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トッカン-警視庁異常事案特別管理室- 第1話③

 現場となったワンルームの部屋は、短い廊下の先にある。覚悟を問うように閉ざされた扉の前に立ち、松田は両手を合わせて目を閉じた。被害者に対する黙祷を目にして、嵯峨野も同じように両手を合わせる。

 普段は口も悪くすぐ手の出る松田だが、死者に対する哀悼の意は決して忘れない。
 短いようで長い黙祷の後、松田が扉を開いた。

「……相変わらず、室内は綺麗なままだな」

 襲い掛かかってくる臭気に一瞬だけ眉を寄せ、嵯峨野は室内を見回す。男性の一人暮らしにしては物が少なくシンプルだ。
 その中で、ベッドを覆うように広げられたブルーシートが異質な気配を放っている。

 二人はブルーシートの前でもう一度手を合わせる。高浪の話では、被害者はここで死亡していた。

「開けるぞ」

 ブルーシートを掴んで、松田がゆっくりと持ち上げる。
 黒い塊が現れ、嵯峨野は瞬間的に目を閉じてしまった。松田も隣で息を飲む気配がする。

「嵯峨野、良く見ろ」
「……はい」

 だが、ここで怯んでいるわけにはいかなかった。拳を握って耐えながら、嵯峨野は目を開け、松田と共に遺体の状態を観察する。
 黒ずんで膨れ上がった遺体はいわゆる巨人様観と言われる様相をしていた。筋肉内や腹腔内に腐敗ガスが充満して全身が膨れ上がる状態だ。

「七〇二の住人は、帰宅時の音を聞いてるんですよね……」

 だとしたら、この腐敗状況はおかしい。
 通常なら死後一週間程度で見られる変異のはずだ。異臭による通報時間から逆算すると、死後一時間で遺体が腐敗したことになる。

 おかしなことはそれだけではなかった。
 遺体の腹が裂けて、複数の腕が突き出ている。高浪から聞いていた通りだったのに、脳が理解を拒絶する。

「全部で七本だよ」

 固まる嵯峨野に野村が伝える。何の数字かわからず戸惑った直後、それが腕の本数だと気付いて嵯峨野は吐き気を堪えきれなくなった。

「我慢しろー」
「うっ……く、は、はぃ」

 松田の叱責に肩を震わせ、嵯峨野は迫り上がってきた胃液を強引に飲み込んだ。喉が焼ける痛みに、反射的な咳が止まらなかった。

「いくら梅雨時期だって言ってもな……」

 むせ込む嵯峨野を横目に、松田は「わけがわからん」とため息を吐いて首を振る。言葉や態度は平然としているが、凄惨な現場を見慣れているであろう松田の額にも脂汗が滲んでいた。

 遺体の腐敗条件は気候や室内の温度で数日程度ズレる。良くあることだが、そのズレを考慮しても数時間でここまで腐敗する論理的な説明がつかない。

 何か得体の知れないものが裏で動いている。
 そんな気配を松田は感じているようだった。皮膚の上を蟻が這うような違和感、とでも言うべきか。そのむず痒さは嵯峨野も薄々感じ取っている。
 
「……チッ、おかしなことだらけだ」

 松田がうんざりしたようにぼやく。これまでの異常増殖事件と同じ不可解な遺体と死亡状況に、頭の整理も追いつかないのだろう。

「そう、おかしなことだらけだ。俺たちもお手上げだよ。……このままじゃ、トッカン行きかもな」

 トッカン、と聞いて松田は露骨に顔を歪めた。

「トッカン……?」

 聞きなじみのない言葉だ。嵯峨野は「何です、それ」と野村に目顔で尋ねる。野村は口が滑った、と言うように嵯峨野から目を逸らすと、松田に助けを求めていた。教えちまっていいのか、と聞いているようで嵯峨野は落ち着かない気分になる。

「え、ちょっと。なんすか、俺だけ仲間はずれですか?」

 子どもっぽいと理解していながらも、嵯峨野はわかりやすく拗ねてみせる。松田は厳しい男だが、嵯峨野の拗ね顔には甘いところがある。刑事課で再会する前からの長い付き合いがあるのだ、松田の転がし方は良くわかっていた。

「チッ」

 そして自分が嵯峨野に甘いことは、松田自身もよく理解していた。舌打ちとデコピンが同時に飛んでくるが、これも必要経費だ。嵯峨野は松田の強烈なデコピンを仕方なく受け入れ、続く言葉を待った。

「トッカンてのは、あるかどうかもわからねえ漫画みてぇなふざけたとこだよ。原因不明の変死事件を横からかっ攫ってく、現場の刑事にとっちゃ最悪のユーレイ部署だ」

「へぇ……」
「いつまでも解決しねえ変死事件は、上から冗談めかして『トッカン行きだ』なんてよく言われたよ。仏さんは現実に存在してんのに、それをユーレイごときにかっ攫われてたまるかってんだ」

 同感だ、と野村が頷く。嵯峨野も同じ気持ちだった。言葉は悪いが、悪態の裏に滲む被害者への憐憫は本物だ。

「仏さんは、コイツと同世代だ。まだ若い。何だってできる年齢だろ。なのにこんな惨い死に方して……、あんまりじゃねえか」

 ぶっきらぼうに吐き出される言葉に、嵯峨野への情が見え隠れする。親子ほど歳が離れている後輩と被害者を、どうしても重ねてしまうのだろう。

 心の柔らかい部分を擽られて、嵯峨野はマスクの中でこっそりニヤけてしまう。だが、感傷に浸るにはまだ早い。嵯峨野は松田の言葉を聞き逃した振りをして、野村に声を掛けた。

「野村さん、そういえばDIFAの画像診断って結果出ました?」
「ん? ああ、コレか」

 嵯峨野の言葉で、野村はすぐに鑑識官の表情に切り替わった。腰に下げていたA5サイズのタブレットに似た機械をポン、と叩く。
 機械の背面には『Diagnostic Imaging Forensic Assistant』と刻印されている。

「折れた七本目の腕と遺体側の断面は、残念なことに九十九パーセント一致するらしい」

 野村の説明に、松田は渋面を作る。なんでわかる、と眉間の皺が問いかけていた。

「うーん……マツさんにもわかるように説明すっと、医療AIが搭載された簡易画像診断の機械なんだよ、コレ。ディーファっていうんだが」
「……小難しいことはわかんねえよ。そのなんとかって機械が便利だって話か?」

「はぁ、相変わらずだなマツさんは。そ、背中のカメラで写真を撮って照会すると、類似の解剖記録や推測データを出してくれんだよ。導入時より精度も上がってるからな、司法解剖も楽になるって話だ」

 呆れる野村の隣で、嵯峨野は小さく噴き出す。ようやく少し、笑顔を出せる余裕が出てきた。松田は嵯峨野の笑い声に気付いて、眉毛をぐいと持ち上げる。

「いやだって、松田さん毎回同じこと聞いてるから」

 過去三件の事件現場でも、松田はDIFAに興味を持って野村に同じことを聞いていた。その様子を思い出してしまっただけなのだが、嵯峨野は言い訳と同時に両手を挙げて降参の意思を示す。

「うるせえ。横文字ばっかで覚えらんねーんだよ」

 不機嫌な松田を刺激しないように、嵯峨野はそっと野村へ視線を流した。八つ当たりを避けるためでもあり、そして自分自身のわずかな望みを確かめるためでもあった。

「あー……えーっと、DIFAが間違ってるなんてことは……」
「そんな犬みたいな目で見られてもなぁ。ま、機械に絶対はないからDIFAの間違いであって欲しいのは俺も同じだよ」

 いくらDIFAの性能が高くても、簡易診断なら間違いもあるはずだ。頭のどこかで期待していた。だが野村は、腹を空かせた犬を宥めるように眉を下げ、その期待をそっと押し戻す。

 DIFAの精度の高さは、普段から使用している野村が一番よく知っているのだろう。一パーセントの間違いに賭けても分が悪い、という気配が言葉の端々から滲んでいた。

「異常増殖事件たぁ、よく言ったもんだ」

 松田が苦々しく吐き捨てる。道理に合わない、理屈に合わないこの事件に苛立っているのだろう。嵯峨野は松田の苛立ちに心の中で同調する。

 事故死で片付けるには部屋が綺麗過ぎる。病死で片付けるには状況がおかしすぎる。残る可能性は殺人事件だけであるが、それもこの密室が否定する。

 それでも、事故死と病死は今までの司法解剖の結果で明確に否定されているのだ。捜査方針を殺人事件に切り替えたのだから、それを元に捜査を進めていくしかない。

 解決の糸口があるとすれば、異常増殖事件の共通点である若い男女の被害者という事実だろう。この共通点には、きっと何らかの理由があるはずだ。