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【つの版】度量衡比較・貨幣264

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は伊勢国の続きです。

三重県

◆麒◆

◆麟◆


三瀬之変

https://www.amigo2.ne.jp/~fuchisai/home/annnai.htm

 天正2年(1574年)10月、織田信長は長島の一向一揆を平定し、伊勢国の大部分を掌握しました。滝川一益は長島城・桑名城を拠点として北伊勢5郡を治め、信長の三男・神戸信孝は河曲郡神戸城を拠点として河曲・鈴鹿2郡5万石を治め、信長の弟信包(長野工藤氏との養子縁組を解消し織田氏に戻る)は織田忠寛/津田一安に代わり安濃津城に入って中伊勢を治めています。

 そして南伊勢5郡(一志・飯高・飯野・多気・度会)は、信長の次男で伊勢国司北畠家の養嗣子・娘婿となった北畠具豊が家臣団に守られて統治していました。第三次長島合戦が初陣であり、この頃に数え16歳ほどで、北畠家通字の具を捨てて信長より偏諱を賜り信意のぶおきと改名しています。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いにも参戦し、6月には北畠家の家督を相続、北畠具教・具房は隠居しました。また信意はこれまで居城としていた飯高郡の大河内城を破却し、東の平地にある度会郡の田丸城(現度会郡玉城町田丸)に移転しています。

 北畠具教はすでに元亀元年(1570年)5月には出家して天覚・不智斎と号していますが、この時までは息子の具房ともども伊勢国司として実権を握り続けており、文書の発給を続けています。具房は父と不和であったためもあってか織田家に反意を示さなくなりますが、具教は同年に隠居城として伊賀国丸山城を選び、土豪を説得して翌年から大規模な工事を進めています。また信玄上洛の際から武田家と密約を結び、紀伊の熊野衆にも挙兵を勧め、織田家を駆逐して実権を取り戻す時を狙っていたといいます。

 信意は越前一向一揆討伐に従軍した後、伊勢国内に徳政令や寺社への所領安堵状を発給し、実権を掌握します。天正4年(1576年)夏には伊勢度会郡の国人・赤羽新之丞の申し出に乗って紀伊熊野への侵攻を命じ、志摩長島城を家臣の加藤甚五郎に与えて支援させました。しかし熊野衆の大将・堀内氏善の反撃を受けて自害に追い込まれ、赤羽も熊野側に降るという惨敗を喫します。恥をかかされた信意は、熊野衆側に北畠家旧臣がいたとの情報を得、信長に報告して具教とその一派の排除に乗り出すこととなります。

 天正4年(1576年)11月、信長は北畠家の家臣であった藤方朝成長野左京亮奥山知忠の3名を呼び出し、領地の朱印を与えて誓紙を書かせ、具教殺害を指示しました。知忠は病と称して出家し、朝成は家臣の加留(軽野)左京進を参加させ、長野左京亮は滝川三郎兵衛柘植保重とともに実行役をつとめます。11月25日、3名は軍勢を率いて具教の住む三瀬御所を包囲し、内通していた近習・佐々木四郎左衛門の手引きで具教に面会しました。

 長野左京亮はいきなり槍で具教を突きますが、武術の達人であった具教はこれを躱し、太刀で反撃しようとします。ところが佐々木四郎左衛門により太刀に細工がされていて抜けず、そのまま討ち果たされました。また刃が潰されていて切れなかったとも、反撃して19人を斬り殺し100人に手傷を負わせたともいいますが、少なくとも長野左京亮らは生き残っていますから、実際には大した反撃はできなかったようです。享年49歳でした。

 直後に軍勢が御所に討ち入り、具教の四男徳松、五男亀松も殺害され、北畠家臣14名、家人30人余が犠牲になりました。同日には度会郡田丸城で北畠信意により具教次男の長野具藤、三男の北畠親成、具教の娘婿の坂内具義、具義長男の千松丸らが暗殺され、大河内具良、坂内具房、北畠政成ら一門の主だった者たちも殺されます。生き残ったのは信意の義父の北畠具房と、北畠家庶流の田丸直昌だけで、具房の身柄は滝川一益に預けられ、長島城に幽閉されました。信意の正室で具教の娘であった雪姫(千代御前)はこれを聞くや自害して果てました。かくて南北朝時代から240年続いた伊勢国司北畠家は事実上滅亡し、織田家に乗っ取られることとなります。

 この時、信意の重臣で織田家の傍流であった津田一安(織田忠寛)も信意の命令を受けた日置大膳亮により討たれています。これは北畠家と縁戚関係にあるゆえ親族を庇護すると発言したためで、以前に武田家と通じていたこともあり、信長の不興を買っていたようです。

伊賀合戦

 北畠家の残党は各地に逃れ潜み、お家再興を目論んで反織田勢力と結託します。天正5年(1577年)春には具教の弟具親が飯高郡森城で挙兵しますが打ち破られ、毛利氏を頼って落ち延びます。信意は信長に従って同年に紀州雑賀、翌年には大坂の石山本願寺や播磨・摂津を攻撃し、各地で功績を挙げました。この頃信長は家督を嫡男信忠に譲っており、安土に壮大な城を築いて「隠居」していたため、信意は北畠家の養子ながらも信忠の同母弟として兄に次ぐ地位を占め、その軍勢も織田家中では最大級でした。

 天正6年(1578年)、信意は伊賀国の領国化をもくろみ、滝川三郎兵衛に命じて丸山城を修築させます。これを知った伊賀国郷士衆は驚き、密偵を放って様子をうかがわせました。その規模は壮大なもので、完成すれば伊賀国を統治する拠点となることは疑いありません。

 北畠家残党など反織田派の策動もあり、丸山城周辺の伊賀衆は寺で密談した末に襲撃を決め、10月25日に700名の伊賀衆が丸山城を攻撃します。不意を突かれた守備兵や人夫らは混乱して伊勢へ逃げ込み、三郎兵衛も命からがら逃げ延びました。翌天正7年(1579年)9月、信意は父信長に相談もせず伊賀へ出兵し、三つの道から同時に侵攻して制圧せんとします。しかし夜襲や奇襲、攪乱作戦によって数日のうちに多くの兵を失い、しんがりをつとめた重臣の柘植保重が討死する大敗を喫しました。信長は激怒して信意を叱責しますが、石山本願寺との抗争が激化していたことから伊賀平定は後回しにせざるを得ず、まずは調略を行って手懐けることとします。

 翌天正8年(1580年)、信意の同朋衆で金奉行に玄智という者がいましたが、金銀を盗むため田丸城の火薬庫(焔硝蔵)に放火し、城が全て焼け落ちてしまいます。あるいは旧北畠家派のテロかも知れませんが、幸い信意は無事であり、玄智は捕縛・処刑されます。やむなく信意は北西に20㎞ほど離れた細頸ほそくびという場所に新たな城を築き、松ヶ島城と名付けて移りました(現松阪市松ヶ島)。ここは三渡川が伊勢湾に注ぐ河口の南にあり、東には櫛田川・金剛川・坂内川の河口部、北には雲出川の河口部が近く、伊勢神宮への古参道沿いに位置する要衝の地です。なおこの頃に信意は信勝と改名したようです。同年信長と本願寺は最終的に和睦しました。

 天正9年(1581年)9月、織田信長は信勝を総大将として諸将に伊賀攻めを命じ、伊勢・甲賀・大和など6方面から計5万の大軍をもって攻撃しました。必死の抵抗により織田軍にも損害は出たものの、僧侶や女子供を含めて3万人が殺戮された末に平定されます。10月に視察に入った信長は伊賀4郡のうち山田郡を弟の信包に与え、他の3郡を信勝に授けました。信勝は家老の滝川三郎兵衛に伊賀3郡の統治を委ね、三郎兵衛は丸山城を居城とし、また平楽寺跡に砦を構えて仁木友梅に任せました。

本能寺変

 翌天正10年(1582年)正月、北畠信勝は安土城に出仕して信長に面会し、2月に始まった甲州征伐には父ともども後詰で出陣します。同年4月の発給文書に「信雄のぶを」との署名があり、この頃に改名していたようです。

 この甲州征伐の時、長年北伊勢を治めて来た滝川一益は主力をつとめ、3月には武田勝頼を追い詰めて自刃させる功績を挙げました。信長は一益に名馬「海老鹿毛」と短刀を下賜し、関東統治の取次役に任命して、信濃国のうち小県郡と佐久郡、上野一国を授けました。北伊勢の所領はとりあえずそのままとされたようですが、いずれは別の者が治めることになったでしょう。

 6月2日に本能寺の変が勃発し、信長と信忠が相次いで自害すると、急報を受けた信雄はただちに出陣し、鈴鹿峠を越えて近江国甲賀郡土山まで進軍しました。しかし伊賀の国人衆が挙兵したためそれ以上西へ進めず、安土城から脱出して日野城に匿われていた信長の妻子らを連れて撤退しています。

 信長の庶子で三男にあたる神戸信孝は、この時に四国攻めの総大将として大坂におり、大軍を率いて出発準備を調えていました。信長は朱印状を出して信孝に讃岐を与え、阿波は三好咲岩に授けるとし、戦後は信孝を咲岩の養嗣子として三好家を継がせ、四国を治めさせようとしています。6月2日は出発の当日ないし前日にあたり、明智光秀が謀反を起こした原因の一つに彼が交渉にあたった土佐の長宗我部元親との関係があったようです。

 信孝は手柄を立てるチャンスとして、領国に住まう15歳から60歳までの名主(地侍)や百姓の男を尽く動員し、伊勢国内の牢人や国衆、伊賀・甲賀や紀伊雑賀衆、山城国相楽郡、丹波・丹後などにも動員令をかけて兵や兵糧、武器弾薬などを徴集しました。その人数は1万4000人ほどで、志摩の大名九鬼嘉隆も水軍を率いて参戦します。また信孝は養父の神戸具盛を赦免して神戸城近くの沢城におらせ、留守を任せています。

 大坂から京都までは50㎞ほどしかなく、道も平坦で、父と兄の仇討ちをするには絶好の状況です。ところが寄せ集めの兵力だったのが災いし、急報を聞いた兵たちは混乱に陥り、各地へ逃げ散ってしまいます。また副将の津田信澄は信孝の従兄弟にあたりますが、光秀の娘婿でもあったため疑われ、6月5日に殺害されました。光秀自身は大坂からの侵攻を警戒して山城国南部の宇治に陣取り、家来たちに近江国を制圧させています。

 滝川一益のもとには6月7日にようやく急報が届きますが、甲斐や信濃では武田家旧臣による反乱が勃発し、北条氏や上杉氏も動き出したため畿内へ駆けつけることもできず、反乱の鎮圧にまわるのが精いっぱいでした。

 備中高松城を包囲していた羽柴秀吉は、本能寺の変のことを隠して毛利氏と和睦を結び、光秀を討つため急いで引き返します。そして信孝らと合流するとこれを総大将に担ぎ上げて北上し、6月13日に山城国南部の山崎で明智軍を打ち破ります。光秀は近江へ逃げる途中で落ち武者狩りに遭い死亡しました。織田家の家督は信忠がすでに継いでおり、信忠の死後はその嫡男の三法師が継ぐと決まっていましたが、信孝は光秀討伐の功績を強調して家中の実権を握ろうともくろみ、兄信雄と対立することとなります。

◆兄◆

◆弟◆

【続く】

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