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【つの版】度量衡比較・貨幣254

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は近江商人の続きです。

滋賀県

◆高◆

◆島◆


高島商人

 琵琶湖の北西、高島郡(現高島市)には高島商人がおり、古くから若狭と近江・畿内を繋いできました。琵琶湖に注ぐ安曇川を遡れば朽木谷に達し、山道を進んで比叡山や京都にも行けますし、今津や木津などから琵琶湖を船で移動すれば多数の荷物を運搬できます。奈良時代にはすでに材木を運ぶ経路があったといい、戦国時代には前述のように六角氏の支援を受けた保内商人に販路を奪われかけたものの、六角氏が滅ぶと息を吹き返しました。

井筒屋:小野組

 江戸時代の初め頃、高島郡大溝に小野新四郎則秀という商人がおり、小浜や敦賀を介して日本海交易に加わり、北陸から出羽、陸奥へ販路を伸ばしていました。寛文2年(1662年)頃に則秀の次男・村井権兵衛主元が同郷の商人を頼りにして陸奥国南部家の治める盛岡へ進出し、近江屋と名乗って商売を始めます。城下町には他国の商人が集まって活況を呈していました。

 まず権兵衛は上方流の清酒を醸造して成功し、現代まで続く南部杜氏の基礎を築いたとされます。また味噌や醤油も製造・販売し、塩の販売を一手に引き受け、盛岡藩領で砂金を採取して上方へ送り、京都の質流れの古着を売り捌き、質屋も営業するなど手広く商売を行い、一代で巨富を得て豪商にのし上がりました。甥の善助包教は盛岡紺屋町で井筒屋を開業し、のち京都や江戸にも進出する大店の基を築き、その弟唯貞・清助は権兵衛の養子として家督を継ぎ、盛岡藩や幕府の御用商人として繁栄しました。

 慶応3年(1867年)、明治政府は財源確保のために金穀出納所を設立し、幕府御用商人であった三井組・島田組・小野組を御用達に任じて公金の収支を司らせました。小野組は多額の為替資金を無金利で運用し、生糸貿易や製糸工場・鉱山の経営などを行い、三井組と共同で組合銀行を設立するなど全国規模の商業活動を展開します。しかし明治7年(1874年)明治政府は為替の担保額を引き上げるなど一方的に金融政策を急変させ、小野組は御用御免となります。その後も小野組は小野商会として存続しますが明治年間に破綻・解散し、支流からは政商の小野慶蔵などが出ています。

高島屋:飯田家

 江戸時代後期、高島郡南新保村(現高島市今津町)に生まれたのが飯田儀兵衛です。彼は京都に出て米屋を営み、出身地から店名を「高島屋」としましたが、跡継ぎ息子に恵まれず、一人娘がいるだけでした。そこで角田呉服店に勤めていた奉公人の新七を文政11年(1828年)婿養子に迎えます。

 彼は享和3年(1803年)越前国敦賀(現福井県敦賀市)に中野宗兵衛の子として生まれ、幼名を鉄次郎と言い、新七は丁稚名です。飯田儀兵衛の婿養子となった翌年、米屋の隣に分家を構え、天保元年末(1831年1月)に近所の貸家に移り、翌年正月に古着と木綿を商う「高島屋」を開業しました。彼は誰よりも早起きして店を開け、近所の家の前も掃除して評判を高め、薄利多売と質素倹約、正直を旨として商売したので人に慕われ、大いに繁盛したといいます。婿養子の二代目飯田新七は家業を呉服木綿商に改め、子孫は代々繁栄して明治時代には貿易業も行い、現代の百貨店大手「高島屋」や、商社「高島飯田(第二次大戦後に丸紅と合併)」の元となっています。

長浜商人

 天正年間に羽柴秀吉が坂田郡に築いた長浜城の城下町は、当初から防衛より商業活動を重視しており、年貢や諸税が免除されていたため多くの商人が集まっていました。賤ヶ岳の戦いの後、秀吉は山内一豊を長浜城主としましたが、一豊が遠州掛川城主になると長浜城は破却されます。慶長11年(1606年)に内藤信成が封じられ再建されたものの、子の信正が高槻へ転封されると再び廃城となり、建物や石垣は彦根城の建設に流用されました。

 城下町ではなくなった長浜でしたが、秀吉が整備した町割と港は江戸時代にも残り、松原・米原と並ぶ彦根藩領内の三湊として、湖北の年貢米を積み出す役割を担うこととなります。江戸初期には彦根藩の御用船120艘のうち半数が長浜湊に属していました。また長浜の町は北陸と近江を結ぶ北国街道の宿場町となり、東は美濃を経て尾張や信濃にも通じる要衝でもあります。必然的に商業が発達し、多くの商人が活躍していました。

 近隣の浅井郡は養蚕の盛んな地でしたが、宝暦年間には丹後縮緬の技術を導入して縮緬生産を開始、浜縮緬として京都への販売が始まります。他にも浜糸、浜蚊帳、浜天鵞絨ビロードなどの繊維業が隆盛を極めました。

中合:中村治郎兵衛/安藤芳兵衛家

 秀吉以来、長浜の49町は10組に分けられて10人の町年寄が自治を担い、彦根藩から代官は派遣されたものの実質的にはこの十人衆による自治が存続しています。寛保2年(1742年)に絶家が相次ぐと三年寄制に再編され、下村藤右衛門家、安藤九郎右衛門家、吉川三左衛門家が束ね役とされました。このうち安藤家は三代目の祐正が賤ヶ岳合戦で手柄を挙げたことから年寄衆に加えられていた家柄で、明治以後は呉服商として東北地方に進出しました。

 この安藤家の安藤芳兵衛は神崎郡五個荘で太物行商を営む中村治郎兵衛家の養子となっていましたが、明治7年(1874年)に福島県福島市荒町に中村呉服店を開業しました。10年後には東京日本橋の問屋街にも出店し、その9年後には治郎兵衛の子らが中村合名会社を設立します。昭和10年(1935年)株式会社化して「中合なかごう」と改名し、百貨店業に参入して各地に店を構えましたが、近年に閉店しています。

白木屋:大村彦太郎

 寛永13年(1636年)、近江国坂田郡長浜村に大村彦太郎が生まれました。父の大村孫右衛門は京都で材木商「菊屋」を営み、母は長浜の材木商の娘でした。彼が数え7歳(5歳とも)の時に父が没し、彦太郎と弟四郎三郎は母の実家の河崎家に引き取られ養育されますが、母も数年後に没します。彦太郎は河崎家で商人としての修行を積み、17歳で独立して京都に「白木屋」という店を構え、諸国へ材木を販売して回る傍ら、綿布や日用品の行商・販売も行いました。寛文2年(1662年)には江戸日本橋に小間物屋を出店します。

 江戸の出店は間口一間半ほどでしたが、まず裂地を仕入れて販売し、これが儲かるとその資金で羽二重地を扱い始め、徐々に扱う品を増やして行きました。この手堅さは信用となり、「利益を取らず正直に良きものを売れ」という家訓が定められ、二代目彦太郎が家業を継いだ貞享4年(1687年)には手元予備金だけで2万9500両もの大店となっていました。

 元禄元年(1688年)に出版された井原西鶴(1642-93年)の『日本永代蔵』によると、資産が銀200貫目以上の者を「金持ち」、銀500貫目以上の者を「分限ぶげん者」、銀1000貫目以上の者を「長者」と呼びます。1貫目は1000匁ですから、1匁を3350円とすれば1貫目は335万円、金にして16.7両ほどです。すなわち銀200貫目は6.7億円(3340両)、500貫目は16.75億円(8350両)、1000貫目は33.5億円(1.67万両)となります。資産が金1000両(2億円)なら千両分限、1万両(20億円)で万両分限です。手元の予備金だけで3万両(60億円)近くを有した白木屋は長者になります。

 その後も白木屋は発展し、江戸時代には三井越後屋、下村大丸と並ぶ江戸三大呉服店となります。幕末には莫大な借金を抱えて破産しかけますが、明治前期には財務状態を回復させ、百貨店に業務転換して各地にデパートを出店、第二次大戦後に東急百貨店に吸収されるまで存続しました。

湖東商人

 八幡の北東、神崎・愛知・犬上郡一帯に栄えたのが湖東商人です。現東近江市の能登川町や五個荘町、現愛知郡愛荘町、現犬上郡豊郷町、現彦根市高宮町など東山道/中山道沿いの宿場町を拠点とし、小幡や沓掛などの商人は前述のように六角氏・保内商人と手を結び、観音寺城と美濃や敦賀を繋いでいました。六角氏が滅ぶと安土や八幡に商人たちが移住しますが、東山道/中山道と愛知川・犬上川などが交わる要衝に変わりはなく、残った商人たちは彦根と京都を結ぶ販路を支えていたようです。

 湖東商人が近江国外に大規模に進出し始めるのは比較的遅く、江戸時代後期になってからです。享保年間(1716-36年)以後に彦根藩は財源拡大のため殖産興業を推進し、麻布の生産が盛んになりました。また農民が農閑期に商業活動を行うことを許可したため、彼らは麻布を京都などへ行商に出るようになります。この行商の販路は次第に広がり、京阪や東海道で仕入れた呉服や綿を中山道沿いに信州や関東、奥羽へ運んで売りさばき、そこで仕入れた呉服や生糸・紅花を名古屋・彦根・京阪で販売する「産物廻し」の商法で財を蓄える者が増え始めました。都市と地方を往復移動することから「のこぎり商い」とも呼ばれます。彼らは既存の大商店の商圏を避け、主街道より脇街道を用い、農村や漁村の万屋的な小売店への委託販売を行ったため、貨幣が浸透した地方の住民の需要を喚起したのです。

 やがて湖東商人は京阪・江戸など各地に出店を構え、後発ながら全国各地に進出していきます。明治維新以後は営業の本拠を京阪や東京に移し、繊維産業の近代化によって飛躍的に成長しました。総合繊維商社の「外与」、家具・照明機器の「小泉産業」など現代まで存続する会社も多くあります。

柏屋:藤野喜兵衛家

 明和7年(1770年)、近江国愛知郡日枝村(現犬上郡豊郷町日栄)に藤野喜兵衛が生まれました。父は四代目藤野四郎兵衛という商人です。天明元年(1781年)数え12歳の喜兵衛は初めて蝦夷地に渡り、義兄の宮川清右衛門が福山(現松前町字福山)で経営する萬屋の丁稚奉公となりました。寛政12年(1800年)31歳で独立して松前城下の松ヶ崎に店を開き、屋号を柏屋、商標を又十として物産販売と海運業を始めます。

 蝦夷地は古来松前藩が管理していましたが、寛政11年(1799年)東蝦夷地が幕府に召し上げられ、文化4年(1807年)には西蝦夷地も幕府領となり、松前藩は陸奥国伊達郡梁川に移封されました。藤野喜兵衛はこれに乗じて蝦夷地へ進出し、文化3年(1806年)に余市場所の請負商人となり、アイヌとの交易権を獲得します。2年後には宗谷・枝幸・常呂・網走・斜里を、文化14年(1817年)には国後場所を請け負うこととなり、文政4年(1821年)松前藩が旧領と蝦夷地を回復した際は、藤野家の船「常昌丸」が藩御用船として買い取られました。翌年に喜兵衛は藩主より名字帯刀を許され、7人扶持を授かり、勝手向御用に任じられて藩士として待遇され、翌文政6年(1823年)には利尻・礼文場所も請け負っています。

 藤野喜兵衛家は本家の四郎兵衛家と融合しつつ明治時代まで存続します。初代喜兵衛の孫にあたる辰次郎は衆議院議員をつとめ、払い下げられた缶詰工場を買い取って事業を拡大、北海道各地に工場を建設しています。

丁子屋:小林吟右衛門家

 安永6年(1777年)、近江国愛知郡小田苅村(現東近江市小田苅)に生まれたのが小林吟右衛門です。もとの名を吟次郎といい、父は島林家五代目の小林源左衛門(通称は重内)で、代々続いた旧家でした。吟次郎は日頃から立身の志高く、寛政8年(1796年)正月に鶯が部屋に飛び込んで来たことを吉兆とし、近隣の豪商松井久左右衛門家から300両の資金を借りて数え20歳で商売を始めました。彼は麻糸を仕入れて布を作り、菅笠とともに行商して歩き、当初は13両2分しか儲かりませんでしたが地道に商売に励み、50歳を迎える頃には有力商人となっていました。隠居後は吟右衛門と称して故郷の庄屋をつとめ、安政元年(1854年)74歳で没しました。

 二代目小林吟右衛門は初代の甥にあたり、幼名は亀吉といいました。7歳で叔父の養子となり、15歳の時に行商を始め、呉服・太物・医薬などを扱って販路を伸ばしました。初代の時は駿河まででしたが、二代目は関八州一円に商圏を広げ、天保2年(1831年)江戸堀留に織物問屋「丁子屋」を開店します。また京都や大坂にも出店し、彦根藩の為替方御用達をつとめて名字帯刀を許され、藩主・井伊直弼の金庫番として政治活動を支えました。直弼の暗殺後の激動や明治維新後も時流を読んで生き残り、明治6年(1873年)に74歳で大往生しました。丁子屋は主人の名から「丁吟」と呼ばれ、現在は八代目が日本橋堀留でチョーギン株式会社として衣服を取り扱っています。

紅屋:塚本定右衛門家

 寛政元年(1789年)、近江国神崎郡川並村(現東近江市五個荘川並町)の農家に塚本定右衛門が生まれました。父は浅右衛門といい、農業と布洗いを生業としていましたが、寛政12年(1800年)幼い子らを遺して没しました。定右衛門の母と彼女の2人の弟は行商を行って子供たちを養育し、文化4年(1807年)定右衛門も金5両を元手に小町紅を仕入れて行商を始めます。文化9年(1812年)には叔父に借金して甲府に小間物問屋「紅屋」を開き、叔父たちが没すると兄とともに信濃・甲斐方面の商圏を引き継ぎました。天保10年(1839年)には京都に出店するほどになっています。

 嘉永4年(1851年)定右衛門は隠居し、長男の定次が跡を継いで二代目定右衛門を称しました。彼は安政5年(1858年)に飢饉が起きると私財を村の貧しい人々に施し、川並村の領主である大和郡山藩主宛の大名貸を行っています。また自分の土地に桜や楓を植えて公園を作り、誰でも花見や紅葉狩りができるようにし、砂防工事や山林工事も行い、積立金を番頭や手代に分配し、学校を建てるなど公共のために投じ、自らは質素倹約に生活したので、勝海舟は『氷川清話』の中で彼を賞賛しました。明治5年(1872年)には東京日本橋に出店し、子孫は経営近代化に成功して小樽などへ出店、現代にもツカモト・コーポレーションとして存続しています。

薩摩屋:薩摩治兵衛家

 天保2年(1831年)、近江国犬上郡四十九院村字南町(現犬上郡豊郷町四十九院)に生まれたのが薩摩治兵衛です。彼は幼名を与三吉といい、父茂兵衛は農家でしたが与三吉が9歳の時に死没しました。田畑も家も売り払って小作農に転落した一家は極貧生活に陥り、耐えかねた与三吉は13歳の時に江戸へ出て、同じ近江出身の丁子屋に丁稚奉公に入ります。

 彼はよく働いて母に仕送りし、働きぶりと人柄を認められて番頭となり、二代目小林吟次郎が娘を娶らせたほどでした(のち離縁)。慶応2年(1866年)34歳で暖簾分けを許されて日本橋田所町に木綿問屋「薩摩屋」を構え、外国商人とも取引して規模を拡大し、横浜や大阪にも支店を構えました。明治32年(1899年)には99万6000円の売上税を納め、日本一の大店となっています。二代目薩摩治兵衛も業績を伸ばして資産を増やし、長者番付の常連となりましたが、1927年の金融恐慌で経営が悪化し、2年後の世界恐慌で決定的な打撃を受け、昭和10年(1935年)閉店に追い込まれました。

 二代目薩摩治兵衛の子が、バロン・サツマとして知られる薩摩治郎八です(爵位は持っていませんが)。彼は1920年に英国オックスフォード大学に留学し、2年後にはパリに移住、実家からの莫大な仕送りで贅沢三昧な放蕩生活を送り、様々な芸術活動のパトロンとなりました。仕送りが途絶えてからも美術品を売却したり人脈を利用したり、フランス政府から贈られた勲章の年金を受け取ったりして生活し、第二次世界大戦後に帰国すると文化人として活動、昭和51年(1976年)74歳で病没しました。

丸紅:伊藤長兵衛・忠兵衛家

 天保13年(1842年)、近江国犬上郡甲良郷豊郷村(現犬上郡豊郷町)に生まれたのが伊藤忠兵衛です。父は五代目伊藤長兵衛といい、代々1-2町の田地を自作する地主で、紅長べんちょうの屋号で耳付物という繊維品の小売を行っていました。忠兵衛は兄の六代目長兵衛とともに、安政5年(1858年)に近江麻布類の持下り商を開業し、堺や紀州への行商を始めました。

 長兵衛は国元で仕入れに当たり、のち博多新川端で商店を開業し、忠兵衛は明治5年(1872年)に大阪で呉服等を扱う店「紅忠べんちゅう」を開業します。彼は伝統的な近江商人の商法に従い「三ツ割銀」などの制度を導入して商売を軌道に乗せ、明治17年(1885年)に店名を「丸紅伊藤本店」と改めます。翌年には神戸に事務所を置いて海外との貿易を開始し、子の精一が跡を継いで七代目伊藤長兵衛とともに事業を発展させ、大手総合商社丸紅および伊藤忠商事(戦前は合併して伊藤忠財閥)を築き上げました。

三中井商店:中江勝次郎

 明治時代、南五個荘村の金堂で三中井みなかい呉服店を創業した中江勝次郎は、20世紀前半に朝鮮半島に渡り、兄弟たちとともに三中井商店を設立しました。この商店は彼の才覚で次々に出店し、朝鮮・満州・チャイナに18店舗を持つ百貨店チェーンとなり、三越百貨店などと並び称される巨大企業に成長しました。しかし昭和19年(1944年)勝次郎が没し、翌年日本が敗戦すると対外資産の全てを失います。一族は五個荘に戻って菓子屋に転業、現代も三中井の屋号を受け継いでいます。

 明治以後に湖東から出た実業家としては、他に彦根出身の弘世助三郎日本生命保険の創設者の一人)、同じく彦根出身の児玉一造(東洋綿花/トーメン創設者)とその弟利三郎(豊田佐吉の婿養子でトヨタ自動車などを設立)、愛知郡八木荘村出身の堤康次郎西武グループ創設者)らがいます。いずれも近現代日本の政財界に大きな影響力を持つ巨大企業です。

◆丸◆

◆紅◆

【続く】

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