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境界知能の私なりの答え 「想いの器」🌸


この「器」の物語は、

「想いの器」と
「オーロラの器」が
姉妹のようにつながった二つの記事です。


「想いの器」では、私が考える“器”について、文章と図解を交えながらお伝えしています。



そして次の「オーロラの器」では、その器を、私の想像の世界の物語として描いています。



二つの記事を続けて読むことで、
私が伝えたかった“器”の意味を、より深く感じていただけるのではないかと思います。



よろしければ、このあと
「オーロラの器」も読んでいただけたら嬉しいです。


………………🪽


私は幼い頃から、


何をやっても、  
みんなと同じようには  
うまくできませんでした。



同じところから  
一緒に始めたはずなのに、



周りの子たちは、  
いつの間にか  
先へ進んでいきました。



私は一人で立ち止まり、



辺りを見回しました。


あれ、


みんな、できている。



どうして私は、  
できていないんだろう。



同じ年齢で、



同じ人間なのに、



私とみんなは、  
何が違うんだろう。



それが、  
本当に不思議でした。



悲しいとも、

悔しいとも、



その頃の私には  
よく分かりませんでした。


ただ、



そこにいることさえ  
恥ずかしくなって、



みんなの中から  
すっと消えてしまえたらいいのにと  
思うほど、



つらくてたまりませんでした。



そんな気持ちになるたび、
なぜか、



一つの映像が  
ぼんやりと浮かびました。



両手ですくい上げた砂が、
指と指の隙間から、



さらさらと



こぼれ落ちていく映像でした。



どれだけ両手で


しっかりと砂を抱えても、
なぜか指の隙間から、



さらさらと
こぼれ落ちていきました。



その砂を見つめるたびに



悲しくて
切なくて、



どうしようもないやるせなさを
感じていました。



その映像は
長い年月


私の心の中に残り続けました。


そしてnoteを始め、


何作か記事を書いているうちに、
ふと、思いました。


「この風景を、
詩にしてみよう。」


詩にしたら、


どんな姿になるのだろう。


そんな思いから生まれたのが、
「手のひらの砂」
という詩です。



「手のひらの砂」という詩を、


何日かかけて
書き進めていたときのことです。



それまで私は、


こぼれ落ちていく砂を
ただ悲しいものとして


見つめ続けていました。


でも、


詩を書いているうちに


このまま悲しいだけで
終わらせていいんだろうか
と言う思いが私の心の中に
生まれました。



そして、
ふと、


一つの思いが浮かびました。



こぼれ落ちてしまうのなら、


その下に、
受け止めるものがあればいいんじゃないかと



私が、
その答えを考えたのでは
ありません。



詩を書くという行為が、
私自身にも見つけられなかった
その答えへと導いてくれたのです。



そして私は、
その受け止めるものを、


「器」


と呼ぶことにしました。


私が求めていたのは、
もっと頑張ることで
ありませんでした。



ありのままの私を
そのまま受け止めてもらうこと。



安心して、
「ここにいてもいい」


そう思える場所でした。


私が本当に欲しかったのは、
支援より先に、


理解でした。



理解とは、



何でもできるように
してもらうことではありません




私が困っていることに、


自分のことのように
心を寄せてもらえること



私にとって、
それが理解でした。



私は長い間、
自分がなぜこんなに
困っているのか、 


その理由さえ
分かりませんでした。


けれど、

診断を受けたことで、



長い間まとわりついていた



霧の正体が
少しずつ見えてきました。


そして私は
もう一つのことにも


気づきました。



必要な器は、
一人ひとり違うということです。



置かれている状況も
暮らしている環境も
その人の性格や特性も



得意なことも
苦手なことも
みんな違います。



だからこそ
その人に合った器が


必要なのだと思います。


必要な器は
やはり一人ひとり


違うのです。


けれど、
一人ひとりに合った器を


その人だけで探し続けるのは
とても苦しいことです。


社会の中には、


制度や支援があっても
そこから
こぼれ落ちてしまう人がいます。


そんな人たちの下に
社会全体で受け止める

大きな器があればいい


私は
そう思うようになりました。


誰か一人の理解が
また誰かを受け止める器になる




そんなふうに、心の器は



少しずつ大きく
広がっていく
のかもしれません。


どんな器が必要なのかは、
きっと、


その人にしか
分からないのだと思います。


助けてほしいことも
支えてほしいことも
安心できることも、


一人ひとり違います。


だから、


これが正しい器だと
決めることではありません


これは
決まりごとでも、


誰かに押しつけたい
考えでもありません


ただ、
こぼれ落ちそうになった人を


その人に合った何かで
受け止める


そんな考え方があっても
いいのではないか。


これは、
私の想像の中から生まれた



一つの世界です。


でも、
もしこんな器があったのなら、



手のひらからこぼれ落ちた
砂たちにも、



まだ続きがあるのかもしれない。


私は、
そんなことを思っています。

私が「器」について書き続けているのは、



ただ、人それぞれに違う支援が
必要だと伝えたいからでは
ありません。



手のひらからさらさらとこぼれ落ちる砂のように、
社会の中で居場所を見つけられず、



「私はどこへ行けばいいのだろう」



「これから、どう生きていけばいいのだろう」



そう思いながら、苦しんでいる人を、そのままにしたくないのです。


こぼれ落ちた人を受け止める器を、どうしても用意したい。


自分にも、ほかの人たちにも、
その人に合った器が用意される社会になってほしい。

私は、そう強く願っています。



その器がどんな形をしているのか、
今の私にはまだ、はっきりとは分かりません。


けれど、受け止めてくれる器さえあれば、
私たちはもっと自分を肯定し、



「この自分で生きていていい」
と思えるのではないでしょうか。


そして、
まだ見ぬ
自分の才能や可能性を諦めずに、

外へ出してみたり、

試してみたり、



挑戦したりしながら、


自分の人生を生きていけるのではないか。



私にとって器とは、
ただ守られる場所ではありません。



安心して着地し、
もう一度、
自分らしく生き始めるための
場所なのです。


ここまで読んでいただき、
ありがとうございます。

この物語は、姉妹作「オーロラの器」へと続きます。


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