E004|英語は、音楽や美術のように学べばよい
AI時代に、英語教育の位置づけを考え直す
読売新聞オンラインの記事で、次期学習指導要領に英語教育での「AIの適切な活用」が明記される方向だと報じられていた。記事では、AI翻訳が発達する時代において、外国語を学ぶ意義も再定義されるという。
この流れ自体は、当然だと思う。
むしろ、ようやくそこに来たか、という感覚の方が強い。
私は以前から、AI翻訳が当たり前になる時代に、全員に同じような英語教育を課すことには無理があると考えてきた。英語を学ぶこと自体を否定しているのではない。問題は、英語の位置づけである。
今の英語教育は、音楽で言えば、全員にピアノを弾かせようとしているようなものだ。
小学校から鍵盤に触れさせ、中学校では両手で弾けることを求め、高校では表現力まで要求し、大学入試でも評価する。そして社会に出てからも、「ピアノが弾けない人材は国際社会で通用しない」と言い続けているようなものである。
しかし、普通に考えればこれはおかしい。
音楽の授業は、全員を演奏家にするためのものではない。美術の授業も、全員を画家にするためのものではない。音楽では、リズムや旋律に触れ、歌い、聴き、表現を味わう。美術では、色や形や構図に触れ、描き、作り、鑑賞する。
それで十分意味がある。
英語も本来、そのような教養科目として扱えばよいのではないか。
外国語というものに触れる。日本語とは違う語順や発想があることを知る。英語圏の文化や表現に少し触れる。AI翻訳の結果を見たときに、明らかにおかしい部分に気づける程度の基礎を持つ。中学英語レベルの構造を理解し、必要に応じてAIを使いながら読み書きできる。
一般教育としては、それくらいでよいと思う。
一方で、本当に英語を必要とする人、本当に英語を深く学びたい人には、専門的に学ぶ道を用意すればよい。音楽に音大があり、美術に美大があるように、英語を本格的に使う人は、高校・大学・専門課程で深く学べばよい。
問題は、全員にそこまで要求していることである。
英語が得意な人にとって、英語は世界を広げる道具になる。だが、苦手な人にとっては、早い段階で劣等感を植えつける科目にもなる。しかも、英語の成績が進学や評価に大きく影響するため、単なる教養では済まなくなる。
これは音楽や美術とは違う。
歌が苦手でも、絵が苦手でも、それだけで人生の進路が大きく閉ざされることは少ない。しかし英語は違う。英語ができないことが、学力全体の低さのように扱われる。ここに大きな歪みがある。
AI翻訳が発達した今、この前提は見直されるべきだ。
もちろん、AIがあるから英語は不要だ、という単純な話ではない。AI翻訳を使うにも、最低限の言語感覚は必要である。変な訳、失礼な表現、意味がずれた文章を見抜くためには、母語である日本語の力と、外国語に対する基礎的な理解がいる。
しかし、それは「全員が英語を直接操れるようになるべきだ」という話とは違う。
これから必要なのは、英語を技能競争の科目として肥大化させることではない。英語を、外国語と異文化に触れるための教養科目へ戻すことだと思う。
音楽や美術のように、触れる。味わう。比べる。必要な人は深く進む。
その方が自然である。
AI時代の英語教育は、「AIを使ってもっと英語をやらせる」方向へ進むべきではない。むしろ、AIがある時代だからこそ、人間がどこまで英語を身につける必要があるのかを、冷静に切り分けるべきである。
全員を英語話者にしようとする教育は、もう限界に来ている。
これからの英語教育は、音楽や美術に近づいていくのが理想だと思う。全員が専門家になる必要はない。しかし、誰もが少し触れ、文化として味わい、必要な人がさらに深く進める。
そのくらいの位置づけに戻した方が、英語を嫌いになる子どもも減るだろうし、本当に英語を必要とする子どもも伸びやすくなる。
英語教育をやめるのではない。
英語教育を、現実に合う形へ改めるのである。
