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【つの版】日本刀備忘録51:関派七流

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 新たにインデックスを作成しました。

 室町時代後期/15世紀後半、日本各地は戦乱によって分断され、朝廷や室町幕府の権威は衰えて「戦国」の世が訪れます。刀剣の需要は増え、量産体制が確立され、大量の刀剣が全国に流通するようになります。

◆Do the◆

◆Evolution◆


大量生産

 以前述べたように、室町時代には日明貿易によって大量の日本刀が明国へ輸出されていました。当時は日本で刀1本が銭1貫文(1000文、1文を100円相当として10万円)で売れたところを、明国に輸出すれば10倍10貫文(100万円)で売れましたから、往来にかかる費用を補ってあまりあります。足利義満は主力商品の一つとして刀剣の輸出に力を入れ、備前長船の刀工集団に大量生産を命じました。明国から伝わった踏鞴などの製鉄技術の進歩により成し遂げられたものの、南北朝時代以前の繊細な技術は失われていきます。

 応永15年(1408年)に義満が没し、2年後に管領の斯波義将も没すると、義満の子・義持は明国との国交を断絶しました。そのため日本と海外との密貿易業者(倭寇)が再び活動し始め、応永26年(1419年)には朝鮮が倭寇を征伐するため対馬に侵略するに及びます(応永の外寇)。

 義持の弟・義教は永享5年(1433年)に明国と国交を開いて貿易を再開しますが、明国は朝貢貿易に制限を設け、「朝貢は10年に1度で船は3隻、乗員は300人、貿易品中の刀剣は3000把(振)以下」と定めています。あまり頻繁に来られると朝貢の見返りに下賜する品物の代金で国庫が圧迫されるためですが、刀剣1振が10貫文で売れるなら3000本で3万貫文(3億円)です。

 義教が暗殺された後は混乱もあって日明貿易は中止されましたが、義政は宝徳元年(1451年)に再開し、遣明船を天龍寺や大内氏などと共同で送っています。この船には刀9483振、長刀417振をはじめ多数の商品が満載され、これまでの相場では約21万7732貫文(21億7732万円)になるはずでした。ところが明国では2年前に皇帝が北方遊牧民オイラトの捕虜になる「土木の変」が起きたばかりで景気が悪化しており、刀剣類は1把5貫文(50万円)と半額に下落し、1万把で5万貫にしかなりませんでした。硫黄は1斤500貫文(5000万円)以上したものが25文(2500円)とされ、話にならないと持ち帰られてしまい、結局は予想の1/4弱しか利益が出なかったのです。

 とはいえ、刀剣だけが明国で売れたという実績は残ります。そこで義政は寛正5年(1464年)に3万振もの刀剣を積載した遣明船を送り出しましたが、大量生産の安物(数打かずうち物・束刀たばがたな)だとして足元を見られ、1振が3貫文でしか売れませんでした。義政は応仁元年(1466年)に数を抑えた7000振、隠居後の文明15年(1483年)には再び増やして3万7000振の刀剣を輸出しましたが、やはり1振は3貫文とされています。その後も刀剣の値段は下がり続け、明応2年(1494年)には1貫800文、天文8年(1539年)には日本と同じ1貫文にしかなりませんでした。永正7年(1510年)に細川氏が輸出した刀剣は1振300文であったといいます。

 刀剣の品質や価値は下落したとしても、刀剣を大量に生産して大量に輸出できたということは、それだけの技術力と分業体制、商業ネットワークが備わってきたことを意味します。戦乱の世にあっては誰もが刀剣を身に帯びて護身するようになったため、需要が供給を呼んで作刀は一大産業となり、備前のみならず全国各地で刀工集団が栄えました。また馬上で武士が振るう太刀や大太刀よりも、足軽が徒歩で振るえる短刀や脇差、打刀うちがたなと呼ばれる短めの刀や、歩兵用のなどが普及していきます。各地に群雄が割拠した戦国時代は、群雄らが生き残るために領国で富国強兵政策を行い、商人が諸国を渡り歩き、全国の経済が発展した時代でもありました。

 応仁の乱で西軍から東軍に寝返り、越前守護代として領国の支配を進めた朝倉孝景は最初の「戦国大名」の一人とも言われますが、彼が制定したとされる分国法にこうあります。「名作の刀を好むな。万疋(1疋は銭10文、万疋は10万文=100貫文≒1000万円)の太刀を持っていても、百筋の鑓(100本の槍)には勝てない。同じ万疋で百筋の槍を求め(1本1貫文)、百人に持たせれば、一方面を防ぐことができる」。槍は刀より間合いが長く、刀や弓ほどには扱う訓練も必要ではなく、数を集めた集団戦では有利でした。

関派七流

 西国での備前と同じように、東国では美濃が刀剣の大量生産の拠点となります。美濃は畿内と東国・北陸・東海地方を結ぶ交通の要衝で、鎌倉時代には大和や越前から刀工が移住して技術を伝え、相州鎌倉の正宗派とも交流して技術を学び、赤坂派・せき派・志津派(直江志津)が成立しました。相次ぐ戦乱で畿内や坂東が混乱する中、その中間に位置し戦乱の被害が少なかった美濃には、諸国から多くの刀工も集まったのです。

 室町時代以後、特に栄えたのが関派です。南北朝の動乱が足利義満により一応鎮まり、日明貿易による刀剣の大量生産がブームになると、諸国の刀工集団もこの波に乗ろうとしました。海外貿易の拠点である堺や博多からは内陸の美濃は遠く、尾張や伊勢に輸出しても紀伊半島が立ちはだかりますが、国内需要の高まりもあり、大量生産を行うに越したことはありません。そのためには刀工集団を統合し、生産体制を組織化する必要があります。

 この頃、関には「鍛冶座」という同業者組合(ギルド)が作られました。座に所属しない者が作刀に関わることは禁じられ、営業・販売に関しても座が独占権を持ちます。座の拠点は関鍛冶の総氏神である春日神社ですが、これを大和から勧請したのが関派の始祖・兼光で、その子孫は七流に別れました。兼吉を組頭とする善定派、兼則の三阿弥派、兼常の奈良派、兼弘の徳永派、兼行の良賢派、兼在の室屋派です。これを「関七流」といい、鍛冶座の運営は七人の組頭による合議制で行われ、その地位は代々世襲されました。銘鑑に記載された関の刀工は500人におよび、全国一の数を誇ります。

 関の繁栄の理由はいくつもあります。美濃の中央部、長良川流域に位置する交通の要衝で市場としても栄えた上、砂鉄や粘土、水や炭、木材の入手も容易でした。美濃には赤坂・清水(大垣市)、志津・直江(養老町)、蜂屋(美濃加茂市)・坂倉(坂祝町)など関の他にも多くの刀工集団の拠点がありましたが、関ほどには繁栄しませんでした。

 室町時代中後期から戦国時代にかけて、関鍛冶は大量生産を行って戦乱の世の需要を満たし、その作品は「末の関物」と呼ばれます。織田信長が天下人になれた理由の一つは、武器の大量生産と流通を担う美濃を抑えたことでしょう。実用本位の大量生産の時代が到来したとはいえ、一定の技術力とブランドを維持するため、技巧を凝らした特注品(入念作)の製作は続けられました。武士は武名を箔付けするため特注品の刀や槍を好み、あるいは家督継承の証として代々伝えています。そして戦国時代の関の刀工の中でも特に名高いのが、和泉守兼定孫六兼元です。

◆Anvil of◆

◆Crom◆

【続く】

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