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S209|東京上京神話という社会版ディズニーランド


夢の都市に入った若者は、誰のために働くのか

かつて若者にとって、上京は憧れだった。

東京に出れば、何かが変わる。
東京に行けば、地元にはない仕事がある。
東京に住めば、自分も少し上の世界に近づける。

そういう空気があった。

地方にいる若者にとって、東京はきらびやかな場所だった。テレビ、雑誌、ドラマ、広告、大学案内、就職情報、芸能、ファッション、音楽、最新の店、最新の文化。そこには、地元では見られないものが集まっていた。

しかし、令和の今、その上京神話はかなり揺らいでいる。

なぜなら、東京へ行ったからといって、東京の上流側に入れるとは限らないからだ。

むしろ、多くの場合、若者は東京の高い家賃を払う側になる。高い生活費を払う側になる。狭い部屋に住み、満員電車に乗り、消耗しながら働き、都市の維持費を支える側になる。

本人は「東京で働いている」と思っている。
しかし、構造として見れば、東京に吸われている。

ここを見落としてはいけない。

六畳一部屋の現実

私自身、東京で仕事をした経験がある。

そのときの住まいは、六畳一部屋の寮だった。

東京で仕事をしている。
言葉だけ聞けば、少し華やかに聞こえるかもしれない。

しかし実際には、生活グレードは大きく下がったと感じた。

部屋は狭い。
物を置くにも限界がある。
寝る、着替える、食べる、それだけで空間が埋まる。

地元にいれば、車があり、ある程度の空間があり、身体を伸ばせる感覚がある。弓を引くにも、道具を置くにも、暮らしの中に余白がある。

しかし東京の六畳一部屋では、その余白がない。

仕事はある。
だが、暮らしが狭くなる。

これは大きい。

人間は、肩書きだけで生きているのではない。
どこで寝るのか。
どのくらいの空間で暮らすのか。
静かに休めるのか。
身体を伸ばせるのか。
自分の道具を置けるのか。
自分の時間を保てるのか。

そういうものが、生活の質を決める。

東京で仕事をすることは、必ずしも生活が上がることではない。
仕事の場所は上がったように見えても、暮らしそのものは下がることがある。

私にとって、六畳一部屋の寮生活は、その現実を突きつけるものだった。

東京に行けば上流に入れる、という錯覚

上京神話の一番危ういところは、東京に行けば自分も上流側に入れるような気にさせるところである。

確かに、東京には上流の仕事がある。

大企業の本社。
金融。
外資。
ITの上位職。
広告。
メディア。
研究開発。
専門職。
経営層。
不動産所有者。
資本を持つ人たち。

そういう世界は、確かに東京にある。

しかし、東京に行ったからといって、そこに入れるわけではない。

地方から出てきた若者が、普通の会社員、派遣、下請け、販売、飲食、事務、現場職、サービス業に就いた場合、そこで待っているのは上流側の生活ではない。

高い家賃を払う。
高い食費を払う。
高い交通費を払う。
高い娯楽費を払う。
高い教育費を払う。

つまり、東京の富を得る側ではなく、東京の富を支える側に回る。

ここに構造的な厳しさがある。

東京には夢がある。
だが、その夢を売っている人たちと、その夢を買わされている人たちは、同じ立場ではない。

東京で本当に強いのは、東京の地代や人の流れから利益を得られる側である。
不動産を持つ人。
企業の中枢にいる人。
専門性で高い報酬を取れる人。
資本を持つ人。
都市の仕組みを使う側の人。

一方、地方から出てきて、狭い部屋に住み、高い家賃を払いながら働く若者は、都市の燃料になりやすい。

言い方は厳しいが、これはかなり現実に近い。

夢の都市は、誰の利益で動いているのか

意図的かどうかは不明である。

誰かが会議室で「地方の若者を吸い寄せて、下層の仕事に就かせよう」と企んでいる、とまでは言わない。

しかし、結果としてそういう構造はある。

東京は、若者を吸い寄せる。
大学、専門学校、就職、芸能、文化、自由、出会い、キラキラした街並み。
そういうものを見せる。

そして若者は東京へ行く。

すると、まず住む場所が必要になる。
家賃を払う。
敷金、礼金、更新料を払う。
交通費を払う。
外食費を払う。
服を買う。
スマホを持つ。
人付き合いにも金がかかる。

そのうえで働く。

飲食店、小売、サービス、物流、事務、販売、派遣、下請け、現場仕事。
都市を動かすために必要な労働を担う。

若者本人は、東京に出てきたつもりでいる。
しかし、都市の側から見れば、若い労働力と消費者が補充されたことになる。

この循環で東京は回る。

若者が来る。
家賃を払う。
働く。
消費する。
疲れる。
また次の若者が来る。

そこに、都市の冷たい新陳代謝がある。

地方の安定職という強さ

一方で、地方に残る選択が弱いとは限らない。

むしろ、令和の今は、地方の優良企業、上場企業の工場、公務員、インフラ系、地場の安定企業に入れるなら、東京の中下層会社員より生活設計は強い場合が多い。

地方では、住居費が抑えられる。
家が広い。
車を持てる。
親の支援を受けやすい。
祖父母が子育てに関われる。
地域の信用がある。
無理な消費競争に巻き込まれにくい。

もちろん、地方にも苦しさはある。

人間関係が狭い。
職場の選択肢が少ない。
閉塞感がある。
親族関係が重い。
地域の目がある。
車がないと生活できない。

だから、地方なら何でもよいという話ではない。

重要なのは、地方で根を張れる職に就けるかどうかである。

地元の優良企業。
メーカーの工場。
品質管理。
生産技術。
保全。
技能職。
公務員。
インフラ。
医療、福祉、教育。
地域に必要とされる仕事。

こういう仕事に就けるなら、東京に出て高い生活費を払いながら消耗するより、はるかに堅い。

今の時代、勝ち筋はこうである。

東京で上流に入れるなら、東京は強い。
地方で安定職に就けるなら、地方は強い。
東京で下支え側に回るなら、かなり苦しい。

上京そのものに価値があるのではない。
どの場所で、どの立場に入るのか。
そこが重要なのである。

高い学費を払って大学へ行く意味も薄くなる

この話は、大学進学ともつながっている。

昔は、大学に行けば人生が開けるという感覚があった。
特に地方では、大学進学そのものが一つの上昇ルートだった。

しかし今は、そこも単純ではない。

大学に行く意味がない、という話ではない。
医師、薬剤師、看護、教員、研究職、理工系専門職、建築、情報、法曹、公務員総合職、大企業本社系など、大学に行く意味が濃い進路は今でもある。

問題は、目的の薄い大学進学である。

高い学費を払う。
地方から出て一人暮らしをする。
奨学金を借りる。
四年間の生活費がかかる。
卒業後、東京の中下層の仕事に就く。
家賃と奨学金返済で可処分所得が削られる。

これでは、かなり厳しい。

それなら、高卒や高専卒で地元の優良企業、メーカー工場、公務員、技術職、技能職に入った方が、人生全体の収支では強いこともある。

大学進学は、もはや自動的な正解ではない。

大学に行くべき人は、行くべきである。
しかし、何となく進学し、高い学費を払い、何となく上京し、何となく就職する。
その道は、かなり危うい。

令和の進路判断では、学歴そのものよりも、生活設計まで含めて考える必要がある。

社会版ディズニーランドとしての東京

この構図は、私がディズニーランドにしらける感覚とよく似ている。

ディズニーランドを楽しめる人は、それでよい。
家族で行き、子供が喜び、非日常を味わえるなら、それは一つの幸せである。

しかし私は、そこにどうしても商業システムが見えてしまう。

夢の国。
魔法。
感動。
家族の思い出。
キャラクター。
音楽。
パレード。
きらびやかな演出。

その裏側に、人の動線、消費の設計、感情の誘導、高額な飲食、物販、入場料、待ち時間、混雑の管理が見えてしまう。

すると、素直に酔えない。

東京への憧れも、これに似ている。

自由。
夢。
成功。
最新の文化。
都会的な生活。
きらびやかな街。
洗練された人々。

そういうものが前面に出される。

しかし、その裏側には、高い家賃、狭い部屋、満員電車、孤独、見栄、競争、消費圧、下支え労働がある。

つまり東京は、社会版ディズニーランドである。

入場料は家賃。
アトラクションは仕事と消費。
パレードは広告とSNS。
記念品は高い生活費。
そして帰るころには、財布も体力も削られている。

もちろん、東京を楽しめる人はいる。
東京でしかできない仕事もある。
東京で成功する人もいる。
東京で学び、鍛えられ、人生を切り開く人もいる。

それは否定しない。

ただし、ディズニーランドと同じで、東京も「夢を見に行く場所」ではなく、「高い参加料を払って入る場所」だと見るべきである。

そこで何を得るのか。
どの立場に立つのか。
どれだけ払うのか。
本当に元が取れるのか。

そこを考えずに入れば、夢を買わされる側になる。

上京は目的ではなく、手段である

結局、上京そのものを夢にしてはいけない。

東京へ行くことは、目的ではない。
手段である。

東京でしか学べないものがある。
東京でしか会えない人がいる。
東京でしか就けない仕事がある。
東京でしか開けない道がある。

そういう人にとって、東京は今でも価値がある。

しかし、ただ「都会に出れば何とかなる」という感覚で行くなら、危うい。

東京は甘くない。
東京は、地代が高い。
東京は、時間を奪う。
東京は、消費を促す。
東京は、若者を労働力として吸収する。
東京は、夢を売るが、その夢の代金をきっちり請求してくる。

だから、若者はもっと冷静でよい。

地元に残ることは、負けではない。
地方の優良企業に入ることは、地味だが強い。
公務員になることは、堅い選択である。
工場で技術や技能を磨くことは、立派な道である。
高卒、高専卒、専門卒で早くから働き、資格を取り、生活基盤を固めることも、十分に合理的である。

上京して、六畳一部屋で消耗するより、地元で広い空間を持ち、家族や地域とつながり、堅い職で生活を組み立てる方が、豊かである場合は多い。

まとめ

東京は悪ではない。

ただし、東京を夢として崇拝する時代は終わった。

東京は、強い者には強い場所である。
専門性、資本、人脈、学歴、能力、運、目的。
それらを持って入るなら、東京は大きな機会を与える。

しかし、それらを持たずに入れば、東京は高い。

住居費で吸われる。
生活費で吸われる。
時間で吸われる。
労働力として吸われる。
消費者として吸われる。

そして、気づけば「東京で働いている」という看板だけが残り、暮らしそのものは狭くなっている。

上京神話の本質は、ここにある。

若者は、東京に行く前に問うべきである。

自分は東京で何を取るのか。
東京でなければならない理由は何か。
東京で上流側に入れる勝ち筋はあるのか。
それとも、ただ都市の維持費を払う側になるのか。

この問いを持たずに上京するなら、東京は夢の都市ではない。

社会版ディズニーランドである。

きらびやかな門をくぐった瞬間から、支払いは始まっている。
そして、夢を見ているつもりの若者が、いつの間にかその夢を維持するための燃料にされている。

だから私は言いたい。

上京するな、ではない。
夢を見るな、でもない。

ただ、夢を売る側と、夢を買わされる側の違いを見よ。

その目を持たないまま東京へ行けば、都市に飲まれる。
その目を持って行くなら、東京もまた、一つの修行場になる。


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