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【つの版】度量衡比較・貨幣274

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は伊勢国の続きです。

三重県

◆松◆

◆松◆


中勢三郡

 一志いちしは現在の津市南部と松阪市北部にあたり、北は相川を境として安濃郡に接し、東は海に面し、南は飯高郡に接し、南西は大和国宇陀郡と伊賀国名張郡に接しています。大部分は青山高原で、三峰山を源流とし郡内を貫く雲出川下流部には平野が広がっています。

 飯高郡は現在の松阪市の大部分にあたり、北は一志郡と海に面し、東は櫛田川を境として飯野郡に接し、南と西は櫛田川流域の分水嶺を境として多気郡と大和国吉野郡・宇陀郡に接しています。一志郡とともに宇陀・吉野と伊勢を繋ぐ重要な地で、倭国の都が奈良盆地南部のヤマト(三輪山の麓)にあった古代や、吉野に南朝が置かれた南北朝時代には特に重要視されました。古墳時代には一志郡域に壱志いし県、飯高郡域に飯高県が置かれ、各々県造あがたのみやつこに治められていました。

 飯野郡は現在の松阪市のうち櫛田川以東を占める狭い郡で、天智天皇3年(664年)伊勢神宮の神郡である多気郡から分割されて公領(朝廷に租税を納める地域)となりました。多気郡との境には櫛田川の分流である祓川が流れており、かつて櫛田川(古名は多気川)の本流でしたが、承和14年(847年)に大氾濫を起こして河道が西へ動いたのです。その後も河道はしばしば動いたため、多気郡との間に地境を巡る争いが長く続きました。のち再び神郡とされ、明治29年(1896年)飯高郡と合併して飯南郡とされています。

 いずれも伊勢神宮の影響が強い地域ですが、平安時代後期には伊勢平氏、鎌倉時代には伊勢守護北条氏、南北朝時代には伊勢国司北畠家の支配下に置かれました。室町時代には北畠家は事実上伊勢南半国の守護に任じられ、一志・飯高・飯野・多気・度会の5郡を治めることとなります。一志郡はその最北端にあり、雲出川は北畠家の勢力の最前線として、しばしば戦場となりました。戦国時代には北畠家は勢力を北へ伸ばし、安濃郡(津市)の長野工藤氏、鈴鹿郡(亀山市)の関氏、河曲郡(鈴鹿市)の神戸氏らを服属させ、北伊勢や北伊賀に勢力を伸ばした近江守護六角氏と争っています。

 織田信長は伊勢に侵攻し、永禄12年(1569年)に北畠家を屈服させると、次男の茶筅丸を北畠家の養嗣子とし、飯高郡大河内城(現松阪市大河内町)に置きました。ここは坂内川が伊勢平野に出るあたりにある要害で、宇陀や吉野に至る街道を抑えており、西の坂内城、南の三瀬館に退いた北畠家の残存勢力に睨みをきかせることができます。

 元服した茶筅丸は北畠具豊、ついで信意と改名し、大河内城を破却して東の度会郡田丸城に移ります。翌天正4年(1576年)北畠一門を粛清して実権を掌握し、天正8年(1580年)田丸城が焼失すると、北西に20㎞ほど離れた細頸ほそくびという場所に新たな城を築き、松ヶ島城と名付けて移りました(現松阪市松ヶ島)。ここは三渡川が伊勢湾に注ぐ河口の南にあり、東には櫛田川・金剛川・坂内川の河口部、北には雲出川の河口部が近く、伊勢神宮への古参道沿いに位置する要衝の地です。

 本能寺の変の後、北畠信意/信勝改め織田信雄は羽柴秀吉と手を結び、織田信孝・滝川一益を下して尾張・北伊勢をも掌握、尾張国清洲城に拠点を移します。しかし間もなく秀吉と対立し、天正12年(1584年)徳川家康と結託して挙兵しました。これに敗れた信雄は南伊勢と伊賀を失い、松ヶ島城には蒲生賦秀(翌年氏郷と改名)が入って南伊勢12万3000石を授かります。

松坂城主

蒲生氏郷

 彼は近江国蒲生郡日野の出身で、一族は先祖代々近江守護六角氏の重臣をつとめていました。六角氏が織田信長に敗れると祖父・父とともに信長に降り、信長を烏帽子親として元服し、その娘婿となっています。松ヶ島城主となった時は37歳で、年齢・功績・家格とも申し分ありません。彼は新たな居城として、南に5㎞ほど離れた場所に松坂城を築くこととなります。

 現在の松坂城がある場所(現松阪市殿町)は、伊勢国飯高郡矢川庄にある標高38mの小高い丘で、「四五百よいほの森」と呼ばれていました。平安時代の『延喜式』神名帳に「意悲おひ神社」とあり、現在の松阪神社のこととされます。中世伊勢神宮の領地を記した『神鳳鈔』には「四藺生よいほ御薗」「四生御厨」と記され、多気郡(飯高郡か)にあって外宮に米六斗を納めていたとあります。古来の土豪飯高氏が産土神として崇めていたものと思われ、のち伊勢神宮の神領とされたのでしょう。

 戦国時代には北畠家の家臣・潮田氏が築いた四五百森城があり、織田信長の侵攻をよく阻みました。北には坂内川が流れて天然の防壁かつ交易路となり、伊勢湾まで通じていますし、近くには伊勢街道が通っています。蒲生氏郷はこの城のポテンシャルに目をつけて縄張りを行い、新たな居城として整備を開始しました。石垣は近江から穴太あのう衆を呼び寄せて築かせ、町筋は直線ではなく曲がり角をつけ、町の周囲には寺院が配置されていざという時の砦となるなど、防衛にも配慮した街作りがなされました。

 松ヶ島の城下町には近江国日野から多くの商人が招かれていましたが、氏郷は彼らを新たな城下町に移住させ、その居住区を日野町と名付けて楽市楽座とし、商業を発展させました。さらに度会郡の大湊から豪商を招いて外港に住まわせています。天正16年(1588年)に完成すると、氏郷はこの地を秀吉が築いた大坂城にちなんでか「松坂」と改名し、意悲神社に八幡神を合祀して城の鎮守としました。松と書くのは明治22年(1889年)からです。

服部一忠

 天正18年(1590年)、蒲生氏郷は陸奥国会津郡42万石に国替えされ、代わって服部小平太一忠が松坂城主となり、一志郡3万5000石を授かります。彼は尾張国津島出身で、織田信長の馬廻衆となり、桶狭間の戦いでは今川義元に一番槍をつける戦功をあげますが、義元の反撃で膝を斬られて歩行困難となり、弟の小藤太に家督を譲る羽目になります。本能寺の変の時、小藤太は信忠とともに二条御所で戦って討死したため、一忠が家督を再び継いで秀吉の馬廻とされました。織田信雄が改易され、豊臣秀次がその旧領に封じられると、一忠は秀次の与力として松坂に封じられたのです。しかし文禄4年(1595年)7月に秀次が失脚すると連座して所領を没収され、上杉景勝に預けられたのち切腹を命じられました。子孫は徳川家に仕えています。

古田重勝・重治

 続いて松坂城主となったのは古田重勝です。父重則は美濃出身で織田信長に仕え、天正7年(1579年)羽柴秀吉に従って播州三木城を攻撃した際に戦死しました。20歳で家督を継いだ重勝は秀吉に仕えて活躍し、近江国日野城主を経て松坂城主となりました。石高は服部一忠と同じ3万5000石です。秀吉没後は家康に従い、会津征伐の途中で西軍挙兵の報を聞くと急いで帰国、安濃津城に籠ってしばし西軍を引きつけました。大軍にはかなわず和睦に応じたものの、家康に評価されて2万石を加増され、慶長11年(1606年)に47歳で世を去っています。子の希少丸(重恒)はまだ4歳であったため、家督は弟重治が相続しました。彼は元和5年(1619年)石見国浜田城主に国替えされ、旧松坂藩領は紀州藩領に組み込まれます。

紀州藩領

 紀州藩は和歌山城を居城とすることから和歌山藩ともいい、紀伊一国37万6000石余を治める大藩です。関ヶ原の戦いの後、家康は浅野長政の長男幸長を和歌山城主・紀伊国主に封じますが、慶長18年(1613年)に幸長が38歳で病死すると男子がおらず、弟の長晟が跡を継ぎました。元和5年(1619年)に福島正則が改易されると代わりに安芸国広島城42万石に国替えされ、家康の十男・徳川頼宣が紀州藩主に封じられます。この時に白子・松坂・田丸など伊勢17万9000石も紀州藩領とされ、合計55万5000石となりました。

 伊勢国のうち度会郡・多気郡の大部分、飯高郡の全域、一志郡の半分強、飯野郡・河曲郡・三重郡の一部が紀州藩領となりますが、和歌山城は紀伊半島の西側にあり、南側で地続きとはいえ伊勢領は大和国を挟んで東に遠く離れています。そこで紀州藩は伊勢国度会郡田丸城に家老の久野宗成を封じて1万石を授け、松坂城には城代を置いて伊勢領を管理させ、白子湊には代官を置いて海運を司らせました。これより廃藩置県まで250年以上の間、松坂城は紀州藩が伊勢領を支配する拠点として機能することとなります。そしてこの松坂こそ、いわゆる「伊勢商人」の根拠地となったのです。

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【続く】

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