠けではない。
日本語のローマ字読みの感覚でアルファベットを見ると、英語のつづりと音の関係はかなり理不尽に見える。
o があるのに done は「ダン」。
come は「カム」。
does は「ダズ」。
英語のつづりは、初心者には暗号のように見える。
その上で、三単現の s、a と the、不定詞、現在完了、関係代名詞、アクセント問題まで積み上げられる。
これは、五線譜も十分に読めない生徒に、いきなり高度な楽曲を渡しているようなものだ。
6.長文問題は、ショパンのポロネーズである
英語の長文問題などは、まさにそれである。
楽譜の読み方も怪しい。音符の長さも怪しい。右手と左手を別々に動かす訓練も足りない。そういう生徒に、いきなりショパンのポロネーズを演奏させるようなものである。
できる人はできる。
だが、それはかなり訓練を積んだ人の領域である。
英語も、単語の読み方がわからない。発音記号は暗号のように見える。アクセントもわからない。a と the、三単現の s、不規則動詞でつまずく。
その状態で長文問題を解かせるのは、基礎練習を飛ばして難曲を弾かせるようなものだ。
だから、英語が苦手な生徒にとって、長文問題は最初から捨てる対象になりやすい。
これは怠けではない。課題の階段が高すぎるのである。
7.本当に必要なのは、英検3級程度の基礎ではないか
本当に英語を道具として身につけさせたいなら、長文問題で選別する前に、短い文を確実に読めること、基本動詞を音で覚えること、簡単なやり取りができることを重視すべきである。
たとえば、英検3級程度の内容を確実に身につければ、簡単なやり取りはできるはずである。
自己紹介をする。
道をたずねる。
困っていることを伝える。
相手の簡単な説明を聞く。
短い文章を読む。
海外旅行や日常的な場面で最低限の対応をする。
本当に「英語でコミュニケーションする力」が目的なら、まずそこを徹底すればよい。
しかし現実には、そこが十分に身体化される前に、どんどん上へ積まれていく。
関係代名詞、現在完了、仮定法、分詞構文、長文読解、入試問題。
英語を使うためというより、英語で順位をつけるための学習になっていく。
8.学校の授業だけで英語を話せるようになった人を見ない
そのことを示す素朴な事実がある。
私は、学校の授業だけで英語を話せるようになった人をほとんど見たことがない。
英語を話せる人は、多くの場合、学校の外で別の経験をしている。
英会話に通った。
留学した。
海外の人と仕事をした。
洋画や海外ドラマを大量に見た。
家庭に英語環境があった。
仕事上、必要に迫られて覚えた。
つまり、英語を話せる人は、音楽でいえば、学校の音楽の授業だけでピアノを弾けるようになった人ではない。
学校外で練習し、環境を得て、時間を積んだ人である。
もし学校英語が本当に「英語を話せるようにする教育」として機能しているなら、中高六年間を終えた人の多くが、簡単な英会話くらいは自然にできるはずである。
だが、現実はそうなっていない。
それにもかかわらず、英語は進学や就職の選別に重く使われ続けている。
ここに大きな矛盾がある。
話せるようにする教育としては不十分なのに、選別する科目としては強力に機能している。
だから私は、現在の英語教育はコミュニケーション教育というより、進路を振り分ける装置になっているのではないかと思う。
9.英語は選別装置として都合がよすぎる
高給取りの会社や人気大学には定員がある。全員を入れることはできない。
だから、どこかで選別しなければならない。
そのとき英語は非常に都合がよい。
「グローバル化」という大義名分がある。塾や家庭環境の差も出やすい。得意な人と苦手な人の差も点数にしやすい。しかも、英語ができることは一見すると知的能力や努力の証明のように見える。
結果として、英語は「使うための道具」ではなく、「選ばれるための関門」になっている。
これはかなり問題だと思う。
英語そのものが悪いわけではない。
外国語を学ぶことには意味がある。異なる文化や考え方に触れることも大切である。海外の情報を直接読めることも強い。
しかし、中高の貴重な時間と労力を、今のような重い英語教育に注ぎ込み続けることが、本当に妥当なのか。
10.そのリソースを別の学びに使うべきではないか
そのリソースを、もっと別のことに使うべきではないか。
たとえば、国語力である。
日本語で正確に読み、考え、書き、説明する力は、どの職業に就いても必要になる。英語以前に、日本語で自分の考えをまとめられないと、仕事でも社会生活でも困る。
情報教育も必要である。
AI、検索、データの読み方、セキュリティ、プログラミングの基礎。これからの時代、英語そのものより、AIを使って必要な情報にたどり着く力の方が実用的な場面は増える。
専門教育も重要である。
工業、農業、商業、福祉、医療、法律、税金、金融、地域産業。生活や仕事に直接結びつく学びは多い。
英語の細かい文法で生徒を振り分けるより、各自の適性に応じた専門性を育てる方が、社会にとっても本人にとっても価値がある。
11.AI時代に必要なのは、英語そのものより判断力である
今はAIがある。
専門的な英語文書が必要になったとき、AI翻訳や要約を使えばよい。
もちろん、完全に任せきりでは危険である。だからこそ必要なのは、英語の細部を丸暗記する力ではなく、専門知識を持ったうえで、AIの訳が妥当かどうかを判断する力である。
英語ができるだけで、専門がわからなければ、誤訳に気づけない。
逆に、専門がわかっていれば、英語が多少弱くてもAIを使って内容に近づける。
だからこそ、英語教育はもっと軽く、もっと実用的でよい。
全員に求めるのは、英検3級程度の基礎を確実に使えること。
基本動詞を音で覚えること。
簡単な会話ができること。
AI翻訳を使い、原文と訳文を照合できること。
海外の注意書きや説明文を最低限読めること。
その先の高度な英文読解、発音、作文、専門英語は、必要な人が選択して深めればよい。
12.サムライイングリッシュでいい
そして、英語を話すなら、私はむしろ「サムライイングリッシュ」でよいと思う。
日本人が話す英語には、日本語訛りがある。それでよい。
インド英語、シンガポール英語、フィリピン英語、中国語訛りの英語、フランス語訛りの英語があるように、日本人には日本人の英語があってよい。
問題は、ネイティブのように発音できないことではない。
相手に意味が伝わらないことである。
R と L が多少あいまいでもよい。TH が「ス」や「ズ」に近くなってもよい。アクセントが多少ずれてもよい。外国人も、日本人が日本語訛りの英語を話すことくらい想定している。
しかし、done を dawn のように読んで別の単語になってしまう、see の過去形 saw がわからない、数字や日時や危険表示を読み違える。
そこまで行くと、実用上の問題になる。
つまり、必要なのはネイティブ英語ではない。
通じる日本人英語である。
13.英語を本来の位置に戻す
音楽の授業で、全員をピアニストにする必要がないのと同じである。
英語教育も、全員を英語話者に仕立てる必要はない。
必要なのは、英語という道具を怖がらず、必要な場面で使える程度の基礎である。
英語は大切である。
だが、全員の進路を左右するほど重い選別装置である必要はない。
英語を軽んじるのではない。むしろ逆である。
英語を、本来の位置に戻すべきだと言いたい。
それは、人生を振り分けるための関門ではなく、必要なときに使う道具である。
道具ならば、使える範囲から身につければよい。
道具ならば、AIと組み合わせてもよい。
道具ならば、全員に職人級の精度を要求する必要はない。
英語教育に使っている膨大な時間、労力、塾代、精神的負担。
その一部でも、国語、情報、専門教育、生活知、地域文化、実務能力に振り向けた方が、子どもたちの人生にとって本当に役立つのではないか。
英語教育の問題は、英語が難しいことではない。
道具であるはずの英語が、いつの間にか人を選別する装置になっていることだ。
