【小説】蒼き肉球(第3話)
これまでのあらすじ
少年リンは、掌の中央が深い青に染まる珍しい肉球を持つ。ある日、王のバカ息子による「肉球狩り」で目をつけられるが、なぜか一度は解放される。その夜、城に招かれたリンに、昼間とは別人のような王子が「あなたを探していた」と告げる。翌日、王子は再びバカのふりを装いつつ、夜には正体を明かし、戦士ガイと謎の女スイと共にリンを連れて城を脱出しようとする。それを怪しんだドスが行く手を阻むが、戦いの果てにリンの肉球が青く光るのを目にし、王子が彼を逃がそうとした理由をついに悟る。
第3話 束の間の家路
夜の闇に紛れて城を、そして国境の手前までをも抜け出した――かに見えた一行は、実のところ、そのまま国を出てはいなかった。追手の目を十分にくらませたところで踵を返し、闇の中をひそかに町へと舞い戻ってきたのだ。行き先は、サチの家。その二階だった。
もとより国を出るつもりであることに変わりはなかった。だがリンは、母がどれほど自分を案じているかを思うと、居ても立ってもいられなかった。せめて一目、無事な姿を見せておきたい。そう言い張るリンに、王子も反対はしなかった。
そうして忍び込んだサチの家は、思いのほか居心地がよかった。狭い部屋、軋む床、煮炊きの匂いが染みついた台所――そのどれもが、王子たちにとってはこれまで縁のなかったものだったのかもしれない。当初は一晩か二晩のつもりが、気づけば三日が過ぎようとしていた。
もちろん、この家に王子ともあろう者が、しかもガイやスイまで一緒に潜んでいるなどと知れては一大事である。サチと居候たちは、そのために様々な工夫を凝らした。日が暮れてからは灯りを窓辺に近づけず、分厚い布を垂らして光が漏れないようにする。声や物音が通りにまで届かぬよう、話すときは自然と声をひそめるようになった。水汲みや洗濯はいつもより早い時間、まだ近所が寝静まっている頃合いを見計らって済ませる。サチは近所には「風邪気味で、しばらく静かにしていたい」とだけ伝え、誰も家に上げようとしなかった。何より、四人分の食事を用意しているところを見られるわけにはいかない。サチは買い出しの量を少しずつ、何日かに分けてこっそり増やし、隣家の目を欺いた。
その甲斐あって、四人がこの家に潜んでいることに気づく者は、誰一人としていなかった。
サチの作る食事は、決して豪華なものではなかった。だが、その味付けには繊細な手間がかけられていた。大麦のパンを薄く切って炙り、香草を効かせた豆と根菜の煮込みをたっぷりとかける。塩漬けにした川魚を軽く炙ったものに、蜂蜜を溶かした酢を垂らす。庭先で摘んだ野草を刻んで和えたものは、ほのかな苦みが後を引いた。デザートには、干した木の実を煮詰めて作った甘い煮汁がふるまわれた。
王子やガイ、スイまでもが、驚くほどよく食べた。城の食事とは比べ物にならないほど質素なはずなのに、王子は何度も匙を伸ばし、ガイは黙々と皿を平らげ、あの無口なスイでさえ、パンを二切れ、三切れとおかわりした。リンとサチは顔を見合わせ、目を丸くしたものだった。
「こんなに美味い飯は、城でもそうそう食えない」
王子が、口の端についた煮汁を拭いながら、しみじみとそう漏らした。
三日目の夜、四人は二階の部屋で、灯りを最小限に絞り、声をひそめながら話し込んでいた。これからのこと、そして――それぞれが背負ってきたものについて。
王子はまず、父である王のことを口にした。
「厳格で、腹の内をまるで見せない人だった。物心ついた頃から、一緒に遊んだ記憶なんてひとつもない。笑った顔も、見たことがないんだ」
その父に認められたい、あるいは見返してやりたい――そう願ったのは、第一継承権を持っていた兄の方だったという。兄は無謀なことを繰り返し、やがて隣国への出兵という取り返しのつかない過ちを犯し、今は遠い山奥に幽閉されている。
「でも、小さい頃の兄上は、とても優しくて、気高い人だったんだ」
王子はそう言って、少し遠い目をした。
続いて口を開いたのは、ガイだった。牛が草を食むように、ゆっくりと、しかしとても朴訥な調子で語る。その声はおおらかで、聞いているだけで妙に安心できるものだった。
「俺は、国境に近い村の生まれでよ。小さい頃から、国境を守る兵士によく遊んでもらってなあ。自然と、俺もああなりたいと思うようになったんだ」
やがてその怪力と戦の腕を見込まれ、王直属の近衛兵として召し抱えられることになったのだという。口が堅く、国に対しても誰に対しても実直なガイのことを、王子はいつしか深く信頼するようになっていた。
「こいつだけは、裏切らないと分かってたからな」
王子がそう言うと、ガイは照れくさそうに、太い首の後ろを掻いた。
スイは、多くを語らなかった。ただみんなの話に、静かに耳を傾けているだけだった。
「スイさんは……何か、話してくれないんですか」
リンがおずおずと水を向けると、スイは短く、素っ気なく答えた。
「私には、語るべきものがありません」
それだけだった。だが、王子もガイも、それを咎めるようなことはしなかった。
「まぁ、そうだな」
王子はそう言って、それ以上は踏み込まなかった。その代わりに、スイのことを少しだけ説明してくれた。
「スイは、黒ずんだ肉球を持っている。数えるほどしかいない稀な種と呼ばれていてな。その肉球によって、様々な力を発動させることができるんだ。まるで魔法のようだが、なぜ肉球からそんな力が生まれるのか、本当のところは誰にも分かっていない」
スイ自身も、物心つく頃には自然とその力を使えるようになっていたのだという。ただし、いつ、何がきっかけで使えなくなるかも分からない――そういう不確かなものらしかった。スイは、その説明の間もただ黙って、自分の掌を静かに見つめていた。
最後に、リンの番になった。だが、リンには特に語ることがなかった。物心ついた頃には、もう父はいなかった。それでも、サチと二人で、ずっと元気に暮らしてきた。青い肉球のことをからかわれることは時々あったけれど、そのたびにサチが言ってくれた。
「気にすることないわ。だってこんなに綺麗な青、他の誰の掌にもないもの」
その言葉があったから、リンはいつも平気でいられた。リンは、サチのことが大好きだった。
「サチさんは、素晴らしい人だな」
王子がしみじみと言うと、ガイも大きく頷いた。
「飯も美味かったしなあ」
その言葉に、リンとサチは思わず顔を見合わせて笑った。
そうして夜も更け、一行はついに町を出ることになった。
戸口に立ったサチは、リンの肩に手を置き、まっすぐに目を見て言った。
「リン。王子さまを、しっかりお守りするんだよ。あなたなら、それができる」
その言葉の意味が、リンにはよく分からなかった。守るなんて、剣も振れない自分に何ができるというのだろう。けれど、母の目はどこまでも真剣だった。
「わかったよ、母さん」
リンは小さく、けれどしっかりとした声でそう答えると、母の家を後にした。夜の闇の中へ、一行の足音が静かに溶けていった。
