S305|エコごっこ――ゴミを減らさず、善人ぶる社会
三毒から四諦へ見る、ペットボトルと見せかけの環境配慮
最近は、どこを見ても「エコ」である。
再生素材。軽量ボトル。ラベル削減。環境配慮。
耳ざわりのよい言葉はいくらでも並ぶ。
だが、売り場を見ればすぐに分かる。
過梱包の製品は減らず、ペットボトル飲料は山のように並び、飲み物の種類は必要以上に増え続けている。
これで「環境にやさしい」と言われても、正直、白々しい。
なぜこうなるのか。
三毒で見れば、その中身がかなりはっきりする。
そして四諦で見れば、何を改めるべきかも見えてくる。
問題は、容器の素材だけではない。
社会全体が、貪・瞋・痴によって無駄を増やし、その無駄を“エコ”という言葉で化粧しているのである。
貪――売れるだけ売りたい欲が、種類と容器を増やす
まず根にあるのは、貪である。
もっと売りたい。もっと並べたい。もっと買わせたい。
この欲が、飲料の種類を際限なく増やしてきた。
茶、炭酸、コーヒー、果汁、乳酸菌、エナジー、機能性飲料。
しかもその中で、無糖、微糖、強炭酸、季節限定、地域限定、コラボ商品と枝分かれしていく。
正直、そこまで要るのかと思う。
だが売る側から見れば、意味がある。
新商品として話題を作れる。
棚を埋められる。
既存商品が鈍れば、別の商品を出してまた買わせられる。
つまり、必要だから増えるのではない。売りたいから増えるのである。
当然、その分だけ容器も増える。
ラベルも増える。
輸送も在庫も廃棄も増える。
それでいて「環境配慮型新商品発売」と言うのだから、話としてはよくできている。
瞋――不便を嫌う心が、使い捨てを正当化する
次にあるのが、瞋である。
ここでいう瞋は、怒りだけではない。
手間を嫌い、不便を拒み、面倒なことから逃げたがる心である。
水筒を持ち歩き、店では中身だけ補充する。
理屈としては、これがかなり筋がよい。
容器は繰り返し使える。
毎回ペットボトルを捨てなくてよい。
ゴミも減る。
だが、この形は広がらない。
なぜか。
面倒だからである。
客は、水筒を洗うのが面倒。
店は、補充設備を整えるのが面倒。
企業は、売り方を変えるのが面倒。
流通は、回収や衛生管理を考えるのが面倒。
その結果、使い捨て容器が正当化される。
昔の瓶飲料が廃れたのも同じである。
瓶は返す。洗う。また使う。
仕組みとしては筋が通っていた。
だが、重い。割れる。回収が面倒。
だから、繰り返し使う仕組みではなく、使い捨てを大量に回す仕組みが勝った。
ここにも、便利さを優先して無駄を見過ごす瞋がある。
痴――本質を見ずに「再生だからエコ」と思い込む
三つ目は、痴である。
これが一番厄介かもしれない。
再生PETを使いました。
ラベルを減らしました。
ボトルを軽量化しました。
こうした話を聞くと、多くの人は「環境にやさしい」と思ってしまう。
だが、それはかなり浅い理解である。
再生PETも、勝手に元へ戻るわけではない。
回収し、分別し、洗浄し、再生するには、当然エネルギーが要る。
リサイクルは魔法ではない。
場合によっては、廃PETを燃料として使ったほうが合理的な面もある。
だが、そこでもなお本筋は別にある。
再生するか、燃やすか。
その前に問うべきは、
なぜそこまで大量のペットボトルを作り、飲んでは捨てる社会を前提にしているのか
ということだ。
本質を見ず、「再生しています」と言って安心する。
これが痴である。
後始末の方法ばかりを語り、発生そのものを減らそうとしない。
それでは、環境問題を見ているのではない。
ただ、罪悪感を薄めるための口実にしているだけである。
三毒がそろうと、エコは宣伝文句になる
貪があるから、商品数は増える。
瞋があるから、手間のかかる仕組みは嫌われる。
痴があるから、「再生」「軽量化」という言葉だけで満足する。
この三つがそろうと、何が起きるか。
エコが、無駄を減らす思想ではなく、無駄を続けるための宣伝文句になる。
本来、エコとはもっと地味なものである。
同じ容器を繰り返し使う。
余計な種類を増やさない。
必要以上に包まない。
中身だけ買えるようにする。
それだけのことである。
だが今は違う。
欲もそのまま。
便利さもそのまま。
使い捨てもそのまま。
その上で「環境配慮」と言う。
これでは、ゴミが減るはずがない。
では、四諦で見るとどうなるか
ここまでは三毒で見た。
では、この問題を四諦で見ればどうなるか。
むしろ、こちらのほうが整理しやすい。
苦諦――ゴミが減らないという現実
まず、苦がある。
それは何か。
エコを語りながら、現実にはゴミが減らないことである。
過梱包は残る。
ペットボトルは減らない。
飲料の種類は増え続ける。
再生素材を使っても、全体の使い捨て構造は変わらない。
つまり、「環境配慮」を言うほどには、社会全体の無駄は減っていない。
これが苦諦である。
まず、現実を現実として認めなければ始まらない。
集諦――原因は三毒である
次に、苦には原因がある。
それが集諦である。
この場合の原因は、まさに三毒である。
もっと売りたいという貪。
面倒を嫌う瞋。
本質を見ずに言葉へ酔う痴。
この三つが結びつき、今の「見せかけのエコ」を作っている。
つまり、ゴミが減らないのは偶然ではない。
仕方ないことでもない。
減らないような欲望と仕組みを、社会全体で維持しているのである。
滅諦――使い捨て前提を削れば、苦は減る
では、この苦はなくせないのか。
そうではない。
四諦では、原因が尽きれば苦も滅すると見る。
これが滅諦である。
ここで言えば、
使い捨てを前提にした売り方を減らす。
飲料の種類を必要以上に増やさない。
容器を共通化し、繰り返し使う。
水筒補充式や瓶の再使用を見直す。
普通のペットボトルでも、少なくとも一定回数は使う。
そうした方向へ動けば、無駄は確実に減る。
全部を一気に変えるのは難しい。
だが、方向が逆であってはならない。
今のように、使い捨てを維持したまま「エコ」を貼るのではなく、
使い捨てそのものを少しずつ削る。
そこに滅の方向がある。
道諦――本当のエコは、発生抑制へ戻ること
最後に道諦である。
では、どう進むのか。
答えは派手ではない。
むしろ、かなり地味である。
まず、発生を減らす。
容器を減らす。
商品数を絞る。
共通容器や補充式を見直す。
繰り返し使えるものは使う。
後始末の工夫より先に、そもそも捨てる量を減らす。
これが道である。
今の社会は、後始末ばかりを語る。
再生する。回収する。分別する。
だが、本当の道はそこだけではない。
むしろ、最初からゴミを増やさないことに戻らなければならない。
言い換えれば、
四諦で見る本当のエコとは、
「たくさん作って、うまく処理する」ことではない。
「そもそも無駄を増やさない」方向へ社会を戻すことである。
結び
今のエコは、三毒を減らすどころか、三毒を包み隠す言葉になっている。
売りたいという貪。
面倒を嫌う瞋。
本質を見ない痴。
その上に「環境配慮」という札を貼っている。
だが、四諦で見れば話は明快である。
ゴミが減らないという苦がある。
その原因は三毒にある。
三毒を削れば、苦は減る。
その道は、発生抑制と再使用へ戻ることである。
本当にエコを言うなら、
ペットボトルを少し軽くしたと胸を張る前に、
使い捨てを前提にした売り方そのものを恥じるべきである。
それを改めずに「環境配慮」を語るのは、
結局、エコではない。
三毒を隠すための看板にすぎない。
