【恋の参謀あらわる!】#7「戻ってきた過去」|恋愛小説|連載小説|ライトノベル|ラノベ

朝、真琴は白いカップにお湯を注いだ。
棚には、紺色のカップがある。
亮介のカップ。
取っ手の内側が少し欠けた、あのカップ。
真琴は一度だけ目を向け、白い方を両手で包んだ。
昨日、自分の言葉を一つ消さなかった。
その小さな熱が、まだ身体の奥に残っている。
スマホが震えた。
亮介。
心臓が、一瞬で速くなる。
「少し話せないかな」

たった一文で、十年分の時間が戻ってきた。
仕事帰りのスーパー。
雨の日のコンビニ。
式場のパンフレット。
欠けた紺色のカップ。
真琴はスマホを伏せた。
待っていた。
認めたくなかっただけで、ずっと。
投稿も、動画も、ノートも、レッスンも動かしてきたのに、亮介の一言で、身体だけが昔の場所へ戻ろうとしている。
白いカップを包む。
あたたかい。
ここにいる。
そう言い聞かせても、指先は震えていた。
スタジオへ向かう電車の中で、何度も返信を考えた。
話って何?
今さら?
会いたいってこと?
どれも打っては消した。
結局、何も送れないままスタジオに着いた。
予約状況は、午前六名、午後五名。
午後が一人増えている。
いつもなら嬉しいはずなのに、今日は数字が胸に入ってこなかった。
「大丈夫ですか?」
美月に聞かれ、真琴は反射的に笑った。
「大丈夫です」
言ってから、苦しくなる。
大丈夫。
人を安心させるために使い、自分の状態まで見えなくする言葉。
更衣室で、真琴はユウを開いた。
元婚約者から「少し話せないかな」と連絡が来ました。どう返せばいいか分かりません。
ユウは、まず何を確認したいのか整理してはどうかと答え、返信例を示した。
「連絡ありがとう。何について話したいのか先に教えてもらえると助かります」
正しい。
落ち着いている。
でも、真琴の指はその文章を選べなかった。
少し驚いた、では足りない。
心臓が昔のリズムを思い出している。
自分でも嫌になるほど、期待している。
午前のレッスン中も、亮介の言葉が何度も頭をよぎった。
そのたびに、足裏へ意識を戻す。
ここにいる。
過去ではなく、今。
レッスン後、紗季が残った。
「先生、今日少し疲れてますか?」
「分かりますか」
「前より、先生の呼吸を見るようになったからかもしれません」
見ているつもりだった。
でも、自分も見られている。
真琴もまた、誰かの前で呼吸をしている。
「少し、昔のことで揺れています」
思わず口にすると、紗季は深く聞かずに言った。
「昔のことって、終わったあとに戻ってきますよね。でも、戻ってきたからって、戻らなきゃいけないわけじゃないですよね」
マットを抱え、少し笑う。
「先生の言葉、そのまま返します。責める前に、一度だけ息を吐いてください」
自分が渡した言葉が、別の形で戻ってくる。
真琴は何も言えず、ただ頷いた。

昼休み、真琴は自分から蓮を呼び出した。
喫茶店に着くと、蓮は真琴の顔を見るなり言った。
「亮介か」
「どうして分かるんですか」
「今日は大きめに書いてある」
真琴は向かいに座った。
「少し話せないかって、連絡が来ました」
「で、何て返した」
「まだ何も」
「会いたいのか」
すぐには答えられなかった。
会いたい。
会いたくない。
責めたい。
謝ってほしい。
戻ってきてほしい。
戻ってきてほしくない。
選び直してほしい。
もう選ばれたくない。
「……分かりません」
蓮は水を一口飲んだ。
「亮介は戻ってこない」
真琴は顔を上げた。
「どうして分かるんですか」
「経験だ」
「蓮さんは亮介を知りません」
「知らない。だが、あいつはもう過去だ」
思ったより強い声が出た。
「悪い人だったことにしたくないんです」
蓮は黙った。
「悪い人だったと決めたら、十年の自分まで間違いだったみたいになるから」
しばらくして、蓮が言った。
「悪い人かどうかと、戻るかどうかは別だ。優しかった時間があったことと、今戻っていいかも別だ」
痛かった。
でも、静かな言葉だった。
「じゃあ、会わない方がいいんですか」
「俺に決めさせるな」
「でも、分からないんです」
「分からないまま会えばいい」
真琴は目を上げた。
「会うなと言っても会う顔をしてる。だったら、答えをもらいに行くな。確認しに行け」
「何を」
蓮は真琴を見る。
「戻りたいのは、あいつか。あいつに選ばれていた頃の自分か」
胸の奥が静かに凍った。

「もし、本当に戻りたいと言われたら」
「言うかもな。人間は、手放したものが動き始めると、急に惜しくなる」
「私が変わってきたからですか」
「それもある。だから浮かれるな」
蓮は容赦なく言った。
「戻ってきた過去は、運命に見えやすい。過去が戻った時ほど、今の自分を見ろ」
真琴は、ゆっくり息を吐いた。
「今日、少し優しいですね」
蓮は嫌そうな顔をした。
「気のせいだ」
真琴は少しだけ笑った。
喫茶店を出る前に、亮介へ返信した。
「連絡ありがとう。今日の夜なら話せます。ただ、何について話したいのかは、会った時にちゃんと聞かせてください」
ユウの例より少しだけ、不格好で、自分の言葉だった。
夜。
亮介とよく通った駅前のカフェ。
いつもの奥の席は空いていたが、真琴は入口に近い席を選んだ。
逃げるためではない。
自分で選ぶためだった。
亮介を待たず、白いマグカップのハーブティーを頼む。
昔なら、二人で同じものを選ぶことを、愛されている証拠のように思っていた。
今日は、自分で選んだ。
入口のベルが鳴る。
亮介が入ってきた。
少し伸びた髪。
仕事帰りの鞄。
十年見てきた歩き方。
身体が勝手に懐かしさを覚えた。
「久しぶり」
「久しぶり」
亮介は席を見て言った。
「いつもの席、空いてたけど」
「今日は、ここがよかった」
亮介は少し目を伏せた。
「そっか」
しばらくして、亮介が口を開いた。
「最近、投稿見たよ。真琴、いい顔してる」
胸が揺れた。
長く一緒にいた人に、今の自分を見てほしかった。
選び直してほしかった。
その欲しさがまだ残っていることが、悔しかった。
「そんなこと、今言うんだ」
「ごめん」
何に対する「ごめん」なのかは分からない。
「話って、何?」
亮介はカップの水滴を指でなぞった。
昔から、言いにくいことがある時の癖だった。
「ちゃんと話せてなかったと思って。俺、真琴に甘えてた」
真琴は黙って聞いた。
「真琴はいつも大丈夫そうで、俺が多少雑でも、最後は分かってくれると思ってた」
大丈夫そう。
その言葉が刺さる。
「離れてみて、真琴がいない生活が思ったより静かで」
真琴は白いカップを包み直した。
この人の足りない言葉を、ずっと自分が補ってきた。
本当は寂しい。
本当は困っている。
本当は私を必要としている。
そうやって、相手の気持ちを読み、自分を後回しにした。
「最近の真琴を見て、やっぱり俺には真琴しかいないのかもしれないって思った」
心臓が大きく鳴る。
「もう一度、やり直せないかな」
十年が、その一言で震えた。

式場のパンフレット。
紺色のカップ。
風邪の日の雑炊。
仕事を喜んでくれた顔。
戻れば、十年は無駄ではなかったと思えるのかもしれない。
まだ選ばれる女だったと思えるのかもしれない。
真琴は白いカップを両手で包んだ。
今日、自分で選んだカップ。
蓮の言葉が戻る。
戻りたいのは、あいつか。
あいつに選ばれていた頃の自分か。
亮介は、確かに十年を共にした人だった。
優しかった時間も、傷ついた時間もある。
嫌いになりきれない。
だからこそ、簡単には答えられなかった。
「今、答えなきゃだめ?」
亮介は少し驚いた。
以前の真琴なら、相手を待たせないために、すぐ何かを答えていた。
でも、今日は言わなかった。
「いや。急がなくていい。ちゃんと考えてほしい」
「考える」
短い言葉だった。
でも、自分の中では大きかった。
答えを預けない。
亮介にも。
蓮にも。
ユウにも。
自分の十年にも。
カフェを出る時、亮介は駅まで送ると言った。
真琴は首を振った。
「今日は、一人で帰る」
亮介の寂しそうな顔に、胸は痛んだ。
でも、痛むことと、戻ることは別だ。
店を出ると、夜の空気が冷たかった。
スマホが鞄の中で震えたが、すぐには見なかった。
白いカップは店に置いてきた。
それでも、自分で選んだ温度は手のひらに残っていた。
私は、亮介を見ているのだろうか。
それとも、亮介の隣にいた頃の自分を見ているのだろうか。
答えは、まだ出ない。
でも、その問いから逃げずに持ち帰ることはできる。
⸻
今日の運を動かす一手
戻りたいと思った時、「何に戻りたいのか」を書いてみる。








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