【つの版】度量衡比較・貨幣273
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は伊勢国・津藩藤堂家の続きです。
◆津◆
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藤堂高次
寛永7年(1630年)、初代津藩主の藤堂高虎が75歳で没すると、嫡男高次が29歳で跡を継ぎます。高虎はなかなか実子ができなかったため、天正16年(1588年)に丹羽長秀の子で羽柴秀長の養嗣子だった仙丸(元服し一高・高吉)を養嗣子として迎えていましたが、慶長6年閏11月(西暦1602年1月)、46歳の時に実子大助(高次)が生まれます。高吉はこの時22歳で、高次とは父子ほども年齢が離れていましたが、高虎は高吉を後継者の座から外し、一門の家臣として扱うこととなります。次いで高次の弟高重も生まれますが、仮に高次・高重が早世すれば高吉が跡継ぎに戻る目は残っていました。
高虎が伊予から伊勢・伊賀に転封されると、高吉は今治城代として飛び地領2万石を預かりますが、高虎が没すると跡継ぎにはなれませんでした。翌年高重が没し、寛永12年(1632年)高吉は伊勢多気郡・飯野郡内の2万石へ転封され、松平定房が今治城主となります。翌寛永13年(1636年)伊賀国名張郡へ転封され、次男以下3名に計5000石を分与して1万5000石を授かりました。高吉は寛文10年(1670年)93歳の高齢で世を去りますが、彼の子孫は名張藤堂家として存続し、藤堂本家を脅かすことになります。
高次は江戸幕府老中酒井忠世の娘を正室とし、妹たちや娘たちを各地の大名家に嫁がせて関係を保っていました。また江戸城や日光の家光霊廟など、数多くの石垣普請を命じられています。父高虎が築城名人であったことから多くの技術者を抱えていたのでしょう。しかしこれらの負担は藩財政を悪化させ、高次は新田開発を積極的に奨励して年貢増収をはかりましたがうまくいきませんでした。寛文9年(1669年)、老いた高次は隠居して家督を長男高久に譲り、7年後に父と同じく75歳で世を去ります。
藤堂高久
藤堂高久は家督を相続した時32歳でした。彼は無嗣改易を回避するため、弟の高通に一志郡のうち5万石を分与し、陣屋を築かせて久居藩を立藩させたので、表高は32万950石から27万3950石に減少しています(のち弟高堅にも3000石を分与)。高久の正室は、酒井忠世の孫で長年幕府老中・大老をつとめた忠清の娘にあたり、天和元年(1681年)忠清が急逝するとその娘を養女としています。続いて将軍綱吉のもと政権を握った柳沢吉保に接近し、その玄関番と揶揄されるほどに媚び諂ったといいます。
領内では善政を敷き、財政逼迫に対処するため藩政改革に取り組み、綱紀粛正と新田開発、水利事業を推進しました。元禄3年(1690年)頃に編纂された諸大名の評判記録『土芥寇讎記』には「領民は彼を仏のように(尊く)思っている」「男色にも女色にも溺れていない」「他の愚昧な大名に比べれば雲泥万里の差がある」「当代の名将、他将の鑑である」と激賞されています。一方で伊賀国白土山の陶土の乱掘を防ぐため採掘を一時禁止したところ陶工が隣国近江信楽に流出してしまい、古来栄えた伊賀焼が一時衰退したとも言われています。男子に恵まれなかったため異母弟の高睦を養嗣子としており、元禄16年(1703年)逝去しました。
高睦以後
藤堂高睦
高睦の治世には元禄地震・宝永地震・富士山の宝永大噴火など災害が重なり、藩邸や領内に甚大な被害が出ました。そのため藩政改革を断行しますが宝永5年(1708年)に在位5年で没し、養嗣子高敏が跡を継ぎました。
藤堂高敏
高敏は高久の弟高通の三男で、高睦の甥にあたります。二人の兄が早世したため嫡男となりますが、父が没した時は5歳であったため家督は叔父高堅が相続します。これは中継ぎで成長後は久居藩を継ぐ予定だったものの、藤堂宗家高睦の男子らが早世したため、宝永2年(1705年)高睦の養嗣子となりました。もともと久居藩は宗家の跡継ぎを確保するために立てられたのですから、さっそく役に立ったわけです。久居藩主家は高堅が留任しました。
藤堂高虎―高次―高久
高清 高吉 高通―高敏
高堅―高陳
高睦
藤堂高治
高堅は正徳5年(1715年)66歳で没し、子の高陳が跡を継ぎますが、実子がなかったので藤堂高清の曾孫高治が養嗣子となり、享保8年(1723年)家督を譲られて久居藩主を継ぎます。ところが享保13年(1728年)藤堂宗家の高敏が疱瘡により病没し、男子がいなかったので高治が宗家を継ぎます。久居藩主は高治の甥高豊が相続しました。藩祖高虎の直系子孫は断絶し、以後は高清の子孫(藤堂出雲家)が津藩主となります。
藤堂高清―高英―高明―高治…高雅
高武―高豊
藤堂高豊
さらに享保20年(1735年)高治が26歳で没すると、久居藩主の高豊が跡を継ぎます(久居藩主は高治の子高雅が相続、公的には高武の子)。彼は34年間在位しますが、日光東照宮の修補造営や江戸洪水復興の手伝い普請を行い、24万両もの借金を背負いました。また文学を奨励して儒者を招き自らも奢侈に走ったため、借金は増えるばかりでした。
藤堂高悠
高豊は高敦・高朶・高丘・高行という四人の男子に恵まれましたが、高治には実子高般がいたため、彼を養嗣子としていました。ところが高般は後を継ぐ前に没したため、高般の養嗣子である高丘が高豊の「嫡孫」として跡継ぎとなり、明和6年(1769年)高豊から家督を譲られ高悠と改名しました。高豊は隠居後に高朗と改名し、天明5年(1785年)69歳で没しています。
藤堂高嶷
しかし高悠は生来病弱で翌年20歳で没し、久居藩主であった兄の高敦が宗家の家督を相続して高嶷と改名します。久居藩主は弟の高朶、次いで高行改め高興が相続しました。相次ぐ藩主の交替により藩政はますます不安定化し、財政も窮乏したため、高嶷は財政再建を主とした藩政改革を断行します。まずは多額の借金を棒引きにしますが足りず、寺社修復のために領民が積み立てていた祠堂金に手をつけようとし、寺社や領民の反発を買って「神仏の敵」と非難されました。さらに領内の地主から土地を没収して公有地にし、領民に分配して年貢を納めさせる均田制(班田収授法)を行おうとしたため地主層も激怒し、寛政8年(1796年)には3万人規模の百姓一揆を招きました。高嶷は藩政改革を成し遂げぬまま文化3年(1806年)61歳で世を去り、嫡男高崧は病弱で任に堪えず、その子高巽も同年早世したため、久居藩主であった次男高兌が跡を継ぎました。
藤堂高豊―高嶷(高敦)―高兌
高悠(高丘) 高崧―高巽
高朶
高興(高行)
藤堂高兌
高兌は天明元年(1781年)の生まれで、10歳の時に久居藩主・藤堂高矗(高豊の弟高文の孫)の養嗣子として跡を継ぎました。久居藩は藩主の早世や津藩主への転任が多かったため藩政は安定せず、財政が窮乏していたため、成長した高兌は藩政改革を試みます。まず寛政9年(1797年)に儒教経典『周礼』を参考にして義倉積米制度を制定し、藩士の知行や扶持米のうち100分の1を積み立てて藩の事業資金としました。高兌はこれをもとに藩校の運営や災害復興、窮乏者への貸付などを行い、私的には用いず公的なことのみに用いたため、廃藩置県までの75年間に11万6800両も積み立てられたといいます。さらに法令の整備や行政機構の改善、綱紀粛正なども行い、長年乱れていた久居藩の財政と政治は見事に立ち直ったのです。
こうした業績を挙げたのち、高兌は上述の事情で27歳にして津藩主に就任します。津藩もまた長年混乱が続いており、財政も傾いていたため、藩士の中には政治手腕に期待する者も多くいました。まず高兌は質素倹約を率先して行い、木綿の服を常に身に着け、出費を切り詰めて貯金し、10年後には1000両以上もの貯金を築き上げました。藩士らもこれに従って質素倹約に励み、久居藩で行われていた義倉積米制度も津藩に導入され、次第に借金は減って事業資金が捻出されていきます。
高兌はこれと並行して法令の整備、行政機構の改善、灌漑用水の整備、治水工事の実施、植林・養蚕などの産業育成などに取り組み、役人の不正を取り締まるために新たな役職「勧農方」を制定し、信のおける者を任じて定期的に領内を巡察させました。さらに複数の藩校を創設して領民にも教育を奨励し、和・漢・蘭学や文武を学ばせ、津藩中興の祖と称えられました。領民たちは感謝のしるしとして米240俵を献上し、文政7年(1824年)に高兌が病に倒れると自発的に神社仏閣に詣でて病気平癒を祈願したといいます。しかし願いは届かず、高兌は在位18年にして44歳で病没しました。
藤堂高猷
子の高猷が跡を継ぎ、在位期間は明治4年(1871年)まで46年に及びますが、彼の時代には凶作や天災が相次ぎ、幕末の動乱や兵制改革もあって藩財政は212万両の借金を抱えるに至りました。彼は佐幕派・公武合体派で、鳥羽伏見の戦いでは幕府軍に与しますが、津藩家老の藤堂元施が勅書を賜り、藩命を待たずに新政府軍に寝返ります。これにより津藩は朝廷の信任を得、廃藩置県後は子の高潔が旧中藩知事として伯爵に列せられました。
◆津◆
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【続く】
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