P002|集団スポーツは本当に必要なのか――協力の名を借りた序列化
1.はじめに
以前、私は学校体育について書いた。
そこで扱ったのは、運動が苦手な者が、なぜ体育の時間に傷つきやすいのかという問題である。
単に「走るのが遅い」「球技が苦手」「体力がない」という話ではない。
問題は、身体能力の差が、そのまま人間の評価に変えられてしまうところにある。
足が遅い。
ボールを取れない。
ルールをすぐに理解できない。
周囲と同じように動けない。
それだけで、いつの間にか「鈍い」「使えない」「空気が読めない」と見られる。
これは運動能力の問題ではない。
集団の中で、できる者とできない者を分け、できない者を下に置く構造の問題である。
そして今回、改めて考えたい。
そもそも、集団スポーツは本当に必要なのか。
2.「協力を学ぶ」という言葉の危うさ
集団スポーツを肯定する言葉として、よく言われるものがある。
協力を学ぶ。
仲間との連携を学ぶ。
責任感を学ぶ。
ルールを守る心を学ぶ。
勝敗を通して人間的に成長する。
言葉としては美しい。
しかし、現場で本当にそれが実現しているのか?
ここを見なければならない。
実際には、協力ではなく同調圧力になっていることが多い。
連携ではなく、上手い者に合わせることになっている。
責任感ではなく、失敗した者を責める空気になっている。
ルールを守る心ではなく、強い者が場を支配する構造になっている。
つまり、言葉の上では「協力」と言いながら、実際には「序列化」が行われている。
ここが問題である。
集団スポーツそのものに意味がないのではない。
だが、意味を設計しないまま全員にやらせると、それは教育ではなくなる。
3.できる者中心に場が作られる
学校の集団スポーツでよく起きるのは、できる者中心の場づくりである。
サッカーなら、もともと上手い者がボールを持つ。
バスケットなら、運動神経の良い者が試合を動かす。
バレーボールなら、失敗した者のところで流れが止まる。
できる者は楽しい。
活躍できる。
周囲から認められる。
自分の能力を発揮できる。
だが、できない者はどうなるか。
ボールが来るのが怖い。
ミスをすると空気が悪くなる。
自分のせいで負けたように感じる。
なるべく目立たないように動く。
最後には「参加しているふり」をするようになる。
これで何を学べるのか。
少なくとも、身体を動かす喜びではない。
仲間と力を合わせる喜びでもない。
学ぶのは、集団の中で邪魔者にならないように振る舞う技術である。
これは教育とは言い難い。
4. 集団スポーツは、弱い者を露出させる
個人競技であれば、失敗は基本的に自分の中で完結する。
走るのが遅い。
跳べない。
投げられない。
泳げない。
それは確かに苦しい。
だが、まだ自分の問題として受け止めやすい。
ところが集団スポーツでは、自分の失敗が他人の結果に直結する。
自分がボールを取れなかったから失点した。
自分がパスを失敗したから攻撃が止まった。
自分が動けなかったから負けた。
この構造は、運動が苦手な者にとってかなり重い。
しかも、学校体育ではそこに逃げ場がない。
部活動なら、嫌なら入らなければよい。
趣味のスポーツなら、自分に合う場を選べばよい。
しかし体育は違う。
強制的に参加させられ、強制的にチームに入れられ、強制的に他人の目にさらされる。
それで「協力を学びなさい」と言われる。
これは、かなり乱暴である。
5.強制参加は、尊厳の剥奪である
ここでいったん立ち止まる必要がある。
「嫌でも参加しなければならない」という状況は、単なる不快ではない。
それは選択の剥奪であり、選択の剥奪は尊厳の剥奪である。
自分がそこにいることを選べない。
そこから離れることも選べない。
その場で何が起きるかも、コントロールできない。
この三重の無力感の中で、失敗を他者にさらされる。
この構造を冷静に見ると、学校で起きるいじめの場と重なる部分がある。
いじめは多くの場合、逃げ場のない場所で起きる。
被害者は「選択できない」状態に置かれている。
そして、失敗や弱さが他者の目にさらされ、それが攻撃の口実になる。
集団スポーツの体育が設計を誤ったとき、それはいじめの温床になりうる。
意図的な排除がなくても、構造そのものが人を傷つける。
体育の時間に誰かが笑われた。
ミスをした者が責められた。
遅い者が「足を引っ張った」と言われた。
これは「たまたま起きた問題」ではない。
強制参加・逃げ場なし・弱さの露出という三つの条件が揃ったとき、必然的に生まれる現象である。
6.本当に協力を学ばせるなら、設計が必要である
もし集団スポーツを教育として行うなら、必要なのは試合ではない。
設計である。
未経験者が傷つかない仕組み。
上手い者だけが活躍しないルール。
失敗した者を責めない空気。
苦手な者にも役割がある構成。
勝敗よりも、場の作り方を評価する視点。
これがなければ、集団スポーツは教育にならない。
ただボールを渡して、チームを作って、試合をさせるだけでは足りない。
それでは、もともとできる者が勝手に楽しみ、できない者がただ耐えるだけになる。
そして教師が最後に言う。
「みんなで協力しましょう」
だが、その協力とは何か。
誰が誰に合わせることなのか。
できない者だけが我慢することではないのか。
ここを問わなければならない。
7.「設計すればよい」という反論への答え
ここで一つの反論が来る。
「ちゃんと設計すれば、集団スポーツは教育になるのではないか」
確かにそうだ。
理念としては正しい。
しかし問題は二つある。
一つ目は、現実の教師の問題である。
そのような設計ができる教師が、すべての学校に、すべての学年に、安定して存在できるか。
現場はそうなっていない。
「体育の専門家」でも、集団心理の設計者として訓練された者はほとんどいない。
しかも、教師自身が「できる者だった」場合、できない者の苦しさが見えにくい。
二つ目は、人間集団の性質の問題である。
集団が形成された瞬間、序列化の圧力は自動的に発生する。
これは教師の技量の問題だけではない。
人間は他者を評価し、自分の位置を確認しようとする。
この働きは、仏教の唯識論では「末那識(まなしき)」の我執として説明される。
末那識とは、常に「自分とは何か」「自分はどこにいるか」を確認しようとする深層の識である。
集団の中に入ると、この働きは自動的に活性化する。
誰が上か。
誰が下か。
自分はどこに属するか。
この評価と序列の探索は、意識的なものではない。
子どもたちが「意地悪をしよう」と思っているわけではない。
構造がそれを引き出してしまう。
だから、設計は必要だが、設計だけでは足りない。
集団スポーツを全員に強制する体育のあり方そのものを、問い直す必要がある。
8.武道と集団スポーツの違い――唯識的に見ると
私は弓道を続けてきた。
弓道にも、もちろん人間関係はある。
道場の空気もある。
上下関係もある。
決してきれいごとだけではない。
それでも、弓道には一つの救いがある。
最後は、自分の射に戻れるということである。
誰かのせいで外れるわけではない。
誰かのために当てるわけでもない。
自分の心身が、一本の矢に現れる。
そこには逃げ場がない。
だが、他人に責められるための場でもない。
自分の未熟を、自分で見つめる場である。
唯識の言葉で言えば、弓道の一本は阿頼耶識(あらやしき)への直接の問いかけである。
阿頼耶識とは、すべての経験の記録が蓄積される根本の識であり、行為の結果(業の種子)が潜在する場所である。
弓を引くとき、私の身体の癖、心の揺れ、稽古の積み重ね、そのすべてが一本の矢に現れる。
他者の業は混入しない。
因果関係が純粋である。
ところが集団スポーツでは、この純粋な因果が崩れる。
自分の失敗が他人の結果に接続される。
他人の失敗が自分の結果に影響する。
「誰かのせい」「自分のせい」という業の絡み合いが生まれる。
この相互汚染的な構造の中で、子どもたちは何を学ぶか。
身体と向き合う技術ではない。
自分の因果を引き受ける力ではない。
学ぶのは、他者の業に巻き込まれたとき、どう自分を守るかという、集団内生存の技術である。
これは教育が目指すものではない。
9.集団スポーツは絶対に必要ではない
人には向き不向きがある。
一人で黙々と身体を動かす方が合う者もいる。
武道のように、自分の心身と向き合う方が伸びる者もいる。
登山、散歩、筋トレ、弓道、剣道、柔道、水泳のように、自分の身体感覚を深める方が合う者もいる。
身体教育の目的が、健康な身体と、身体を通した自己理解であるなら、集団スポーツだけが道ではない。
むしろ、集団スポーツに合わない者へ無理に押しつけることで、運動そのものを嫌いにさせている面がある。
これは本末転倒である。
ここで私の経験を一つ挙げる。
弓道では、的に当たらない時期が長く続くことがある。
ある時期、私は何をしても外れ続けた。
的中が出ない。
射形も崩れている。
稽古に行くたびに、自分の未熟さが露わになる。
それは確かに苦しかった。
しかし、そこで誰かを傷つけることはなかった。
誰かに迷惑をかけることもなかった。
外れるのは私の問題であり、私の阿頼耶識に蓄積された課題である。
その苦しさの中に、自分の身体を知る手がかりがあった。
集団スポーツの苦しさは、この構造と根本的に異なる。
外れたとき、失点したとき、その痛みは自分だけのものではなくなる。
「申し訳ない」という感覚が加わり、身体への注意が他者の目線に分散する。
これでは、身体と静かに向き合うことができない。
10.協力とは、弱い者を責めることではない
本当の協力とは何か。
それは、上手い者だけで勝つことではない。
できない者を責めて、排除することでもない。
全員が同じ動きをすることでもない。
本当の協力とは、力の差がある者同士が、同じ場に立てるように工夫することである。
上手い者が、下手な者をどう活かすか。
経験者が、未経験者にどう伝えるか。
苦手な者が、萎縮せずに参加できる形をどう作るか。
勝敗がついても、人間の上下にしない態度をどう保つか。
ここまで教えて、初めて集団スポーツは教育になる。
ただ勝たせるだけなら、教育ではない。
ただ競わせるだけなら、教育ではない。
ただ失敗者をさらすだけなら、教育ではない。
それは、集団の中で序列を確認しているだけである。
11.おわりに
集団スポーツが必要なのではない。
必要なのは、身体を通して、自分と他者の違いを知ることである。
必要なのは、できる者とできない者が同じ場に立つための作法を学ぶことである。
必要なのは、勝敗によって人間の価値を決めない感覚を育てることである。
そのための方法が、集団スポーツである必要はない。
むしろ、意味を設計しない集団スポーツは、人を育てるどころか、人を傷つける。
協力の名を借りた序列化。
教育の名を借りた同調圧力。
体育の名を借りた公開処刑。
そこに気づかなければならない。
一つ付け加えておく。
集団スポーツが「いじめの温床になりうる」と書いたとき、意図的な悪意を前提にしているわけではない。
悪意がなくても、構造は人を傷つける。
末那識の我執が集団の中で自動的に序列化を生む以上、設計なき集団スポーツは傷つく者を必ず生む。
これは特定の教師や子どもの問題ではない。
人間が集団になったときの性質の問題であり、その性質を無視した制度の問題である。
身体を育てることは、本来、人を自由にするためにある。
人を委縮させる体育なら、やらない方がよい。
人を序列に押し込むスポーツなら、教育とは呼べない。
集団スポーツは、絶対に必要なものではない。
必要なのは、身体を通して、自分の立ち方を学ぶことである。
そして他者と並び立つための礼を、身につけることである。
