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【つの版】日本刀備忘録52:兼定兼元

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 美濃国の関は、東国における刀剣の大量生産の拠点として繁栄しました。戦国時代の関の刀工の中でも特に名高いのが、和泉守兼定孫六兼元です。

◆兼◆

◆定◆


和泉守兼定

 初代兼定は直江から赤坂に移住した三阿弥兼則(兼氏の孫で兼友の子)の子といい、のち関に移住して徳永派の兼長に学びました。初代の作刀は明確でありませんが「享徳二二(四)年(1455年)二月日/濃州関住人兼定」の銘を有する太刀があり、これが初代の作と考えられています。有名な和泉守兼定は二代目で、初代は遡って「親兼定」と呼ばれます。

 二代兼定は初代の実子とも、甲州出身で濃州関に来て初代の門人となり、のちに養子となって名跡を継いだともされます。最古作と見られるのは明応2年(1493年)の作で、大永6年(1526年)まで30年以上にわたり活動しました。また文明二二(四)年(1472年)銘の平脇差が最古作ともいい、とすると50年以上にわたって活動したことになります。

 明応8年(1499年)までは兼定の銘の「定」の字は普通ですが、翌明応9年(1500年)ないし文亀2年(1502年)からウ冠の下の字を「之」とするようになり、この特徴から二代兼定は「之定のさだ」と通称されます。また永正8年(1511年)作の刀に始めて「和泉守」の銘が現れ、同5年(1508年)の作にはこの銘が見えないことから、この間に和泉守の官名を受領したようです。実際に和泉国司となったわけではなく名誉称号ですが、四等官の長である「守」を銘に刻んだのは珍しいことです(備中の刀工・青江貞次は貞治2年/1363年に大隅権守の受領名を拝領しています)。

 和泉守の官名受領は伊勢神宮に刀剣を奉納したことによるようで、佐野美術館蔵の永正14年(1517年)紀の刀の銘には「石破渋谷木工頭明秀/伊勢山田是作」とあり、伊勢山田の御師・渋谷明秀の注文で打った作といいます。また彼は永正元年(1504年)には法華経普門品(観音経)を絵入りで出版しており、これは現在大英博物館に所蔵されています。

ささノ雪

 兼定の銘がある刀として名高いのが「篠ノ雪」です。これは刃長二尺三寸の打刀で、切っ先に触れると笹の葉に積もった雪が落ちるように容易く切れるというのでその名があります。もとの持ち主は片切かたぎり与三郎という武士で、織田信長の乳兄弟・池田恒興に仕えていました。のち恒興が多数の刀の試し切りを行わせた際に切れ味がよかったため、与三郎に乞うて自分のものにし「篠ノ雪」と名付けたといいます。天正12年(1584年)恒興は小牧・長久手の戦いで徳川家康の家臣・永井直勝に討たれ、「篠ノ雪」も直勝の手に渡り、以後代々家宝として伝えられました。

人間にんげん無骨むこつ

 同じく小牧・長久手の戦いで戦死した猛将・森長可は、兼定作の十文字槍「人間無骨」を所持していました。これは人間の骨が無きに等しいほど容易く突き通すことを意味し、表に「人間」、裏に「無骨」と彫られ、織田信長の所持していたという長船清光の刀や、尾張に移住した関鍛冶の権少将氏貞の脇差にもその名がつけられています。長可は天正2年(1574年)伊勢長島の戦いで齢17歳にしてこの槍を振るい、27の首級を取る武功をあげました。そこで信長は槍に「人間無骨」の称号を与えたといいます。長可の戦死後は代々森家に伝わりました。

 森氏は美濃守護の土岐氏に代々仕えましたが、土岐氏が家来の斎藤道三に追放された後、長可の父・可成は子らを連れて尾張に移住し、信長に仕えたといいます。彼も十文字槍の使い手で、「関兼貞」という刀鍛冶が彼の槍を打ったと伝え、また兼貞は秀吉の母の父であるともされます。

鳴神なるかみ

 また、目貫に風神雷神の文様があることから「鳴神」と名付けられた刀もあります。これは武田信玄から穴山梅雪へ、梅雪から娘婿の荒川弘綱へ、弘綱から徳川家康の甥である松平定綱へ伝わり、定綱の娘婿の酒井忠清(あるいは妹婿の忠行)へ伝わった後、定綱の子孫である松平定信が酒井家に乞うて別の兼定の刀と交換したといいます。定信はこれに「和泉守兼定 鳴神」と金象嵌で刻銘し、定綱を祀る祖廟に奉納しました。のち伊勢桑名へ国替えすると祖廟ごと移し、現在は桑名市の鎮国守国神社にあります。

歌仙かせん兼定

 肥後熊本藩主の細川家に伝わるのが「歌仙兼定」です。初代藩主忠利の父である細川忠興は織田信長の嫡男・信忠に仕えて偏諱を授かり、のち秀吉・家康に仕えて功績をあげ、関ヶ原の戦いの後に豊前小倉・豊後杵築40万石を授かりました。寛永9年(1632年)に子の忠利が肥後熊本54万石に転封されると、隠居していた忠興は八代城に入って9万5000石を隠居領とし、4男立孝の後見人として領内に睨みをきかせました。

 忠興は若年より気が短く、苛烈な性格でした。八代城に入った時は70歳でしたが、領国の政治がうまく行っていないと見るや忠利側近の奸臣36人を呼びつけ、全員手打ちにしてしまいました。そしてこれに用いた兼定の刀を、三十六歌仙にちなんで「歌仙兼定」と名付けたといいます(六歌仙にちなみ6人だとも、忠興の父・藤孝(幽斎)の逸話だともいいます)。なお歌仙兼定は三代藩主綱利の時に家老の柏原定常に下賜され、明治30年まで柏原家に伝わり、転々としたのち昭和初年に細川子爵家により買い戻されています。

是非ぜひとも是成これなり

 藤堂高虎が所持したとされる太刀が「是非共是成」です。無銘ながら兼定作と伝えられ、高虎自ら切れ味に惚れ込んで「是非共是成/藤堂高虎帯之」と表裏に刻銘したといい、高虎の孫で伊勢久居藩主の高通に授けられ、代々伝来しました。明治維新後は高虎を祀る高山神社に奉納されますが、昭和20年の空襲で社殿ごと焼失しています。

猪ケ窟いのがくつ

 三河松平家に仕えた大久保氏の祖・宇津忠茂は、永正8年(1511年)作の和泉守兼定の太刀を所持していたといいます。彼が愛犬を連れて矢作川上流の山中に狩りに赴き、猪ケ窟なる洞窟で休んでいた時、愛犬がけたたましく吠え始めました。忠茂はあまりうるさいので太刀を振るって愛犬の首を刎ねましたが、首は宙に飛んで忠茂を狙っていた大蛇の頭に噛みつきます。驚いた忠茂は大蛇の尾と首を刎ねて命拾いし、愛犬を惜しみ祠を立てましたが、これが岡崎市の糟目犬頭神社の始まりとされます。また彼が振るった兼定の太刀はこれにちなんで「猪ケ窟」と呼ばれたといいます。

 異説では、大蛇を切ったのは宇津忠茂の七代前の先祖・宇都宮泰藤で、南北朝時代の貞和2年(1346年)のこととされ、彼が犬の頭を祀ったのが犬頭神社、尾を祀ったのが犬尾神社だといいます。だとすれば、時代的に兼定の太刀ではあり得ません。その後の所在も不明です。

 他にも水も溜まらぬ切れ味だという「籠釣瓶」とか、臨兵闘者皆陣烈在前の九字が刻まれていた「九字兼定」とか、福島正則から結城秀康に送られた「君が盃」だとか、多くの名刀が和泉守兼定の作と伝えられています。

会津兼定

 三代兼定は定のウ冠の下の字を「疋」と刻んだため「疋定ひきさだ」と呼ばれます。四代兼定は通称を清右衛門といい、弘治2年(1556年)に会津の大名蘆名氏に招かれ、お抱えの刀匠として知行200石を授かりました。子孫は以後代々会津に居住して歴代藩主より少ないながら俸禄を受け、会津兼定として幕末まで作刀を続けています。土方歳三が差料とした「和泉守兼定」は、この会津兼定の11代目のものと推測されます。

孫六まごろく兼元

 和泉守兼定と並び称されるのが孫六兼元です。初代兼定の父・三阿弥兼則の子を六郎左衛門兼友(直江兼友)といい、文正・文明年間(1466-87年)に関の地で活動しましたが、その次男が初代兼元です。彼は三阿弥兼則ので父が郎左衛門であることから「孫六」を屋号とし、清関せいかんとも称され、天文年間(1532-55年)の中頃に関に帰るまで40年間は赤坂で作刀したといいます。なお彼の兄・兼茂らも孫六と称しました。

 彼の子である二代目・孫六兼元(金子孫六)は明応年間(1492-1501年)頃に作刀を開始し、永正年間(1504-21年)に初代兼定のもとで修行し、父が関へ移った後も赤坂にとどまったと伝えられます。この二代目孫六兼元が特に著名で、多くの名刀を残しました。二代目の作は大永3年(1523年)2月から天文7年(1538年)までの紀年銘刀が現存しますが、その後も孫六兼元の号は代々受け継がれ、現代まで続いています。

大蛇斬り

 天文21年(1551年)、美濃国の守護大名・土岐頼芸は家臣の斎藤道三により追放されました。彼の次男を頼次といい、道三と対立した嫡子の斎藤義龍に従いますが、のち大和国に赴いて松永久秀に仕え、天正15年(1587年)に豊臣秀吉の馬廻衆となり、河内国古市郡に500石を賜りました。彼が所持していた脇差は兼元の作で、「大蛇斬り」の異名があります。

 その銘には、表に「兼元刀 天正二十年(1592年)上之」、裏に「頼次 江州於石部 蛇切」とあります。「上之」とはもと長脇差であったのを磨り上げて短くしたことを示し、「江州於石部」とは近江国甲賀郡石部(現滋賀県湖南市石部)のことです。大蛇ではなく「蛇」を切ったとありますが、彼がどのような経緯で蛇を切ったのかは伝わりません。父を追放した斎藤道三は「まむし(蝮≒蛇)」の異名を持ちますから意趣返しでしょうか。なお頼次は関ケ原の戦いののち家康・秀忠に拝謁して本領を安堵され、西軍の武将・斎村政広が所持していた「獅子王」という太刀を下賜されています。

真柄まがら斬り

 美濃出身で今川氏真に仕えた武将・青木一重は、今川滅亡後の元亀元年(1570年)に徳川家康に召し抱えられ、同年に近江国で起きた姉川の戦いで朝倉家の猛将・真柄隆基を討ち取る功績をあげました。隆基は父の直隆、叔父の直澄ともども身長7尺(2m余)の巨漢で、みな五尺(1.5m)を超える大太刀を馬上で振り回す豪勇の者でしたが、一重が用いたのは刃長2尺3寸3分(70cm余)の打刀で、この功により「真柄斬り」と呼ばれました。また彼の名字と刀工の名をとって「青木兼元」とも呼ばれます。

 一重の父・重直は美濃斎藤氏滅亡後に織田家に仕え、信長の家来・丹羽長秀の与力となっていました。元亀3年(1572年)、三方ヶ原の戦いで家康が武田信玄に敗れると、一重は徳川家を出奔し、父を頼って長秀に仕えます。長秀が没すると秀吉に仕え、大坂冬の陣にも豊臣方で参戦しますが、交渉の使節として家康を訪ねた時に留め置かれ、晩年は家康に仕えました。一重は遺言により「真柄斬り」を長秀の子・長重に譲渡し、以後長重の末裔である陸奥二本松藩主の丹羽家に伝来しました。

僧正孫六

 天正3年(1575年)5月、武田信玄の跡を継いだ勝頼は三河国長篠城に籠る奥平信昌を包囲しました。信昌は岡崎城の徳川家康に援軍を要請するため、家来の鳥居強右衛門すねえもんを遣わし、彼は命と引換えに見事役目を果たしました。この強右衛門が所持していたとされるのが孫六兼定の刀で、出羽国羽黒山の僧正から授かったというので「僧正孫六」と呼ばれ、以後は奥平家に大正末年まで伝来しました。

秋之嵐

 織田信長の甥・津田信澄(織田七兵衛)が所持していたのが「秋之嵐」です。無銘ですが二代目孫六兼元の作とされ、秋風に枯葉が翻るかのような刃文にちなんで名付けられたといいます。信澄は信長の側近として活躍しましたが、父・信勝が信長に謀反の罪で殺されており、明智光秀の娘を正室としていたため、本能寺の変の後に光秀に加担したと疑われ、丹羽長秀らにより討ち取られました。秋之嵐はのちに前田利家の次男・利政の手に渡ります。

二念仏

 利政は慶長4年(1599年)に父より能登七尾21万石を授かり入国しましたが、その道中を道心(乞食)坊主が不届きにも横切ったため、駕籠の供回りの者が孫六兼元の刀を抜き放って斬り捨てました。この時、道心坊主が「南無阿弥陀仏」と念仏を2回唱えてから2つになって倒れたため、利政はその切れ味に驚いて自らの差料にし、「二念仏」と名付けたといいます。しかし利政は関ケ原の戦いにおいて父や兄に背いて西軍についたため、戦後は所領を没収されて嵯峨に隠居しました。利政の子・直之は加賀前田家に召し抱えられて小松城代をつとめ、父が所持していた短刀「前田藤四郎」を藩主・利常に献上しました。また寛文元年(1661年)に藩主・前田綱紀が小松城を訪れた際に、この「二念仏」を献上しています。

 他にも徳川家の武将・石川家成が所持していた「地蔵切り」、黒田長政の「大仙兼元」、細川忠興の「指しもぐさ」、土佐山内家の「仮名銘兼元」、槇島監物の「笹露」、備後東城浅野家に伝わる刀などが知られます。

 架空のものとしては、林不忘の新聞連載小説「新版大岡政談」に登場する乾雲丸・坤竜丸という大小一対の妖刀があります。これは二刀揃っている時は無事ですが、離れると持ち主に人斬りをさせて血を求めるとされ、乾雲丸を手にした丹下左膳は辻斬りを繰り返すことになります。

◆丹下◆

◆左膳◆

【続く】

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