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「弱さ」から始める場づくり─内向的な僕が、208組の出店者とまちの"界隈"を作れた理由|東池袋・ひがいけポンド 5年間の記録

はじめに(初見の方へ)

はじめまして。森正祐紀と申します。広告キャスティング会社・株式会社キアズマの代表です。

ひがいけポンド」は、弊社(僕と妻の彩良)がUR都市機構から受託を受けて2021年11月から2026年3月まで運営してきた、東京・東池袋四丁目の小さな地域交流拠点です。プロジェクトそのものはコロナ禍直前の2020年2月に動き始めていたため、通算5年間に渡るプロジェクトでした。近隣住民をはじめとするさまざまな人たちが入れ替わりで出店するポップアップスペースで、コンセプトは「まちのインディーズ・レーベル」。出店者の調整や施設整備などの運営業務のほか、UR都市機構主催のイベントも数多く実施していました。

これは、その5年間の実践知をまとめた記録です。


この記事について

とても長くなってしまいました。およそ30,000字。通読すると30分くらいかかります。ですので、読み始める前に、主な想定読者や、何を持って帰ってもらえるか、構成はどうなっているかだけ、先に書いておきます。

イメージした読者は、まちで小さな場所を運営している人、これから始めようとしている人、地域メディアやコミュニティの運営に関わっている人、自分のまちで何かやりたいけれど自分の性格には合わないかもしれないと感じている人。とくに、「コミュニティを作りたいが、自分は声を張るタイプじゃない」と感じている内向型の人には、いちばん届いてほしいです。もちろん、これまでひがいけポンドに関わってくれた方々にも。

持って帰ってもらえるのは、自分たちの3つの「弱さ」を起点に5年やってみてわかった、いくつかの考え方と具体的な工夫です。僕自身がまちづくりが本業ではない/大資本ではない/人疲れしやすい。この3つの弱さは、改変する対象ではなく、活かすべき価値として僕たちの場づくりの根っこになりました。具体的な運営の方法論として、「制作」「迂回」というキーワードで、夫婦2人の気質に基づく界隈づくりのやり方も整理しています。明日からそのまま使えるノウハウ集ではありませんが、自分の場のことを考え直すための、いくつかの補助線にはなると思います。

構成は4つに分かれています。

ちなみに、ひがいけポンドという場所そのものは、新しい運営事業者のもとで、同じ看板のまま続いていきます。2026年3月で幕を閉じたのは、僕たち夫婦が運営者を務めた第一章です。そこは誤解なきように。

では、始めていきましょう。


2026年3月28日。ひがいけポンド、最終イベントの日。

最後のイベントは二部構成でした。日中は屋外でのオープンなガレージセール、夜は招待制の感謝祭。夜に集まったのは、この5年で関わってくれた60名弱。会の最後に撮影した集合写真がこの記事のカバー画像です。彩良は中央にいて、僕は端で椅子に乗って手を振っています。ちゃっかり中央に立てる人と、端から手を振る人。僕たちの夫婦の役割分担が、最後の最後まで写真に残っていたような気もします。

夜の部ではその場に居合わせた皆さんとリレートークをしました。さまざまな立場の方から見たひがいけポンドを順番に聞いていったのですが、最後の最後で思いがけず自分にトークが振り返され、ドギマギしながらスピーチをしました。突然だったので取り止めもないことを喋ってしまい、何を話したのか記憶がおぼろげです。ただ、最後に「ひがいけポンドは、人生そのものだった」と言ったのだけは、自分でもよく覚えています。

こういう集合写真に収まりながら、不思議な気がしていました。本当のところ、僕たちはここにいるべきような人たちだったのか、と。

ここからは、自分たちの「弱さ」の話を、3つに分けて書いてみます。

ひとつめは、まちづくり業界の人間ではない、という弱さ。

僕は、都市計画も建築も学んでいません。コミュニティマネージャーの研修を受けてもいないし、まちづくり関連のNPOで働いた経験もありません。本業は広告のキャスティングです。広告を企画制作する会社と、芸能事務所との間にたち、企画にあったタレントやモデルなどをアサインするコーディネート業を長年やっています。業界的には完全に部外者で、専門用語にも疎く、業界の人脈もありません。

僕とは反対に、妻の彩良は学生時代から建築とコミュニティを学んできて、以前在籍していた建築設計事務所では、地域交流拠点の企画運営に携わったこともあります。前職での体系的な学びを前提にしながらも、現場のなかで手探りで身につけてきたものも多かったようです。

だから夫婦としては、業界に半分だけ片足を突っ込んだような、不思議な立ち位置でした。完全な部外者でもなければ、完全な業界人でもない、という。

ふたつめは、大資本ではない、という弱さ。

僕たちは小さな会社で、デベロッパーでも商業施設運営者でもありません。後ろ盾になる大きなブランドはありません。広告予算もありません。集客のために大きな仕掛けを打つ余力もありません。できるのは自分たちの手で出来事を組むことだけ。スケールで勝負できる立場ではない、というのは、最初からわかっていました。

みっつめは、個人として、対人感受性が高く人疲れしやすいという弱さ。

これがいちばん書きにくい話ですが、本当のところ、僕は人と関わるのが得意な人間ではありません。どちらかと言えば、ずっと人の輪の外側にいました。大学時代には対人関係が原因で一度留年しています。社会人で入った最初の会社は、メンタル不調ですぐに辞めてしまいました。僕はこれでもかというくらい大袈裟に笑いますし、人前で話すのも嫌いではありません。傍からは明るく見えていると思います。でも、明るく見えていることと、人の輪の内側に入りきれることは、別のことでした。愛想は良いけれど、社会性は薄い。内向的で、人疲れしやすい。そういう人間なわけです。

妻の彩良は、僕とはタイプが違います。ただ、対人感受性が高く、人からどう思われるのかを絶えず自己点検している点においては、似ているところがあるように思います。

この3つの「弱さ」を抱えた僕らが、なぜエリアのハブになるような地域拠点を5年もやれたのか。

5年やってみて、ひとつだけ確信できたことがあります。

この3つの弱さは、改変する対象ではなく、活かすべき価値になり得るということです。

業界の人間でないからこそ、業界の常識に縛られずに、広告と編集の語彙でまちに介入できました。大資本でないからこそ、量で押す代わりに工夫で逆転するという設計が必然になりました。対人感受性が高いからこそ、コミュニティの温度を細かく測れたし、距離感の設計に対して良い意味で臆病でいられました。

それから、人と直接関わるのが苦手な人間は、その代わりに迂回路を作ります。ものを作る。舞台を用意する。誰かと誰かをつなぐ介添え役にまわる。「何かを介して関わる」という迂回的な姿勢が、結果としてポンドの5年を支えていました。

こうした姿勢がいったいどんな結果を生んだか。

オープンからの約4年半でひがいけポンドに出店してくれた人は累計208組。累計出店回数1,052回。Instagramのフォロワーは3,878人。ここから3組が外で実店舗を開きました。外部出店比率は22%から82%へ反転。自主事業の収益は2022年比2.9倍。

数字としては、まあ、こんな感じです。脆弱なままで、ここまでは結果を出すことができました。

この後の文章は、二部構成にします。第一部で、ひがいけポンドという場所を、年表と数字で紐解きます。第二部で、その裏側にあった僕の気質と、そこに彩良の職能と感受性が組み合わさって生まれた具体的な工夫を、トピックごとに書いていきます。


第1部|ひがいけポンドという場所

東池袋という街の文脈

ひがいけポンドがある東池袋四丁目は、池袋駅から歩いて15分くらいのごく普通の住宅地です。戦後からの木造の長屋がずいぶん残っていて、火事や地震のときに危ないという理由で、URと豊島区が長いこと不燃化の事業を進めてきました。

そこからほんの少し駅のほうへ歩くと、景色が一気に変わります。サンシャインシティ周辺には、近年、50階を超えるタワーマンションが何棟も建ち並びました。豊島区はかつて消滅可能性都市と名指された経緯もあって、人口を増やすために大規模な再開発を続けています。地権者の権利を集約して、容積率を緩和して、高層住宅を建て、新しい住民を呼び込む。それ自体は否定しませんし、防災の観点からも重要なことです。都市計画として真っ当なことだとも思います。

ただ、こうした大資本の街には、構造的な弱さも潜んでいます。

大資本でできた街は、消費者を集めて成り立つ街です。きれいな住宅、便利な商業施設、駅近、整備された公園。こういうものが、住む理由になります。でも、こういう理由で集まった人は、その理由が崩れた瞬間に出ていきます。隣に競合の街ができて利便性が逆転すれば、移っていきます。経済合理だけで集まった人は、経済合理だけで去っていく。

土着化する人は、別の理由で残ります。自分の手でこの街に何かをつくった経験のある人。誰かと一緒に何かをやった記憶がある人。大袈裟に言えば、街を「作り手」として体験した人だけが、その街に愛着を持って居続けます。家賃と利便性で測れる住みやすさと、自分の手の痕跡が残っているかどうかで測れる住みやすさは、別物です。

だから、大資本でできていく街にこそ、その大きさとは対照的な、ごく小さな、インディーズな(独立した小さな)活動の場が必要なのだと思っています。僕らの文脈から見ると、ひがいけポンドはそういう場所のひとつだった、ということになります。

そして、業界外の僕たちにできたのは、自分たちの本業(広告・編集・デザイン)の語彙で、この場所を組み立てることでした。スケールで対抗するのではなく、固有名を持った個人として立つ。小さく、密に。これが「大資本ではない」という弱さの、僕たちなりの応え方でした。

5年の年表とフェーズ

ひがいけポンドの5年間は、ふり返ってみると、おおよそ4つのフェーズ(段階)に分けることができます。

最初の2021年11月から2022年前半までが、立ち上げ・試行錯誤期。ポップアップ(一日限りの仮設出店)という仕組みが地域にまだ浸透していませんでした。だから、僕たち夫婦が自分でドリンクスタンドを出したり、ワークショップを開いたりして、「こうやって使う場所だよ」というのを身体で示すところから始めました。

2022年後半からの2年弱が、コミュニティ形成期。のちに「ひがいけ映画祭部」のメンバーになるような、常連の人たちが自発的に企画する取り組みが立ち上がっていきました。気がついたら、外から声を掛けなくても出店枠が埋まるようになっていて、自主企画よりも外部出店のほうが多くなる、いわゆる逆転が起きていました。同時にメンバーシップとCCC(Cleanup&Coffee Club = 地域のゴミ拾いとコーヒーの会)も始まり、ポップアップだけだったポンドが、関わり方の階層を持つようになりました。

2023年から2024年前半が、エリア連携・機能拡張期。ポンドの中だけにとどまらず、グリーン大通りでの実証実験(STREET KIOSK)に出店者をつないだり、町会と一緒に防災のスタンプラリーを組んだりするようになりました。ポンドで育った人たちが、ポンドの外で活動するようになっていきました。「拠点」だったポンドが、まちの「中継点」になっていった、と言って良いかもしれません。

最後の2024年後半から2026年3月までが、ハード改修・日常定着期。利用者の声を反映して内装をリニューアルし、外部出店比率は82%に到達。人件費を含めても収支がほぼ均衡する状態まで来ました。週末のイベントだけでなく、平日の稼働も定着しました。BOOKS AND GOODSという別の小さな店をポンドの中に同時開業したのも、このフェーズの始まりでした。

Instagramのフォロワー数だけ並べても、開設時の300人から、最終時点で3,878人まで、ゆっくりと、しかし切れ目なく増えていきました。広告費はほとんど使っていません。口コミだけで関心層が広がっていった、と言っていいと思います。

数字で見るポンド

数字でもう少し細かく見ると、こんな感じになります。

5年間でポンドに出店してくれた人は、累計208組延べの出店回数は1,052回。出店リピート率は56.2%で、半分以上が、一度ではなく、二回以上来てくれています。

出店者の居住地は、徒歩10分以内の本当のご近所が12.1%、豊島区内(徒歩圏外)が18.7%、隣接区が23.2%。だいたい半分くらいが、徒歩圏か区内、もしくはその隣の区から来てくれています。年齢では20代から40代までが約4分の3を占めます。男女比は6対4で、女性のほうが少し多い結果に。

出店者へのアンケートで、何より自分がうれしかったのは、「今後も出店する意向がある」と答えた人が100%だったことです。たまたま一度立ってみました、で終わらない。「まちづくりへの関心が高まった」と答えた人が74%、「近隣住民の来店を実感した」と答えた人が82%。来場者へのアンケートでも、「この街に住み続けたい」と答えた人が88%いました。

これは、ポンドだけの成果ではなく、東池袋という街全体の力もあってのことだとは思います。けれど、関わってくれた人たちの満足度がここまで高かったことは、運営者として救われる数字です。

ここまでが、外から見たひがいけポンドの輪郭。次の節からは、その輪郭の中で、何が起きていたのかを書きます。

プレイヤーが当事者に変わる構造

ポンドの中で何が起きていたかを、もう一段、構造で眺めてみます。

ポンドに来てくれた人たちは、おおよそ4つの段階を通って、関わり方を深めていきました。最初は「知る・通う」段階。SNSで見かけたとか、通りがかりに気になって入った、という消費者としての関わり。次に「関わる・話す」段階。店主と何度か言葉を交わすうちに、常連と呼べるくらいのファンになります。さらに進むと「試す」段階で、自分でもポップアップ出店をしてみます。そして最後に「自立する」段階で、定期出店者になったり、自分の実店舗を開業したり、別のまちに同じような場所をつくったりします。

ただ、この4段階は階段ではありません。全員がてっぺんまで上がる必要は、最初からありませんでした。

ある人はずっと「ファン」のまま、毎月遊びに来てくれているだけで、ポンドにとってはありがたい支え手でした。ある人は「実践者」までで止まり、自分の生業の幅を広げていくのに使ってくれました。それぞれの立場で関わって、互いに支え合うことが、結果的にこのエコシステム(生態系)の強さになっていました。

ポップアップ事業とイベント事業も、互いの入口になっていました。マルシェや縁日に来た人が、後日ポップアップに出店者として戻ってきます。ポップアップ出店をしている人が、次のイベントの担い手になります。ふたつの事業の循環が、この4段階を回していました。出店者と来場者、企画者と参加者、運営者とお客さん。こうした境界が、ポンドの中ではゆるく溶けていました。

ここまでが、いわば「外側から見た構造」の話。ここからは、その構造の裏側にあった、もう少し小さな話に降りていきたいと思います。


第2部|辺境にいる人間だからできたこと

「制作」と「迂回」という二つの根っこ

ここから、ひがいけポンドの裏側にあった、いくつかの考え方の話をしたいと思います。

最初に、その全部を貫いていた根っこを、2つだけ出しておきます。制作と、迂回

まず制作のほうから。

僕たちが大事にしたのは、"関係のための関係"ではありませんでした。どういうことか。

ここ数年、SNSが現実空間に染み出してきている感覚があります。SNSというメディアそのものが、構造的に承認の交換場所として作られていることは、もう多くの人が気づいていると思います。アテンション(注意)が貨幣として流通する経済圏。投稿し、反応をもらい、それを次の投稿のモチベーションにする。この回路は、すでに地域コミュニティの内側にも侵入しています。

つまり、リアルの集まりがリアルSNS化している、といった感じでしょうか。あちこちのイベントに顔を出して、そこで写真を撮られて、タグを付けられて、相互にフォローし合う。たくさんの場所に顔を出した人のところに承認が集まり、たくさんの友達を作った人のところに承認が集まる。そして、お互いに承認を出し合う。SNSの構文がリアルを侵食して、地域コミュニティが承認の交換会として運用されはじめている。そんな感覚です。

もちろん、この回路に乗れるのは一部の人だけです。あちこちに顔を出すには、体力がいるし、時間がいるし、社交のエネルギーがいる。気にしいで人疲れしやすい人間が同じ回路に乗ろうとすると、すぐに限界が来ます。来ない人は、自然にこの承認競争から脱落します。

ひがいけポンドでは、できるだけ、この回路から距離を取りたいと思っていました。

代わりに何を置いたかと言えば、「ものを作る」「自分自身のインディーズ活動をする」という回路でした。ここで言う「もの」は、必ずしも物理的な物だけではなく、たとえば読書会を企画するといった、広い意味の場作りなども含まれています。形はさまざまあれど、誰かが自分の心の中で欲している何かを、自分の手で形にして外に出す。そういう行為を、コミュニティのまんなかに置きました。

映画好きの出店者がチョコレート屋さんと企画したチョコレートシネマカフェ

ひがいけポンドのことを「レンタルスペース」と呼ばずに、あえて「ポップアップスペース」と呼んでいたのも、この迂回的な発想が理由でした。

「レンタル」と言ってしまった時点で、そこにあるのは、貸す人と借りる人の取引です。場所と時間を、お金で買って使う。借りる人は、その時間ぶんの「お客さん」になり、貸す人は「場所を売る人」になる。お金を払って終わり、で関係も終わります。便利ですが、それだけ、です。両者が単なる取引関係に矮小化されてしまう。

「ポップアップ」と呼ぶと、関係の手触りが少し変わります。借りに来るのではなく、自分の何かを「ちょっとやってみに来る」人。貸す側も、場所を渡して終わりではなく、その人が出してくれたものを横で見守る側にまわります。今日の小さな試みが、来週の出店につながったり、別の人との出会いに繋がったりする。一回ぽっきりで終わらない関係が、生まれやすくなります。

ポップアップ(pop up)という言葉自体にも、二つの意味があります。一つは、一日きりの仮設出店として文字通り「まちに飛び出す」こと。もう一つは、普段の自分の日常や自分が思っている自己像、つまりは「自分自身から飛び出す」こと。誰かに頼まれてではなく、自分の意思で半歩外に出てみる。試しに何か作って、人前に出してみる。こちらのダブルミーニングのほうが、僕たちにとっては大事でした。ポンドという場所は、そういう小さな越境と逸脱を応援する場所でした。

ひとつ、宇野常寛さんという批評家の著作にも触れておこうと思います。宇野さんは、かつて『ゼロ年代の想像力』でゼロ年代の批評の枠組みを作った論者で、近刊である『庭の話』という本で、SNSと承認経済から距離を取り、自分の手で何かを作り出すことを通じて他者と関わる場所——彼が「庭」と呼ぶもの——の可能性について書いています。

『庭の話』は、ひがいけポンドが最後の一年に差し掛かったころに読みました。読みながら、自分たちが東池袋で長い時間をかけて手探りで形にしてきたことを、宇野さんが哲学の言葉で語り直してくれていると思いました。

「事物を作る」という行為は、人の評価を介さない。承認の交換合戦から半歩出られるこの回路こそが、対人感受性の高い僕たちにとってはいちばん安全な居場所であり、ひがいけポンドの価値の根幹を成していました。

そして、もう一本の根っこが、迂回です。直進ではなく、まわり道のほうを選ぶということ。

僕たちは、関係づくりを直接的な目的にする行為を極力避けてきました。直接、誰かと誰かを引き合わせる。直接、出店者の活動を売り込む。直接、知らない人に声を掛けて常連になってもらう。こうした、まっすぐで効率的な関係づくりはほぼ採用しませんでした。

代わりに、いつも何かの活動や制作を間に挟みました。一緒にゴミ拾いをしましょう(CCC)。映画祭を一緒に作りましょう(ひがいけ映画祭部)。ただ黙って本を読む空間を共有しましょう(まちのるーてぃん)。直接の交流を目的にせず、何か別の活動の副産物として関係が生まれるように設計する。

まちのるーてぃん「朝ランの日」に集まったメンバー

ゴミ拾いは、ゴミを拾うために集まります。映画祭は、映画祭を作るために集まります。本を読む会は、本を読むために集まります。集まりの目的は別にあって、関係はそのおまけとして勝手に立ち上がる。直接的なネットワーキングをやめて、活動と制作を媒介にする迂回路を設計する。これが、僕たちの場の設計の、もうひとつの根っこでした。

なぜ迂回するのか。理由は2つあります。

ひとつは、まっすぐな接近が僕たちには難しからです。誰かに直接何かを売り込んだり、誰かと誰かを直接つなげようとしたりするのは、僕らにとっては消耗が大きい。

もうひとつの理由は、迂回したほうが、結果として関係が長く続くということです。直接の関係は、その瞬間の温度に依存します。間に活動や制作を挟んだ関係は、活動を共有している限り、関係が継続します。また、共通の作業がある関係は、いつでも再開できますし、思いがけない新たな活動を生むこともあります。

制作と迂回は、別々の2本ではなく、ひとつの動作の2つの名前だと言ってもいいかもしれません。

というのも、何かを作るとき、人は外に向かっているように見えて、実は自分の内側に潜っているからです。何が好きで、何が嫌で、いま自分は何に手をかけたいのか——それを確かめながら、自分の手元に形を立ち上げていく。制作は、アウトプットの前に深い自己探求を含んでいます。

そして面白いのは、その内側へのダイブが、ひとまわりして他者との関係を作るということです。お茶を淹れる人は、自分の好みと判断を全部入れたお茶を誰かに差し出します。本を編む人は、自分の関心と引っかかりを並べて棚に置きます。差し出された相手は、お茶や本を通して、その人の内側のかけらに触れる。直接話すよりも、この「内側のかけら」のほうが関係を深く作ることがあります。

つまり、「制作」というのは、自分の内側にダイブしてそこから取り出したものを間に置く、ということです。これがそのまま「迂回」になっていました。直接他者に向かうのではなく、自分の内側を一度経由してから、他者に届く。

シンギングボウルによって瞑想するかのごとく

以下、この制作と迂回が、ひがいけポンドの5年でどう実装されていたかを、5つのトピックに分けて書いていきます。

①内と外の境界をバグらせる「コンテクストチューニング」

一つは、内と外の境界の話。

何か新しいことを起こすとき、最初はある程度「内側の熱」がいります。仲のいい人たち、近しい価値観の人たち、似た年代の人たち。そういう人たちでまず手を握って、火を起こす。これがないと、そもそも場所に温度が上がっていきません。だから僕たちも、最初の二年くらいは、近い人を呼び寄せるところから始めました。

ただ、この「内側の熱」には、副作用があります。

内を作るということは、同時に外を作るということでもあるからです。気がつくと、あの場は内輪で盛り上がっているね、若い人たちが楽しんでいる場所だね、と外から見られるようになります。公共を背負ってもいる施設としては、これは本意ではありません。多くのコミュニティが直面する問題だと思います。

このあたりの内と外の境界に僕が敏感だったのは、そもそも「内側に入れない人間」として長くやってきた経験があったからだと思います。輪の外から輪の内側を客観的に眺めるタイプの人間だったからこそ、外側から自分たちの作っている輪がどう見えているかが、なんとなく察知できたわけです。

その上で意識的にやっていたのは、コンテクストチューニング(context tuning=文脈の細かな調整)と、僕たちのあいだで呼んでいた作業です。

ひがいけポンドの活動は、ふた通りのモードを使い分けていました。ひとつは、ローコンテクスト(low context=前提の説明を必要としない)の場。縁日や餅つき、防災のスタンプラリーなどがそれに該当します。資料では「現代版町内会機能の実装」「フェーズフリー防災(日常と非常時の境目をなくし、楽しみのなかに防災を埋め込む設計)」と書いていますが、要するに、誰でも入れる、説明を聞かなくても楽しめる、参加コストの低い場です。

もうひとつは、ハイコンテクスト(high context=積み重ねた文脈の共有を必要とする)の場。映画祭部、メンバーシップあたりがこれに該当します。少人数で対話の文脈を時間をかけて積み重ねる、参加コストの高い場。ここで何が起きているかは、最初に来ても、すぐにはわかりません。何ヶ月か通ってはじめて、その場で交わされている会話の含みが理解できるようになります。

このふたつを、意識して並走させていました。ローコンテクストな場でまち全体に間口を広げながら、ハイコンテクストな場で内側の温度を保つ。どちらかに振り切ると、どちらかが死にます。ローコンテクストばかりだと温度が上がりませんし、ハイコンテクストばかりだと良くない内輪化をします。境界を行ったり来たりさせる。これが僕らのいう「コンテクストチューニング」の実態です。

資料ではもうひとつ、「シビックプライド(civic pride=市民が自分のまちに持つ誇り)の醸成」というカテゴリで、ひがいけ映画祭部や周年イベントを位置づけています。これはハイコンテクストよりもさらに上位のレイヤーで、僕らと同じ運営側にメンバーを巻き込むことで、まちの中に「自分たちの居場所」という感覚を立ち上げる施策です。これも同様にコンテクスト操作の一種でした。

短期的な集客の数字を見ているとこの調整はできません。場の温度を、運営者の身体感覚で測りながら、季節ごとに振り直していく。これも内側に入りきれない経験のある人間だからこそできた芸当だったように思います。

②キュレーション=キャスティング

二つ目は「誰を呼ぶか」の話。キュレーション(curation=目利きで選び、組み合わせる作業)、と言ってもいいでしょう。あるいは、本業の言葉で言えば、まさにキャスティング。

例えばURイベントでマルシェを企画するとき、出店者の枠を誰に頼むかの選定は、基本的にすべて僕らの仕事でした。広告で応募を募るのではなく、過去出店者に対してこちらから丁寧に声を掛けます。

これは、本業のキャスティングとそっくり同じ仕事でした。俳優を作品の世界観のなかに置くときの感覚と、まったく重なります。

選び方の軸は、二つでした。「企画との相性」と「その人の旬」です。そのイベントのテーマや雰囲気と、その人の作るもの・人柄が合うかどうか。そして、出店の様子、SNSの動き、活動の広がりを見ていて、「この人、いま来てるな」と感じる。あるいは、忙しそうだからいまはそっとしておこう、とか。一人ひとりにタイミングと旬があるから、いちばん良いところで舞台を渡す。これが、本人にとってもいちばん意味のある機会の作り方だったと思います。

この相性も旬も、日々一人ひとりと近い距離で接してきたからはじめて見えてくるものでした。応募を集めて書類で判断する、データで層を分析する、では絶対に届かない解像度です。小さくて、弱くて、大資本ではなかった僕たちだから、ここまでの近さで一人ひとりを見続けられた。冒頭の三つの弱さは、選定の解像度のところで、しっかり効いていました。

ここでひとつ、まちづくりの周辺の言葉づかいで、ずっと違和感を持ち続けてきたことに触れておきます。地域で何かをやっている人を「プレイヤー」とひとくくりにする言い方です。会議でも公募概要でも書籍でも、当たり前のように使われます。

——というように書きながら、実はこの記事の中にも、レポート内にも「プレイヤー」という言葉は何度か出てきています。構造を語ろうとしたり、関わり方の4段階モデルの話をしたりするとき、群として呼べる単位がないと、そもそも文章が成立しない場面があるのです。便宜的に、流れ上、避けられない場所では、僕自身も使ってしまっている。便利な言葉であるがゆえに、油断するとすぐ手が伸びる。

それでも、本意ではありません。まちで活躍する人たちを「プレイヤー」という名前で一緒くたにした途端、拠点の運営者としても個人としても、何か大切なものを見失っている、損なっている感覚に陥ります。大規模な都市開発では、人は一人ずつではなく群として扱わざるを得ない。それは規模を回すために避けられないとしても、その語彙が小さな場所の会話まで降りてきて、日頃付き合いのあるあの人やあの人が「プレイヤー」と呼ばれているとき、僕はほとんど怒りに近い違和感を覚えます。自分が便宜的に使ってしまっているからこそ、その違和感は忘れてはいけないと思っています。

固有名の存在としてその人を扱うことは、その人への当然のリスペクトであり、人と人との関係づくりにおけるマナーです。そして、キャスティングとは結局、固有名と固有名の組み合わせの仕事でもあります。一括りの便利な単位で人を扱うようになった瞬間、それはもうキャスティングではなくなる。だからポンドでは、固有の一人ひとりとして接することを、当たり前のまま続けました。これが、小さく弱い立場で街と向き合っていた僕たちの、もっとも大事な姿勢のひとつでした。

③「関係のための関係」を避ける——ステージという迂回路

三つ目は、ステージ(舞台)の話。

僕たちがポンドでやらなかったことのひとつに、いわゆる交流会というのがあります。コミュニティづくりの場でよく企画される、「みんなで集まってお酒を飲んで仲良くなりましょう」というやつ。一度も組まなかったわけではないけれど、基本は避けていました。交流のために交流する、という構造がどうも苦手だったからです。

代わりに、機会を用意しました。個人的にはステージというほうがしっくりきます。誰かがそこで何かを発表する、店を開く、本を売る、餃子を焼く、映画を上映する、写真を撮る。そういう具体的なアウトプットがある集まりを中心に組んでいました。お酒や雑談は、そのアウトプットの周辺で勝手に立ち上がる程度で十分でした。

お気づきかと思いますが、これはさきほど書いた「迂回」の話と同じ話です。

人と人を直接出会わせるのではなく、ステージという活動を間に挟む。活動の中でその場に居合わせた人同士が自然に話し始める。話し始めなくても、同じ場面を見ているだけで、ある種の共有が生まれる。ステージは関係づくりの迂回路として機能していました。

2年目に書いたnoteで、僕はこの感覚を「ZINE的空間」と表現したことがあります。多声音楽のように、予定不調和な編集物としてまちの拠点はあるべきだ、と。今でもこの見立ては気に入っています。

同じnoteで僕は、「魚を無理やり水槽に放り込むようなことはしない」とも書きました。誰かと誰かを繋げようと運営者が躍起になった瞬間、その人は繋ぎの駒になります。だから、繋げない。空気だけを整える。これを「無為と作為の狭間」と呼びました。3年経って読み返してみると、無為と作為の狭間というのは、つまりこの章で書いている「ステージという迂回路」の別の言い方だったんだな、と気づきます。

ステージの種類は、いくつかに分けて使い分けていました。さきほど書いたコンテクストチューニングと重なりますが、たとえば餅つきや縁日のような、誰でも来られる拡散型のステージと、CCCや映画祭部のような、参加者が顔の見える範囲で深まっていく収束型のステージ。それぞれ、舞台のサイズも、求められる空気も、用意するコンテンツも違います。ふたつを同じ場所で並べておくことで、出てくれる人の幅も、見に来てくれる人の幅も、無理なく広がっていきました。

ひがいけ映画祭部は、その典型でした。映画を上映する企画ではなく、まちの人たちが数ヶ月かけて一つの映画祭を作っていく、いわば部活動のような取り組み。第1回はコアメンバー8名から始まり、最後の第5回ではコアメンバー13名、関わった総人数は28名まで膨らみました。映画祭という最終的な「ステージ」があるから、人は集まり、関係は深まりました。同じ人たちが「映画好きの集いをやりませんか」という呼びかけで集まったか?と問われると、ちょっとあやしい。やっぱり「映画祭を一緒に作りませんか」という呼びかけだからこそ、多彩なバックグラウンドを持つメンバーが集まったのだと思います。これも、典型的な迂回の構造でした。

第4回ひがいけ映画祭の様子。謎解き×映画上映に挑戦。収束型のイベントの典型
2022年から毎年恒例の縁日。誰でも来られる拡散型のイベントの典型

それから、ささやかな企画に「まちのるーてぃん」というシリーズもありました。「黙々と作業をする日」、「ただ本を読む日」など。集まった人たちは、同じ場を共有しつつも、お喋りせずにそれぞれの作業をするだけ。でも、同じ空間と時間を共有する、先ほどの宇野のいう「事物と向き合う時間」を誰かと一緒に持つ。それだけで、ある種の関係性が作られていきました。

機会を作る。舞台を整える。あとは、場の流れに身を任せる。これが、ポンドの集まりの基本的な作りでした。

④制作を介した関係——BOOKS AND GOODS

四つ目は、制作の話。これがいちばん大事なところかもしれません。

開業当初は、僕も彩良も自分のポップアップに出ていました。僕は日本茶のカフェやスナックをやっていましたし、彩良はシルクスクリーン(手刷り版画)のワークショップやクラフトコーラの店を出していました。当時のポップアップの利用者はまだ少なくて、カレンダーの空きを埋めるためでもあったし、「ここはこんなふうに使えるんだよ」というのを実際にやって見せるためでもありました。自分のレーベルとして本気で何かを作っている、という感覚とは、少し違いました。

僕の日本茶レーベル「チャーチル」

ただ、この時期に自分たちで出店してみた経験は、出店者への理解と共感を育む意味では大変役に立ちました。出店してくれる人の何が大変で、何が嬉しいか、身体で分かる。運営者として「お疲れ様でした」とねぎらう側にだけまわっていたら、出店者のしんどさや喜びの解像度は、いつまでも上がらなかったと思います。最初に自分たちが出店者として奮闘した経験が、その後も運営者としての耳と目のきめ細かさを支えてくれました。

そして、ポンドが軌道に乗って、外から声を掛けなくても出店枠が埋まるようになってくると、自分たちで出店する機会は自然と減っていきました。運営者として、人を立たせる側にずっと回るようになっていきました。

その時期から、自分のなかで新しい問題意識がじわじわと立ち上がってきました。ステージを用意するだけでは、何かが足りない。ステージで人を立たせている自分自身は、そもそも何を作っているのだろうか。

「まちのインディーズ活動」(制作)を介した関係づくりを大事にしようと思いながら、自分自身がいま何も作っていない。もちろん施設自体を作っているとは言えるかもしれないけれど、それでは単なるレンタルスペースオーナーでしかない。誰かが何かを作る場所を運営している人間が、自分は何も作っていない。ここに、構造の歪みのようなものを感じていました。

その答えとして、2024年8月、ひがいけポンドの店内に、BOOKS AND GOODSという小さな店をオープンしました。

これは何かと言うと、僕と彩良が二人で運営する、本と雑貨の店です。本は僕の担当で、人文系の新刊・中古・ZINEを合わせて300冊ほど。グッズは彩良の担当で、オリジナルのTシャツやトートバッグ、それから彩良がいいと思ったデザイナーやイラストレーターの作品を並べました。

正直に書くと、BOOKS AND GOODSを始めた背景には、コミュニティ疲れがありました。

人が集まる場所には、ハレーションも起きやすく、どこかでヘイトもたまっていきます。何より、ポンドを中心に急速に広がっていたコミュニティに、自分たち自身が追いついていけなかったストレスがありました。いずれにせよ、この時期は他者に目線が行き過ぎていたともいえます。

その疲れが溜まったとき、僕たちは思いました。今いちど、人を気にせずに、自分たちが心からいいと思えるものだけを並べる場所を自分たちのために作りたい、と。僕にとってはそれが本でした。彩良にとってはそれがデザイン物の制作や雑貨選びでした。お互いの好きを合体させて、人を気にせずに、自分たちの好きなものだけを世の中に出していく。「まちのインディーズ・レーベル」を、僕たち自身のレーベルとして実装する。これがBOOKS AND GOODSの動機の正直なところです。

運営の形態は、有人と無人の併用にしました。僕と彩良は、週に一日か二日、自分たちで店に立ちます。それ以外の時間は無人販売。本のワゴンと雑貨の壁棚は、店主がいなくても見られて、買える。お客さんは備え付けのレジ袋に商品を入れ、決済アプリで支払う。

無人販売を残したのは、二つの理由がありました。ひとつは、無人でも売れるなら売り上げになる、という現実的な話。もうひとつは、ひがいけポンドという場所の性格に対する一つの応えでした。

ひがいけポンドは、ポップアップスペースとして、毎日違うことをしていました。今日はカレー屋さんがいる、明日はキャンドル作家がいる、明後日はヨガがある。これは設計として正しいのですが、一般のお客さんから見ると、期待値コントロールが難しいのです。毎日違ったお店があるというワクワクは提供できるものの、一方で「結局何のお店なの?」という疑問に答えられない。とっかかりがない。

ところが、本のワゴンと雑貨の壁棚が常設されていれば、「ここは、いつ来ても本と雑貨があって、その奥に何らかの飲食スペースがある場所」として、お客さんに認識してもらえます。常に何かが置いてある、という安心感。それが入り口の機能を果たします。「何屋かわからない」場所に入るのは、ハードルが高いものです。しかし「本と雑貨の店」と思って入ってみたら奥にカレー屋さんがいる、なら、多少は入りやすい。

これは副産物として、出店者への支援にもなりました。週末のポップアップで、まだ知名度のない出店者が立つとき、入り口の本のワゴンと雑貨の壁棚が、最初のフックになります。本を見にきた人が、その奥のカレーに気づいて立ち寄っていく。集客的にしんどい出店者の背中を、入り口の物販がそっと押す。これは意図したというよりも、運営しているうちに気づいた嬉しい副作用でした。

そして、もうひとつ大事なのが、BOOKS AND GOODSをひがいけポンドの中に置いたということです。ポンドではない別の場所で新しい店を開く、という形は取りませんでした。ポンドという箱の中に、もうひとつ箱を作る。自分たちなりの、ひがいけポンドとの接点を結び直す活動として、ポンドの内側に並列で存在させる。

これは、僕たち夫婦の、コミュニティとの距離の取り方の自衛策でもありました。コミュニティから完全に離れるのではなく、コミュニティの内側に、「自分たちの好きだけで成り立つチャンネル」を一つ持つ。ポンドの運営者として人と関わる回路と、BOOKS AND GOODSの店主として本と雑貨を介して人と関わる回路。二つを並走させることで、どちらか一方に依存して疲れることを避けていたのです。

これなら、コミュニティを持つことと、コミュニティから距離を取ることは両立できます。両立させた方が、長く続く。これも、BOOKS AND GOODSを開業してみてわかったことのひとつでした。

⑤囲い込まない・スターにしない/作り手と受け手を同時に作る

五つめ。最後のトピックは、「囲い込まない」ということについて。

ポンドで活躍してくれた人たちを、僕たちは囲い込みませんでした。これは、経営的にはたぶん損な選択でした。「ポンド発の◯◯」という形でラベルを貼って、その人の今後の活動をポンドのブランドの一部として運用すれば、外向けのストーリーは強くなります。でもそれをやりませんでした。

理由は、これまでの章でも触れたとおり、自分たち自身が囲い込まれるのが嫌な人間だったからです。誰かを「うちの人」と決め打ちした瞬間に、その人と自分たちの関係に、商業的な薄い膜が一枚かぶさります。それでは、せっかく培ってきたパーソナルな関係が一気に崩れてしまう。

「特定のスターを作らない」ということも同時に意識していました。

ポンドで光っていた人たちは、いろんなタイプがいました。作っているもののクオリティが圧倒的に高い人。クリエイティブのセンスがいい人。関係づくりやネットワーキングが上手な人。それぞれの強さがありました。誰がいるかでポンドの空気がぐっと湧き立つというような、存在感の濃い人たちです。

そういう人たちを、ポンドの看板として固定し、そこに依存することは、避けたいと思っていました。スターを一人立てると、運営も企画もPRも楽になります。でもその瞬間、スター以外の人がそこから抜けていきます。

なので、すでにスター級の信頼できる人たちにも適切な依頼をしつつ、今後の活躍が期待される”ネクストブレーク出店者”の起用を、特にUR主催イベントの中で積極的に行っていきました。URイベントがきっかけで、さらに活躍の場を広げた出店者もたくさんいらっしゃいます。

加えて、キラリと光る出店者の活動の場を、むしろポンドの外に作っていく支援も行いました。誰かが別のまちで自分の店を開くとき、別の場所で新しい活動を始めるとき、僕たちは内心ちょっと寂しいけれど、声を大にして「いってらっしゃい」と背中を押す側にまわりました。その人がポンドの外で何か始めるときには、フライヤーを店頭に置いたり、Instagramで告知をしたり。必要に応じて、まちの人を紹介することも。

ポンドでの経験を経て滝野川フレイムスを開業した河田彩さん

このスタンスのいちばん奥には、たぶん「ひがいけポンド」という名前そのものがありました。ポンドというのは英語で「池」のこと。池には固定された中心はありません。水面のあちこちで波紋が起きて、それが広がって重なって、池全体がゆるやかに動いています。接点を多様にする、アメーバのように表面積を増やしていく——5年間、運営のなかでずっと言い続けていたことでした。中心がひとつあって人を集めるのではなく、小さな接点が方々に伸びていく。その表面積が広がるほど、出会いも、機会も、運営の持続可能性も増していきます。

その思想を体現する戦略のひとつが、土日の固定出店枠を絶対に作らないことでした。週末はいちばん集客の見込める時間です。誰か固定で入れれば、こちらも楽だし、その人の売上も安定する。けれどそれをやると、土日が固定化して、新しい出店者の入る余地が減ります。関係人口が広がらない。特定の人への集中を避けて、ある種の公平性を保つための工夫でもありました。

そしてもう一つ、これは僕個人の事情も少し絡んでいます。冒頭で書いたように、僕自身がずっと人間関係の辺境にいる人間でした。だから、ポンドの真ん中で光っている人たちを見ているとき、同時に、その光に届いていない、少し外側にいる人たちの目線がいつも気になりました。「これは、あの人から見たら面白くないだろうな」「ちょっと贔屓しすぎに見えるな」というのが、先回りして見えてしまう。中心の人たちではなく、その周辺にいる人たちにこそ、目を向け続ける運営。辺境にいた人間にしかできないケアの一形態だったと思います。

囲わない、けれど、応援はする。施設の中に閉じ込めない、けれど、施設のSNSで紹介する。このスタンスを貫いてきました。

東長崎のチョコレート専門店「カカオ工房トリビュート」のお二人

ありがたかったのは、豊島区の中には、僕たちと似たような思想で運営している小さな拠点がすでにいくつもあったことです。それぞれ言葉も、業態も、スタイルも違います。でも、根っこのところで、お互いの活動を応援し合おうという空気があります。そういった土壌の上に、ひがいけポンドはたまたま「まちのインディーズ活動を起こす人を生み出す場所」として、ひとつの役割を引き受けた、という感じでした。豊島区という土地に、僕たちが先に何かを持ち込んだ、というよりは、すでに耕されていた土壌に、僕たちが小さな苗を一本足した、という感覚に近いかもしれません

そしてこれは後から気づいたことですが、僕たちが作っていたのは、出店者だけではありませんでした。

3年前のnoteで、僕は若い運営メンバーがいつのまにかポンドらしい振る舞いをするようになっていく現象を「ポンドウイルス」と書きました。当時はこれを、”雰囲気の伝染”というふうに少しロマンチックに書いていた気がします。でも今振り返ると、伝染していたのは雰囲気というよりも、むしろこの章で書いてきた態度——囲い込まない、スターを作らない、人を駒にして場を回さない——のほうだったと思います。雰囲気は場所に宿りますが、態度は人に宿ります。場所が閉じれば雰囲気は消えるけれど、態度は人と一緒に別のまちへ持ち出されます。実際、僕たちの章が幕を閉じた今も、ポンドウイルスが池袋を中心とした各所に蔓延しているのをうっすら感じています。

出店者を「作り手」として送り出すと、それを楽しみにする「受け手」も、同時に育っていきます。ラジオで言えば、ネタを投稿するハガキ職人や、毎週欠かさず聴くヘビーリスナーのような人たち。彼らもまた、ひがいけポンドという小さなシーンの一部でした。作り手だけが集まってもシーンにはなりませんし、受け手だけが集まっても消費の場にしかなりません。両方が同じ場に居合わせていることで、はじめて「界隈」と呼べる何かが立ち上がっていました。

そして、この作り手と受け手のあいだを行き来する人もいました。役割が固定されない人たちが何人もいました。ポンドは、誰かを「作り手」や「受け手」のラベルで決め打ちせず、行き来できる構造にしておきました。役割の流動性が、シーンの厚みになっていました。

囲い込まないこと、スターに依存しないこと、作り手と受け手を同時に育てること、役割を流動させること。書いてみると、どれもよく似た話で、要するに「誰のことも一つの位置に固定しない」という、それだけのことでした。固定しないからこそ、僕たちの章が閉じても、人の流れは続いていきます。


第3部|レーベルとシーン。自分を見失わないために。

ふたりの職能の組み合わせ

ここまで、内向的だったから/対人感受性が強かったから/業界外だったから、と「弱さ」の側から書いてきました。けれど、それだけで5年続いたわけではない、というのも本当のところで。もう一つ大事な要素を、ここで書いておきたいと思います。

それは、夫婦ふたりの職能の組み合わせです。

僕は、文筆と思想設計の役回りでした。本業はキャスティングですが、提案書を書いたり、企画のストーリーを組んだり、コピーを練ったりするのは、日々の仕事のなかで自然と手元の道具になっていきました。一時期「仕事旅行社」という社会人向けの職業体験プログラムを提供する会社にジョインしていたころには、兼業でライターの仕事を受けていた時期もあります。自分のエッセイを書くというのも細々と続けてきました。恥ずかしながら、コピーライター養成講座にも一応、通ったことはあります。とはいえ、コピーライターというよりはライターに近い立ち位置で、書きながら考えて考えながら書く、というのを十数年積み重ねてきました。

彩良は、デザインと企画の役回りでした。現在も弊社のデザイン制作を一手に引き受け、外部の仕事もちょこちょこ引き受けています。たとえば、ロゴを作る、フライヤーを組む、什器を並べる、店全体のビジュアルを整える…。広告の言葉で言えば、アートディレクターに近い役回り。美大ではないもののデザイン学科出身ということもあってデザインの基礎はすでに十分できていましたが、それ以上に独学と感覚と現場の試行錯誤で経験を積んできた努力の人です。

振り返ると、これこそが、僕たち自身のインディーズ活動でした。専門教育の体系のなかで職能を伸ばしてきたのではなく、自分たちの興味と、現場と、試行錯誤のなかで、ライティングとデザインの手応えを少しずつ広げてきた。誰かに頼まれてではなく、自分たちの好奇心の側から、考えて、書いて、デザインする。これは、ポンドで僕たちが応援していた「まちのインディーズ活動を起こす人たち」と、構造としてはまったく同じことを自分たちの職能で先にやっていた、ということでもあります。

ひがいけポンドが「まちのインディーズ活動を起こす人を生み出す場所」だったとすれば、その手前で、僕たち自身がまず自分たちのインディーズ活動として、ライターとデザイナーの職能を育ててきました。専門職としての本業の重みではなく、インディーズ活動の自由度のほうから出発した二人だったから、ポンドという場を、外から借りてきた方法論ではなく、自分たちの肌感覚で組み立てられたのかもしれません。

シーンメイキング(界隈づくり)をやろうとすると、このライターとデザイナーの組み合わせが、ものすごく効いてきます。

抽象化して並べるとこうです。ナラティブ × クリエイティブ。コピー × デザイン。思想 × 世界観。 どちらか一方では、シーンは立ち上がりません。

ナラティブだけでは、空気の手触りが出ません。コピーが立派でも、フライヤーがダサければ人は来ないし、施設のスタイルが伝わらない。看板の文字が美しくても、什器のセンスが古ければ、買う気は失せます。逆に、デザインだけでも続きません。見栄えのいい場所はあちこちにありますが、なぜそこに集まるのか、何を一緒に作っているのか。そこにストーリーがなければ、一度きりの来訪で終わってしまうことでしょう。繰り返し人が訪れる場所には、スタイルを言葉で支えるナラティブと、スタンスを身体で示すクリエイティブが両方必要なのです。

ひがいけポンドの5年で僕たちがやっていたのは、たぶん、この二つを夫婦で分担しながら、相互に校正し合うことでした。僕が書いたコンセプトを彩良がデザインで翻訳する。彩良が組んだ世界観に僕が言葉を合わせる。出店者を選ぶときも、僕は活動の思想や背景を見ていて、彩良は作るもののクオリティを見ていて、二つの目線で同じ人を眼差していました。

二人の職能が結実したZINE「それいけ!ひがいけ」

このふたりの職能の組み合わせがあったから、前述の「ステージ」と合わせた、スタイル(Style・世界観)/スタンス(Stance・思想)/ステージ(Stage・機会)という「3S」の運営が成立した、と今は思います。言葉だけの人間が一人で運営しても、たぶんポンドはここまで持ちませんでした。デザインだけの人間が一人で運営しても、同じくここまでの広がりを持てなかったと思います。

これは、対人感受性の高い僕たちにとっての、もう一つの弱さの裏返しでもありました。手当たり次第に外で人と会うのは、二人ともそれほど得意ではありません。だから、二人で長時間同じテーブルにつき、書いてはデザインし、デザインしては書く、という時間に、エネルギーを注げました。外で広く動けない代わりに、内で職能を編むのに集中できた。これも自身の脆弱な部分を理解した上でそれを資源にする、ということだったのかもしれません。

ここまで書いた三つの弱さに、夫婦の職能の組み合わせという小さな強みが噛み合って、ひがいけポンドという界隈は立ち上がっていました。「弱さから始める場づくり」と言うとき、僕たちは決して弱いままで何も持っていなかったわけではありません。弱さに加えて、二つの職能が手元にあったのです。

ライフスタイルとしてのレーベル——大資本に絡め取られることへの対抗

ここまで書いてきたいくつかのトピックを、もう一度束ねてみます。

ひがいけポンドは、最初から「まちのインディーズ・レーベル」というコンセプトを掲げていました。レーベル。音楽の世界の言葉です。なぜ店ではなく、施設ではなく、コミュニティでもなく、レーベルだったのか。

レーベルというのは、ある特定のスタイル(世界観の手触り)とスタンス(思想・姿勢)を共有する、小さな表現の単位です。アーティストを抱え、その人たちの作品をリリースし、流通に乗せていきます。商業の単位として小さい。でも、独立しています。大きなメジャーの流通や、市場の論理に対して、自分たちの選んだ作品で、自分たちの選んだ売り方で立つ。インディーズというのは、そういう自立性の宣言です。

このレーベルの感覚を、まちの拠点の運営に持ち込もうとしたのが、ひがいけポンドでした。アーティストの代わりに、出店者たちがいます。リリースの代わりに、ポップアップやイベントがあります。流通の代わりに、まちの路地を往来する人たちがいます。

そして同時に、これは僕と彩良自身の暮らしの形でもありました。

ライフスタイルとしてのレーベルと僕は呼んでいます。生き方そのものを、自分たちの編集で組み立てていく共同体、といったニュアンスでしょうか。何を読むか、何を着るか、何を選ぶか、誰と組むか。生き方そのものを、自分たちのスタイルとスタンスで編集していく。レーベルというのは、ジャンルや会社の名前ではなくて、そういう生き方の単位のことでした。BOOKS AND GOODSはその一番分かりやすい例だったかもしれません。

「自分のレーベルを持つ」というのは、いったいどういうことなのか。もう少し言葉を足すと、こんな感じになります。

自分の人生で、自分が大事にしていることに根を張った、自分のための制作活動を持つ。仕事の合間に、生活の合間に、自分の好きな本を選んで並べる、自分の好きなTシャツを作って売る、自分の好きな映画祭を企画する、自分が愛する街を綺麗にして仲間とコーヒーを飲む。それを、誰に頼まれたわけでもなく、自分の意思でやる。それが続いていくことそのものが、自分の生き方の灯台になります。

レーベルを持つことは、人と接することでもあります。本を仕入れれば、本を作っている人と話します。Tシャツを売れば、Tシャツを買ってくれる人と話します。映画祭を作れば、映画好きの人と話します。直接「人と仲良くしましょう」と接近するのではなく、自分の制作物を介して、自然に人と関わる。これは、第2部で書いた「迂回」の、いちばん持続可能な形です。

そしてもう一つ、レーベルを持つことは、自分自身に対するケアでもあると思います。自分が何を好きなのか、何にこだわっているのか、何にエネルギーを使いたいのかを、毎日小さく確認する作業。それは仕事の生産性を上げるためでも、誰かに評価されるためでもなく、ただ、自分が自分のままでいるためのリチャージです。同時に、自分のレーベルが他の誰かに届いたとき、それは小さなエンパワメント(力を与えること)にもなります。誰かが「ああ、こういう生き方もあるのか」と思ってくれる。誰かが「自分も自分のレーベルを持っていいんだ」と思ってくれる。そうやって少しずつ、自分のレーベルを持つ人が増えていけば、まちはもっと柔軟に、ダイナミックになる。

2023年に発表されたリクルートワークス研究所の『未来予測 2040』に、「ワーキッシュアクト」という概念が出てきます。仕事ではないけれど、社会的な役割を担うような自発的な活動、という意味で使われています。市場の論理から少し外れたところで、人が自分の意思で続けている、生活と仕事の境目にある営み。レーベルを持つというのは、たぶん、このワーキッシュアクトと近いものです。完全な仕事でも、完全な趣味でもない、生き方そのものとしての制作。これからの時代の働き方や暮らし方を考えるとき、ひがいけポンドの5年は、ちょうどこの領域での実験だったとも言えます。

ここで、第1部の冒頭に書いた、東池袋の街の文脈に戻りたいと思います。

タワーマンションが林立する大資本都市の足元に、なぜインディーズの活動が必要なのか。

大資本の都市は、消費者を集めて成り立っています。きれいな住宅、便利な商業施設、整備された公園。そういうものが住む理由になり、住む理由が崩れたら、消費者は出ていきます。大局的に見れば、住民を取り替えながら人口を維持していくモデルなわけです。

それに対して、インディーズな活動が作っていくのは、消費者ではありません。作り手であり、それに呼応する受け手であり、さらにその周辺で見守ってくれる支え手です。前の節で書いたように、ひとつのまちのなかに、こうした多層の関わり方が同時に立ち上がる。それぞれが固定された役割ではなく、ある日は作り手、別の日は受け手、また別の日は支え手、と緩やかに行き来する。

この多層的な関わりが束になると、まちの中に大資本の論理とは別の”小さなシステム”が回り始めます。経済合理だけで動くシステムではなく、誰かの制作と、誰かの受容と、誰かの支えが、互いに参照し合うような生態系。資本のスケールに比べたら遥かに小さいけれど、その代わりに、ダイナミックで、しなやかで、簡単には壊れません。

そしてこれこそが、「シーン」と呼ばれるものの正体です。次の節で「シーンメイキング」という言葉でもう少し丁寧に書きますが、シーンとは要するに、作り手・受け手・支え手が、それぞれの位置で動き続けている、小さな生態系のことです。ひがいけポンドの5年で僕たちがやってきたのは、東池袋という土地のなかに、この小さな生態系を一つ立ち上げることでした。

消費者は利便性が崩れたら去ります。作り手は、自分の手の痕跡が残っているからなかなか去ってはいかない。受け手と支え手も、その痕跡を共有しているから残ります。仮にそのまちの在住者ではなくとも、大資本の都市に対して、「ここを去らない理由」を作るのが、小さなインディーズの活動なのです。

最近、世の中のたいていのものが、僕たちの手を離れたところで勝手に生成されていく時代になってきています。AIに頼めば文章はあっという間に書けます。動画も画像もデザインも、なんとなくのプロンプトで形になります。便利だと思いますし、僕自身もずいぶん使っています。

ただ、そういう時代だからこそ、自分たちの手で自分たちのものを作る、という行為だけは、絶対に手放してはいけないと思っています。自分の手で何かを作るというのは、自分が何を好きで、何にこだわって、何に引っかかるかを、毎回確かめ直す作業でもある。それを続けているあいだは、自分の輪郭が、大資本の論理にもテクノロジーの生成の波にも絡め取られずに残ります。自己を保つというのは、たぶんこういう小さな手仕事の連続のなかにしかない。

一人ひとりが、自分の暮らしと仕事を、自分のスタイルとスタンスで編集していく——そういう小さなレーベルを持つことが、これからの時代の、ささやかな抵抗の形になっていくはずです。

シーンメイキング=界隈づくりについて

ここまでひがいけポンドの5年について書いてきたことに、外側から見たときの呼び名を、最後に与えておきたいと思います。

すでに冒頭から言及してますが、僕たちがやってきたことは「シーンメイキング」と呼べる行為でした。

並び立つ言葉として、すでに広く使われているのが、「プレイスメイキング(placemaking=場所づくり)」です。都市計画や公共空間設計の領域で、長く議論と実践が積み重ねられてきた方法論で、海外を中心に世界中に普及しています。要するに、「場所(プレイス)の質を高める」という発想です。広場をどう設計するか。公園にどんなベンチを置くか。商店街の街路樹をどう配置するか。空間と環境のほうを、丁寧に整えていく。よくつくられた場所には、人が集まり、滞在し、活動が生まれる、という前提でものを考えます。評価の指標も、賑わい、滞在時間、利用者数、空間の快適さといった、場所への反応として測れるものが中心になります。

ひがいけポンドでやってきたことは、これとは別軸の仕事でした。場所そのものは、URから借りた既存の空きビルでした。物件をデザインして人を呼ぶ、というアプローチが取れる前提ではありませんでしたし、もしできたとしても、たぶんそれは僕たちの本業ではありませんでした。僕たちが設計したのは、場所ではなく、その場所で「起きる出来事」のほうでした。

これを、日本語で言うなら「界隈づくり」になると思います。

音楽シーン、文学界隈、IT界隈、ストリート界隈。「界隈」という日本語は、地理的な近接性以上の意味を含んでいます。似たような志向を持つ人たちが、ゆるくつながりながら、それぞれの活動を持ち寄って交差する集合体のことです。これを、まちの文脈で立ち上げていくのが、シーンメイキング(scene making=出来事の場づくり)の仕事でした。

主役は、空間ではなく、人とその組み合わせです。誰がそこに立つか。誰と誰を組ませるか。時間軸は、恒常性ではなく一回性と連続性の両立。今日の出来事は今日しか起きないけれど、毎週違う出来事が同じ場で続いていきます。業界由来は、建築や都市計画ではなく、広告や音楽や雑誌編集。毎号違うけど続いている、毎回違うけど一貫している。そういう編集と興行の領域からの輸入です。

あるときはハワイになり、
あるときは哲学的思索のためのサロンになり、
あるときばゴミを拾う。
またあるときは子どもたちの身体性を解放し、
あるときは香り立つ大人のカフェであり、
再び子どもたちの創造の場にもなる。
ただ、いつもそこにあるのは没頭と夢中。そして、
それを取り囲む仲間である

そして、シーンメイキングは、第2部の冒頭で書いた「迂回」の方法論でもあります。最短距離で人を集めて、最短距離で関係を結ばせて、最短距離で成果を出す。そういう、まっすぐな経済の論理に対して、出来事・活動・ステージを介して、ゆっくりと人と人のあいだに何かを立ち上げていく。すぐには利益になりません。指標化もしにくい。それでも、長い時間をかけてその土地に何か残るものを作ります。

「迂回」という言葉については、吉江俊さんの『〈迂回する経済〉の都市論』という本が、ひがいけポンドの最後の最後の時期に出版されました。直進する経済(最短距離で利益を最大化する開発のロジック)と、迂回する経済(パブリックライフへの投資を「迂回」として位置づけ、長期的に都市の価値を高めていく開発のロジック)という対比が出てきます。読みながら、僕たちが東池袋でやっていたことに、別の領域の人が「迂回する経済」という名前を与えていたことを知りました。

宇野さんの『庭の話』も、吉江さんの『〈迂回する経済〉の都市論』も、僕たちが先に学んでそれをトレースしたわけではありません。実践のあとに、別々の領域の人がそれぞれの言葉で整理してくれていたのを、後から見つけたという順序です。結果として同じ場所を指していたことに気づいて、自分たちが感覚でやってきたことが、別の言葉でも考えられているんだ、ということが分かりました。同じことを言っている論者が複数いる、というのは、それだけこの方向の問題意識が、いまの時代に重要なのだろう、と思います。実践のエビデンスとしての心強い符号でした。

ここで強調しておきたいのは、シーンメイキングがプレイスメイキングを否定するものではない、ということ。むしろ、両方が必要だと思っています。物理的な場所の質と、そこで起きる出来事の質は、互いに補い合います。直進と迂回も、対立というよりは両輪のはずです。ただ、ハードはハードの専門家にお任せして、自分たちは出来事の編集側、迂回路の設計側に専念したい、というだけの話でした。

弱いままで、誰かと生きていく。

弱かったからこそ、完璧でないからこそ、できたことがあった。その足跡を辿る物語も、そろそろおしまいです。

僕は相変わらず弱いままです。会社の規模もまだまだ小さく、家庭でも毎日失敗ばかりで、人付き合いもいまだに上手になれない。それでも、自分を無理に変えようとせず、誰かに変革を迫ることもなく、弱さを抱えたまま、誰かのとなりに立っていられた。それが、僕にとってのこの5年でした。

別の角度から見ると、ここまで書いてきたことは、ある種の「編集」の話でもありました。

白石正明さんは『ケアと編集』のなかで、ケアという仕事の本質を、こう書いています。困っている人を「直す」のではなく、その人を取り巻く「地」のほうを編集する。本人を改変するのではなく、本人を取り巻く文脈の側を組み替えることで、その人の振る舞いの輪郭が変わって見える。いわば、図と地の反転。

僕たちがひがいけポンドでやっていたのは、たぶんこういうことだったのだと思います。事業体として個人としての脆弱性を武器に、自分たちの弱さに合った「地」のほうを編集していく。直接の関係づくりが苦手だから、活動を間に挟む。声を張るのが苦手だから、ステージを用意して誰かに立ってもらう。コミュニティ運営で疲れるから、内側にもう一つ箱を作る。本人ではなく、本人の周りを編集する。図ではなく、地を変える。

そして、これは僕の本業であるキャスティングの発想と、まったく同じ仕事でもあります。

キャスティングの現場では、俳優そのものを変えることはできません。その人の身体、声、佇まい、これまでの仕事の積み重ね——すべてその人固有のものとしてそこにあって、こちらから動かしようがない。だから僕たちにできるのは、その俳優が固有の質感のままで活きるように、作品と組み合わせという「地」のほうを、つぶさに眺めて編集することです。図ではなく、地を動かす。これが、キャスティングという仕事の核です。

また、キャスティングを長くやっているとわかるのですが、魅力のある役者は、ほとんど例外なく、どこかに弱さを抱えています。緊張しがちな人、自分の容姿に深いコンプレックスがある人、人見知りで現場でうまく振る舞えない人、過去の躓きをずっと引きずっている人。そして、その弱さが、しばしばその人固有の魅力に直結しています。弱さを取り去ってしまったら、その人がその人でなくなる。弱さこそが、その人の価値の源泉になっている。芸能の世界に身を置いていると、これは何度でも確認することになります。

ひがいけポンドにあったのも、ずっとこの眼差しでした。集まってきた人たちの”足りなさ”を、欠点として処理せず、その人の価値の核として受け止める。誰も改変しない。誰も序列化しない。ただ、弱さを抱えたまま、それぞれの位置で、それぞれが何かを作っていく。

「弱さ」を直さないということは、成長を拒んで怠けることとは異なります。そうではなく、「弱さ」を価値あるものとして語り直すということです。これがたぶん、ケアとエンパワメント(人を力づけること)の、いちばん地味でいちばん本質的な姿勢でした。

同時にこの姿勢は、いまの世の中の生きづらさを底で形作っている大きなシステムへの、ささやかな抵抗でもありました。経済合理性で人を測ってふるい落としていく空気。強者を中心に置く家父長的な価値観で、人を序列化していく根深い慣性。そういう大きな流れに対して、まちの路地で僕たちが続けてきたことは、控えめなカウンターでもありました。弱いままでいていい、弱いままでつながっていい、と言い続ける小さな場所。

これを読んでくれた誰か。もしあなたが、まちで何か小さな場所を作ろうとしているなら、声を張る必要も、内側に飛び込む必要も、本当はそんなにありません。それが素直にできない、自分の弱さを、歪さを、どうか誇ってください。

弱いままで、誰かと生きていく。弱いままで、誰かとつながっていく。

あなたにしか作れないものが、きっとある。

またどこかで!

参考文献

直接的な引用がなくても、ひがいけポンドの運営における基礎的な考え方として意識していた書籍、本文で下敷きにした書籍が多数ありますので、参考までに最後に記載いたします。

宇野常寛
『庭の話』(講談社)

吉江俊
『〈迂回する経済〉の都市論』(学芸出版社)

白石正明
『ケアと編集』(岩波新書)

奥村隆
『他者といる技法──コミュニケーションの社会学』(ちくま学芸文庫)

東畑開人
『居るのはつらいよ──ケアとセラピーについての覚書』(医学書院・シリーズ ケアをひらく)

國分功一郎
『中動態の世界──意志と責任の考古学』(新潮文庫)

谷川嘉浩・朱喜哲・杉谷和哉
『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる──答えを急がず立ち止まる力』(さくら舎)

綾屋紗月・熊谷晋一郎
『つながりの作法──同じでもなく違うでもなく』(生活人新書)

荒井裕樹
『まとまらない言葉を生きる』(柏書房)

戸谷洋志
『生きることは頼ること──「自己責任」から「弱い責任」へ』(講談社現代新書)

小川公代
『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社)

東浩紀
『訂正可能性の哲学』(ゲンロン叢書)

リクルートワークス研究所
『未来予測2040 労働供給制約社会がやってくる』



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