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【つの版】度量衡比較・貨幣253

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は近江国・八幡商人の続きです。

滋賀県

◆出◆

◆勤◆


八幡商人(続)

 八幡を拠点とする豪商は多く、全てを数え上げることはできませんが、代表的な人々を列挙してみましょう。

近江屋:伴伝兵衛家

 西川甚五郎家と並び称されたのがばん伝兵衛家です。先祖は古代の豪族大伴氏ともされ、中世に三河から近江国甲賀郡に移住しました。永禄5年(1562年)松平元康が今川方の籠る三河国上ノ郷城を攻めあぐねた際、伴与七郎資定ら80余名が甲賀から招聘され、火計をもって攻め落としたことがあります。この時に参戦した伴太郎左衛門資家は後に織田信長に仕えましたが、本能寺の変で討死しました。

 子の伝兵衛資則(資規)は武士をやめて商人となり、信長との縁を頼って安土から八幡に移住し、麻織物や畳表、蚊帳などの行商で身を立てました。郷士とはいえ元武士ゆえ人脈も豊富で目端も利き、慶長15年(1610年)にはいち早く江戸日本橋に出店、多くの大名家を顧客にしていたといいます。

 二代目伝兵衛は明暦年間(1655-58年)に江戸日本橋の伴家近江屋の主人でしたが、ある大晦日に筑前柳川藩邸を訪れ、藩主の立花左近将監忠茂から囲碁に誘われました。両者は囲碁の好敵手でしたが、勝負は夕から夜まで長時間に及び、伝兵衛は「正月の準備もございますゆえ」と暇乞いをします。しかし藩主は「松飾りは必ず立派に作らせよう」と約束して引き止め続け、気がつけば鶏鳴の頃となります。伝兵衛が慌てて店へ帰ると、果たして立花侯が家来に運ばせた立派な松飾りが立っており、近江屋の名声は江戸じゅうに鳴り響きました。これより幕末慶応年間までこの例が続いたといいます。

 七代目伝兵衛能弘は、もと滋賀郡下坂本村(現大津市坂本)の拾井家の人で、数え46歳の時に六代目伝兵衛資光の婿養子となって家督を継ぎました。兄幾六重暁(石亭)は享保9年(1725年)の生まれで、母の生家である木内家を相続し、奇石収集家・本草学者として平賀源内とも交流のあった人物です。能弘の生年は不明ですが石亭よりは下でしょうから、数え46歳というと1771年以後となります。寛政3年(1791年)に旗本の朽木長綱(高島郡朽木家の分家)が八幡町の領主となると、能弘は町の総年寄に任じられ、名字帯刀が許されました。兄石亭が66歳の頃で、能弘も還暦ぐらいでしょうか。2年後に長綱が隠居すると、子の綱常が領主を継ぎます。

 八幡町の住民は豊臣秀次以来朱印状により諸役が免除されており、朽木氏もそれを踏襲していましたが、文政5年(1822年)6月に突如幕府から派遣された役人が「吟味のため」として朱印状差し出しを命じました。これは幕府による特権剥奪に繋がる可能性があったことから、町衆らが提出を拒否したところ、代表2名が捕縛されてしまいます。町衆は強く抗議して彼らは解放されたものの、役人らは再三提出を要請したため、伝兵衛能弘は両者の間を取り持ちつつ、江戸へ代表を派遣して諸役免除存続を求めました。最終的に町衆の希望が通り、朱印状提出については沙汰止みとなりましたが、文政8年(1825年)朽木綱常は領地替えとなり、八幡町は幕府領とされています。

扇屋:伴庄右衛門家

 伴伝兵衛家の分家のひとつが、伴庄右衛門家です。初代はもと彦十郎といい、寛永8年(1631年)に伴伝兵衛道悦の四男として生まれ、20歳の時に伴庄右衛門資次と名乗って独立、畳表、蚊帳、扇子、麻織物を中心に商売を行い、8年後には大坂に出店して扇屋と号しました。さらに京都にも出店、43歳の時には江戸日本橋に出店し、為替業や大名貸しもするようになります。

 五代目庄右衛門資芳すけよしは享保18年(1733年)京都の商家に生まれ、8歳で四代目庄右衛門資之の養子となり、18歳で家督を継ぎ、質素・倹約・勤勉を旨として家業に専念しました。しかし36歳で家督を譲って隠居・剃髪し、以後は閑田蘆蒿蹊こうけいと称して和歌や国学、著述業に専念しました。彼は家訓『主従心得草』、随筆『閑田詠草』『閑田耕筆』『閑田次筆』の他、『近世畸人伝』正続10巻を著し、中江藤樹・貝原益軒ら一風変わった、しかし人として天道にかなった人物200余名の伝記を残しています。また彼は先祖の道悦居士を理想的人物として賞賛しました。庄右衛門家は幕末まで豪商として存続しますが、その後は衰えています。

安南屋:西村太郎右衛門

 西村太郎右衛門は、慶長8年(1603年)頃に八幡で生まれた商人です。父は西村嘉右衛門といい、近江国愛知郡小幡庄田村(現東近江市五個荘小幡町)の商人・布施(西谷)源左衛門の弟の子で、織田信長が安土城を築いた時に源左衛門らとともに安土へ移住しました。のち八幡山城が築かれるとこちらへ移住し、慶長5年に嫡男の二代目嘉右衛門を儲けたといいます。初代と二代目の西村嘉右衛門は、ともに近江八幡の町総年寄をつとめ、名字帯刀が許されていました。

 関ヶ原の戦いの翌年、徳川家康は安南(ベトナム)、マニラ、カンボジア、シャム(タイ)、パタニなど東南アジア諸国に使者を派遣して外交関係を樹立し、慶長9年(1604年)に朱印船制度を実施しました。これは江戸幕府の公認の印である朱印状を持つ商人のみが海外交易を行えるとしたものであり、30年間に350隻以上の日本船が海外に渡航しています。

 この朱印船貿易に参入した人物のひとりが、京都の豪商・角倉すみのくら了以りょういです。彼の本姓は吉田氏で、近江佐々木源氏の傍流にあたり、近江国犬上郡吉田村に本貫がありました。曾祖父吉田徳春(1384-1468)が上京して幕府の医官として仕え、医業で得た財をもとでに土倉(金融業)を営み、巨万の富を蓄えるに至ったのです。子の素庵らも朱印船貿易に携わり、西村太郎左衛門もこれに乗って安南へ移住しました。

 この頃のベトナム(大越国)は、15世紀に興った黎朝が名目上の支配者でしたが、実権は重臣の鄭氏が掌握していました。また北部の高平には莫氏、宣光には裒氏、南部の富春フエには阮氏広南国が割拠しており、安南とは鄭氏の統治する北部領域(東京、交趾、北河とも)を指しています。ただフエの南のホイアンには日本人街が存在しましたから、太郎左衛門はここにいたのではないかとも推測されています。

 安南国で20年間商売を続けた太郎左衛門は、正保4年(1647年)日本に戻ろうとしますが鎖国により帰れず、日牟礼八幡宮に「安南渡海船額」と名付けた立派な絵馬を献納しました。鎖国中に海外在住日本人から奉納された絵馬には伊勢松阪の角屋七郎兵衛や山田長政にも例があります。太郎左衛門はその4年後、慶安4年(1651年)2月に49歳で安南に没しました。

暹羅屋:岡地勘兵衛貞政

 同じく東南アジアに雄飛した近江八幡商人に、岡地勘兵衛貞政がいます。彼は永禄9年(1566年)生まれで、朱印船貿易によって暹羅しゃむろ=アユタヤ朝タイ王国と交易しました。また暹羅の染色技法を習い、更紗の一種の「暹羅染」を創始して屋号を「暹羅屋」とし、慶安2年(1649年)に84歳で没しています。この店は明治時代まで存続しました。

最上屋:西谷善太郎家

 北に目を転じ、出羽国の最上地方に最も早く進出した八幡商人が、「最上屋」西谷善太郎です。家祖は布施源左衛門といい、近江国神崎郡小幡庄(現東近江市五個荘小幡町)の出身で、織田信長の時代に安土城下に移住しました。その子西谷源左衛門は安土から八幡に移住して小幡町に住み、慶長8年(1603年)孫の善太郎が生まれます。彼は寛永4年(1627年)頃から出羽国へ呉服や古着の行商に赴き、代々善太郎を名乗って同地に出店を構え、米屋を買収して大きくなり始めました。8代目善太郎は宝暦年間(1751-63年)に活動し、呉服・真綿・古着類を上方から最上へ運び入れ、紅花・青苧・絹糸・煙草を最上で買い入れて上方へ運び、巨万の富を築いたといいます。当時は八幡で最上や奥州福島(現福島県福島市)へ出店していた商家は10余軒ありましたが、文化年間(1804-18年)より凋落したと伝えられます。

住吉屋:西川伝右衛門

 出羽よりさらに北、蝦夷地に進出した八幡商人が、「住吉屋」西川伝右衛門です。西川甚五郎家や利右衛門家とは別らしく、先祖は六角氏の家臣で永禄年間に近江国蒲生郡津田村(現近江八幡市津田)に居住した市往右兵衛尉吉久とされます。のち八幡に移住して西川氏と称し、吉久の子吉春の次男が分家して伝右衛門家を建てたとされます。

 異説では市往右兵衛尉吉久はもとの名を西川宇右衛門といい、正親町院の用をつとめた時にその名に改めたもので、安土から八幡為心町に移住しました。吉久の子の右兵衛義重には2人の女房がおり、越後出身の前妻を妙願、八幡新町で娶ったのを妙意といいましたが、伝右衛門は妙願を母として寛永4年(1628年)越後高田に生まれたといいます。兄は長右衛門、弟は伝兵衛といい、各々別家を興しました。

 伝右衛門は少年の頃から父にならって行商に出、600匁を元手として越後を中心に菓子や荒物(雑貨)を取り扱い、利益を呉服・太物(厚手の麻織)に換えて北陸・奥羽へ売り歩きました。のち蝦夷松前での行商に利があることを越後で聞き、慶安3年(1650年)23歳で蝦夷福山・江差・箱館への行商を始め、上方の産物を販売したところ、数年で巨利を獲得しました。

 そこで松前藩家老職の下国安芸守の力添えで小松前町に出店を開き、住吉屋と称しました(近江では松前屋)。彼は松前藩の御用商人となり、五百石船・千石船を建造して大規模に物産を輸送し、一代で松前屈指の豪商になったといいます。伝右衛門は商標として国構えの中に一の字を記したものを用いましたが、これは下国安芸守への謝意を示したものともいい、諱として昌隆を用いました。

 伝右衛門は自ら蝦夷奥地に入って蝦夷の民と接し、寛文7年(1667年)頃までに高島・忍路の地(ともに現小樽市)を選んで請負漁場を開き、蝦夷地の海産物や材木を内地へ運びました。請負漁場制度が本格化するのは後世のこととなりますが、伝右衛門は生涯に近江と蝦夷地を40数度も往復し、元禄9年(1696年)70歳を前に隠居、二代目伝右衛門昌興に家督を譲りました。元禄14年(1701年)には松前藩侯より長年の功に対して報いるため名字帯刀が許され、御先手格20人扶持を賜り藩士待遇を授かっています。功成り名を遂げた伝右衛門は長寿にも恵まれ、宝永6年(1709年)82歳で没しました。

 伝右衛門家の分家・善六家の吉輔は幕末維新期に国学者として活躍し、教え子で義甥の西川貞二郎は伝右衛門家10代目の当主となり、八幡銀行や帝国水産を設立しました。彼の養嗣子・西川吉之助は娘が聾者であったことから聾唖教育者となり、「口話法」を米国から導入して広めています。しかし北海道でのニシンの不漁で財産と邸宅を失い、昭和15年に入水死しました。

麻屋:市田清兵衛

 寛永14年(1637年)八幡に生まれた市田清兵衛は、先祖は六角氏に仕えた武士でしたが帰農して神崎郡石川村(五個荘)に居住し、13代目の吉兵衛が足袋商を営んで八幡に移住したとされます。清兵衛は上野国安中・高崎を拠点として織物類を行商し、絹・生糸・真綿を仕入れて江戸・名古屋・京都で売りさばきました。また上方の繰り綿を仕入れて信州・上州で販売し、東西を往復して巨富を蓄えたといいます。主に繊維製品を扱ったことから麻屋と号し、正徳4年(1714年)78歳で世を去りました。

◆労◆

◆働◆

【続く】

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