強いから、弱い時。輪の中に入れないことの痛み。
何らかの理由で、今いる場所で活躍できないとき、辛いですね。
例えば、仕事などで周りと比べて自分が大きく遅れを取っているような環境では、本人は苦しい。能力はすぐには上がらない。できるようになるまで、長く苦しむ。
けれど、自分の方が「周りよりずっと、できることが多い」というのも、辛いときがある。その痛みは見過ごされがちなんですよね。
日常でも、ありませんか?
お世話が必要な人がいる時、
「お姉ちゃんなんだから」
「先輩なんだから」
「親なんだから」
出来る能力があるんだから、我慢して相手を助けなさい、って。
そして、相手から助けられることはほとんどない。
自分ばかりが辛く苦しい気がする。なんで私が?
別に能力が優れた人だけがそうなるわけではなく、例えば赤ちゃんに対しては誰でも「強い側」に行くんですよね。能力は相対的だから、誰でもそういう状態になる可能性があります。
どちらも痛いから、「助け続ける人」「助けられ続ける人」どちらか一方の痛みを無視して良いことにはならないですね。
私は、どちらの気持ちも経験したことがあります。
私自身は、今の仕事は割と得意な方ですが
よく言われるように、仕事の報酬は仕事だった。
色んな人から頼られて、自分が助けるばかりになる。
一方で、給与という形の見返りも含めて、助けてもらえることが少なくなっていく。
でも、うつ病などで臥せっていると、まさに自分は、誰の助けにもなれなくなる。
寝てるだけで、誰の役にも立てない。
社会のお荷物のように感じる。一生そのままなんだろうな。
これらが辛い理由は、なんなんでしょうか。
助ける側が辛いのは理解しやすいけれど、助けられる側はもらうばかりなので、単純に考えれば喜んでもよさそうなのに、なんで辛いんでしょうか。
私は、「人間には、誰かの役に立っているという感覚」が大切なんだろうという風に整理していましたけど、色々考えると、実はどちらも、助けられ、助ける「供与」の輪から外れてしまっているから辛いんだ、という整理が出来そうだと思いました。
私たちは社会という、大きな一枚の絵をみんなで描いている。
絵を描くのが得意な人が、色を決めたり、形を決める。
構図は他の人が考えるかもしれない。
どんな絵が良いか、皆から意見を募ってまとめる人もいるかもしれない。
自分がある部分で貢献して、ある部分で誰かに助けてもらうから、「自分は、ある時は誰かに与える側である。そして、ある時は誰かに与えられる側である。そうやって、この世界の供与の輪の中にいるんだ」という感覚が得られる。
でも、ほとんどなんでもできる人と、できることがとても限られる人は、輪の中にうまく入れない。
例えば最初に書いた親子の関係で言うと、赤ちゃんは何もできないので、親は助けるしかありません。
赤ちゃんの方は、笑顔やかわいらしさ、存在そのものが気持ちの上で親の助けになっているかもしれないけれど、親を物理的に助けることはできない。
じゃあ、育児は不幸を作り出しているのか?
というと、そうじゃない。
赤ちゃんがいることで、他の「輪」が回ることはあるんです。
例えば親は赤ちゃんを「助ける」だけですけど、その分、誰か他の保護者、祖父母などが手伝ってくれるなら、自分も助けてもらえるでしょう。
そうすると、「私は赤ちゃんを助けている。そして私も、お父さんやお母さんに助けてもらってる」という輪が回る。ホッとするんですね。
それが無くて赤ちゃんと二人っきりの状態では、「助ける」ばかりで、輪が閉じない。上にしかいけないエスカレーターです。
もちろん、赤ちゃんのお世話が簡単なことなら良いけれど、しばしばそうではないから、きっと物理的な苦労もさることながら、心も苦しいんです。
相手を愛していても「どうして私ばっかり」「みんなには助けてくれる人がいるのに」「もう逃げたい」そんな気持ちになる。
もっと漠然とした大きな枠組みでも、そういう状況に気づいて、「輪」がうまく回っていない(あるいは輪から外れても辛さを感じない人がいる)と人が感じた時、色々な痛みが表面化します。
社会保障費の増大のことだって、そうですよね。
助ける側は、基本的な前提としては、現役世代で働いている「助ける能力があると思われる人」です。強い側。
それは、本当は、そうだった。十分に豊かなら、少しずつ誰かに分け与えても問題ないんですね。例えば、「100円の寄付で10人の人を助けられる」んだったら、多くの方は「ああ、まぁそのぐらいならいいよ」となるんですよ。
「私は今、困っている誰かのために税金などを払うけど、自分や、自分の家族だっていつかお世話になるんだから、平等だよね」と、供与の輪の中の出来事だと捉えられた。
でもそれが出来なくなってきた。
以前、「物理的なものは難しくても、心だけは巡らせることができるんじゃないか」と思って記事を書いたんです。でも、そこで見えたのは、「助ける側が、感謝の気持ちだけではペイできないほど、しばしば自分の身を削っている」という現状でした。
一方で、できることがとても限られる人にとって、輪の中に入るのは、困難です。
最近、「みいちゃんと山田さん」という漫画のアニメ化是非が話題になっていますね。
心が痛くなるような詳細は書きませんが、あんまり、救いのないストーリーの漫画だと思います。
この漫画の主人公になっている「みいちゃん」は、発達障害や知的障害を抱えている若い女性です。彼女は、色々な事情から、福祉の助けを十分に受けられず育ちました。
そして自分がすることの中で唯一誰かに喜んでもらえるのが性産業だったから、「輪」の中に入るために、その道を選んだ……というか、それ以外のことでは輪の中に入れなかった。
そのぐらい、「輪」の中に入れない、というのは人間にとって辛くて不安だし、「自分も輪の中に入りたい」というのは人間の切実な欲求なんですね。
調べてみたら、社会的交換理論という理論が、「供与の輪」の理論に近い気がしました。基本的には、多かれ少なかれどんな人にも備わっている感覚なんでしょう。
どうしたら自分も「供与の輪」に入れるかな
「供与の輪」が人間の幸福にとって大切なら、どうしたら私たちは苦しくなくなるんでしょうか。特に、意識していてもしなくても、輪から外れてしまって、しんどい人たちは。
一つには、何でもいいから形だけでも輪の中に入る、ということがありそうです。
できることが多くて助けてばかりの人は、「あえて自分が助けてもらう側の場に行く」じゃないでしょうか。
noteで自分がギブしてばっかりになっちゃったら、XやBlueSkyでゼロからはじめてみてもいいし。
仕事で頼られてばっかりなら、趣味では人に教わって、自分ができないことをやってみる。
スポーツが嫌いじゃないなら、やったことのないチームスポーツはいいですよね。初心者歓迎のチームがあるバスケとか、バレーボール。誰か助けてくれる人や教えてくれる人を探さないといけませんし。
考えてみると無意味に思えた球拾いも、輪の理論で考えると、なんとかして相手を輪の中に入れる行為だったんですね。
さらには先輩や師匠はあえて厳しくしたり、関係ない雑用を頼んで「助け」「助けられ」の収支を均等にしていた。
それは、厳しさではなく、優しさだったのかもしれません。
それなのに、私は今の今まで、ひたすら理不尽で横暴だと思っていました。「輪」を体感で理解できる人もいるようなのですが、私にはできなくて、今気づきました。
あるいは、習い事。なんでも良いのですが、なるべく払った金額以上に教えてもらえたり、サポートしてもらえる習い事が良いですね。
逆に、今、「助けられてばっかり」が辛いという人は、「誰かを助けられるように、強くなろう! 早く仕事を覚えよう!」という結論に至りがちですけれど、それって長い時間がかかるんですよね。
でも、「今」辛いのを何とかしたいですね。
もし可能なら、自分が先生役を出来る場所に行ってみると良いと思いますよ。「輪」は相手に直接返さなくても、巡らせることができます。
タイピングが出来る人は、出来ない人に教えてあげられます。
バレーボールが出来る人は、トスすらできない人(私とか)に教えてあげられます…。ドッジボールが一度も避けられない人(私とか)には…(略)
なんでも良いのですが、自分では大したことないと思っているスキルでも、できない人はどこかにいるんですよね。
「できない人を探す」というとなんだか悪いことのようですが、相手も助かるし、教えてあげる場に立つといつもとは違う「輪」の位置に行ける。自分の能力を上げるよりもずっと簡単で、救われる。
それもどうしても無理だったら、まだフォロワーさんが少ないnoterさんをフォローしてあげたり、誰かにスキを押してあげるだけでも、それはきっと、あなたからの「助け」になりますよ。私にとっても、そう。
こういうの、本当に大切です。
実際、仕事で循環のバランスが崩れたまま戻らなくなったとき、私は壊れてしまいました。同じ人は多いんじゃないかと思います。
私の場合は周りに助けが必要な人がたくさんいたわけではないけれど、「だって、全部自分で出来るから、誰も頼る必要がないんだもの」とずっと思っていたんです。
でも、私の苦しみの本質は要・不要ではなく、自分が輪から外れていたことだったんだと思います。
これまで、潰れてしまった自分やその影響のことだけを考えていた私は、初めて、私自身が輪のストッパーになってしまっていたこと、そういう普段のふるまいを、申し訳なかったな、と思いました。
きっと、苦しいのは私だけでは無かったから。
ともあれ、社会でうまくやれない、ということの本質は、何らかの理由で供与の輪にうまく乗れない、ということなんですね。
「じゃあ、輪を意識すれば、楽になれる…」
ある程度、そのはずです。
輪を無視したり、軽視しがちな私自身、noteでは「持ちつ持たれつ」なことも多く、輪の中にいられる感覚があって、心が安定します。うまく輪に入れる人は、こういう気持ちで日々を過ごしているんですね。
もちろん、限界はあります。
税金が高すぎて明日食べるものにも困る、とか、24時間の介護で心身ともにへとへとになっている、という場合、それはもう、負担を他の誰かに分散する時期に来ているんでしょうね……。
うまく回らないこともあるけれど、本来、福祉の役割はそうだと思うから。
あなたは、「助ける」「助けられる」のバランス、取れてますか?
「助けてばっかり」「助けられてばっかり」で苦しい時、少しだけ自分の環境を見直してみることで、生きやすくなるかもしれません。
どんな人も「輪」の中に居場所がある、生きやすい社会になればいいですよね。
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