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E001|公教育の英語は、まず六割と簡単な会話を保証すべきだ


最近の中学英語は、昔より明らかに重くなっているように感じる。
単語も多い。文法も多い。しかも、聞く・話す・読む・書くをまとめて求められる。

もちろん、英語を学ぶこと自体は大事である。
だが、ここで一つ立ち止まって考えたい。
公教育の英語は、何のためにあるのか、ということである。

英語が得意な一部の子を、さらに上へ伸ばすためだけなら、今の方向でもよいのかもしれない。
しかし、公教育である以上、まず目指すべきはそこではないはずだ。

少なくとも、学校の授業の範囲で六割程度は取れる。
そして、ごく簡単な会話くらいはできる。
そこまで届いて、はじめて「英語を勉強する意味」が出てくる。

そこへ届かぬまま、難しい内容ばかり積み上げていけば、多くの子にとって英語は「外国語」ですらなく、ただの宇宙語になってしまう。

1.英語が「言葉」ではなく「記号」になる

英語が苦手な子は、最初から英語を言葉として見ていないことがある。
アルファベットで書かれている。だが、それが音のある言葉として入ってこない。

子供の頃、ローマ字と英語の違いが分からなかった、という人もいるだろう。
アルファベットで書いてあれば、全部英語に見えた。
家電に書かれていた National も、「ナショナル」ではなく、「ナチオナイ」のような謎の文字列に見えていた。
そういう感覚は、決して珍しくないと思う。

つまり、英語が苦手な子にとって、最初の英語は「ことば」ではない。
意味のある音声でもなく、生活と結びついた表現でもなく、何か法則のある暗号のようなものに見える。

だから、学び方もずれてしまう。
英語を話し言葉として受け取るのではなく、暗号解読のつもりで眺める。
何か規則があるはずだ、と考える。
その姿勢自体は真面目である。
だが、入口がずれているから、だんだん苦しくなる。

2.中一で崩れると、その先は一気に宇宙語になる

英語は積み上げ科目である。
中一の最初で、主語と動詞、be動詞と一般動詞、疑問文と否定文、三単現あたりが曖昧なまま進むと、その後は一気に理解不能になりやすい。

関係代名詞などは、その典型である。

たとえば、

I know the boy that plays tennis.

こういう文が出たとき、英語が得意な子は
「私はテニスをする少年を知っている」
と自然に取る。

だが、苦手な子にはそう見えない。
「私は少年を知っている。あれ、テニスしている」
のようにしか見えず、そこで止まる。

しかも追い打ちをかけるように、説明には専門用語が並ぶ。
関係代名詞、先行詞、修飾、主格、目的格。
これらの言葉自体が意味不明で、何を説明されているのか分からなくなる。

すると、英語そのものが難しいのではなく、
英語の説明に使われる日本語がまず分からない
という状態になる。

ここまで来ると、授業を受けても理解は深まりにくい。
分からないものの上に、さらに分からないものが積み上がるだけである。

3.こうなると、勉強は学習ではなく「その場しのぎ」になる

土台が崩れた状態で定期テストを受けると、もはや「考えて解く」ではなくなる。

並べ替えは、見たことのある形に賭ける。
英作文は、当てずっぽうで書く。
選択問題は、理解ではなく運試しに近くなる。

つまり、英語が苦手な生徒にとって、テストは学力を測る場ではなく、赤点を避けるための場になりやすい。
意味が分かるかどうかより、その場をどうしのぐかが中心になる。

これは怠けではない。
学習が破綻したときの、自然な防御反応である。

点を取るために、型だけ覚える。
意味は分からないが、テスト範囲の答えだけ暗記する。
英語を覚えているのではなく、出題の癖に対応しているだけになる。

これでは、試験が終われば消える。
言葉として身につくはずがない。

4.しかも目的が「英語を覚えること」ではなく「点を取ること」になっている

ここが、さらに苦しい。

本来、英語を学ぶ目的は、少しでも読めるようになること、少しでも分かるようになること、簡単なことでも伝え合えるようになることのはずである。

だが現実には、多くの場面で
定期テストで点を取る
提出物を出す
並べ替えを埋める
内申を落とさない
という方向へ流れやすい。

すると、生徒の頭の中でも、目的がずれていく。
英語を覚えたいのではない。
赤点を取りたくない。
怒られたくない。
その場を切り抜けたい。
そうなる。

これでは、英語は「ことば」ではなく、採点される記号操作になってしまう。

点数が悪いこと自体が問題なのではない。
意味を取る学びより先に、点取りゲームだけが前に出ること が問題なのである。

5.数学や国語にも時間が要る中で、英語だけが重すぎないか

中学生には、英語だけでなく、数学も国語も理科も社会もある。
どれも大事である。
しかも、数学は数学で積み上げ科目であり、国語は国語で読解力の土台になる。

その中で、英語だけがあまりに重くなり、家庭や塾の助けなしには厳しい内容になっているとすれば、それは公教育として健全なのか、という疑問が出てくる。

塾へ行ける子は、学校外で補修される。
だが、塾へ行けない子は、そのまま取り残されやすい。
すると、公教育のはずなのに、外で補わなければ分からない科目になってしまう。

それでは、学校だけで学ぶ子にとってあまりに酷である。

6.公教育の英語は、まず六割と簡単な会話を保証すべきだ

私は、ここが最低ラインだと思う。

学校の授業だけで、基本の定期テストなら六割程度は取れる。
教科書のごく基本的な文なら読める。
あいさつや短いやり取りくらいならできる。
まずはそこだ。

それすら届かないまま、関係代名詞や不定詞や長文読解ばかり積んでいけば、英語嫌いが増えるのは当たり前である。
いや、英語嫌いというより、英語が「理解不能なもの」として固定されてしまう。

公教育の英語は、まず生きた言葉としての入口を保証するべきである。
難しい英文法を整然と説明できることよりも、
短い文を見て意味が分かること。
簡単なことを言えること。
そこが先である。

そして、文法用語はその後でよい。
まず形。
次に意味。
最後に名前。
この順でなければ、多くの子には届かない。

7.まとめ

英語教育が悪い、と単純に言いたいのではない。
ただ、今のままでは、英語が「言葉」ではなく、「記号」「暗号」「宇宙語」として終わる子がかなり出るだろう、とは思う。

もしそうなら、見直すべきは生徒の根性論ではない。
内容の盛り方と、到達目標の置き方である。

公教育の英語は、まず六割と簡単な会話を保証すべきだ。
その土台の上に、もっと先へ進みたい子が進めばよい。

全員に高い塔を登らせる前に、まず入口の地面を平らにする。
その方が、はるかに筋が通っている。


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