トッカン-警視庁異常事案特別管理室- 第1話②
通報があったのは深夜一時過ぎだった。
現場に急行した高浪と持田は、すぐに現場の異様な雰囲気に気付いたという。マンションのエレベーターホールに、寝間着姿の住人が十人以上立ち尽くしていたのだ。
「どうしました? 異臭がする……との通報でしたが」
高浪が声をかけると、通報したらしい青年が具合の悪そうな顔で近付いてきた。
「隣の部屋から、急に凄い臭いがし始めて……」
「そしたら廊下にまで臭いが広がってきたのよ! 娘は泣くしこっちも眠れないしで大変なんだから、早く確認してきてくれない⁉」
青年を押し退けるようにして、子どもを抱っこした母親が詰め寄ってきた。高浪は圧倒されつつも、穏やかに母親を宥める。
「大丈夫ですから、落ち着いてくださいお母さん。お子さん泣いちゃいますって」
子どもの顔を覗き込む高浪を見て、母親は少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。気まずそうに視線を逸らし、ごにょごにょと何かを呟いてその場を離れていく。
「高浪、エレベーター来たぞ」
そのタイミングを見計らっていたように、持田が声をかける。高浪は住人達に一礼して、持田と共にエレベーターに乗り込んだ。
「現場は七◯三号室で、住人は若い男らしい。深夜バイトなのか、いつも十二時くらいに帰ってきてるみたいだな。七〇二の住人が帰宅時の音を聞いている」
欠伸を噛み締めたまま、持田が住人から集めた情報を共有してくれる。夜勤は堪える、と言いたげだ。
「この時間だから管理会社への連絡は明日になるか」
高浪も同意するように首を回し、エレベーターの階数表示を確認する。四階、五階――と階が上がっていくに連れ、
「うっ、凄い臭いだな……」
何かが腐ったような臭いがエレベーターの中に充満していく。六階を通過する頃には早く着いてくれと祈りたくなるほどの激臭だった。持田も同じ気持ちなのか、眉間に皺を寄せてハンカチで鼻を押さえていた。
「げほっ、こりゃ……中で死んでるかもしれねえぞ」
七階に着いてエレベーターを降りた途端、臭いは一層強くなった。高浪と持田は鼻と口を覆いながら、七◯三号室の前で立ち止まる。
「たでのさーん、警察ですー。たでのさーん! 聞こえますかー?」
持田がドアチャイムを鳴らし、中に呼びかける。高浪は室内の物音を聞き取ろうと集中するが、中で人が動く気配はない。
首を振って持田に合図をすると、持田は強く玄関ドアを叩いてもう一度呼びかけた。だが、物音一つ聞こえない。
本当に、中で死んでいるかもしれない。
「隣の家のベランダから入るしかねえか」
持田は七◯二号室に目を向け、「ちょっと下に行って聞いてくる」と言い残してその場を去ってしまった。もっともらしい理由を口にしていたが、ただ単にこの場から逃げ出したかっただけかもしれない。
損な役回りを押し付けられた。暗澹たる気持ちでいると、しばらくして無線から持田の声が聞こえてきた。
「七◯二号室の通報人から、ベランダ経由で確認して良いと許可を貰った。玄関は開いてるらしい。悪いけど、頼むわ」
「はぁ、了解。今度メシ奢れよ」
「はは、りょーかい」
高浪はため息を吐いて七◯二号室のドアノブに手をかけた。隣室だけあって、こちらの部屋にも臭いが充満している。これなら通報してきた理由もわかるし、あんなに顔色が悪かったのも頷ける。
高浪も、深呼吸でもしたらその場で吐き戻してしまいそうだった。
靴を脱いで、なるべく部屋の中を荒らさないように寝室へ向かい、ベランダの扉を開ける。
風は凪いでいる。
高浪はほっと胸を撫で下ろすが、全身から噴き出る汗は止まらない。じっとりと粘つく不快感が、シャツを背中に貼り付かせる。
高浪は借り物のスリッパで非常用の仕切り板に近付くが、静寂の中でズリズリと響く自分の足音にさえ心臓が跳ねる。弱気な自分に気付いて、高浪は頭を振った。恐怖も不安も吹き飛ばし、心の中でカウントを取る。
いち、に、さんッ――
堅い板の中心を思い切り蹴り抜く。バキッと大きな音がして、高浪は勢いのまま七◯三号室のベランダに踏み込む。
カーテンは開いていた。部屋の電気も付いている。
ワンルームの室内にはセミダブルのベッドとテレビ、ハンガーラックが置いてある。ベッドの横に脱ぎ捨てた黒い洋服が無造作に置いてあり……
「えっ」
いや、違う。
高浪の視線が黒い物体に縫い付けられる。あれは、黒い洋服の山ではない。
呼吸が浅く、早くなる。
顎を伝った汗がぽたぽた落ちて、足元のコンクリートに黒い染みを作っていく。まるで高浪の不安が可視化されたように、染みは広がる。
だって、あれは。
あんなにパンパンに膨れ上がっている、あれは……。
視線が吸い込まれる。
逃げたいのに、目が離せない。
ベッドの横に転がる、風船のように膨張した黒い塊。
そのまんなかを突き破るように伸びているのは
「うで」
一本、二本、三本、四本、五本、六本――
ぽきっ
七本目の腕が枯れ木のように折れて、手のひらをこちらに向ける。
ゆび が さそっていた。
「……ぁ、ああ……、ひっ、ぁあああああ!!!!」
折れたのは人間の腕だ。
腕が、咲いている。
■
高浪の報告に、嵯峨野と松田は息を飲むしかなかった。
間違いであってくれ――そんなささやかな願いは打ち砕かれ、嵯峨野と松田は互いに顔を見合わせる。それでも現場を見るまで断定できない。悪足掻きのような考えを捨てきれずにいる嵯峨野を、松田は視線で「諦めろ」と突き放してくる。
「……後はこちらで引き受けますので」
嵯峨野は内心で絶望感を覚えながらも、言葉には滲ませないように高浪を気遣った。高浪は全てを吐き出してようやく安堵したのか、糸が切れたように両目から涙を流した。
「おい、高浪っ! 大丈夫か」
そこに、住人への聞き込みをしていたらしい持田が戻ってきた。放心状態で静かに涙を流す高浪を目にして、慌てて近付いてくる。現場を高浪に任せてしまった罪悪感があるのか、持田は悲痛な表情を浮かべていた。
「あんたが持田か」
「あ、はい。どうも……」
「しっかり支えてやれ。今はそれが、お前にとっての大事な仕事だ」
後は任せたというように、松田は持田の肩をそっと叩いた。持田は微かに声を震わせながら「はい」と答える。
異常増殖事件の禍々しいほどの影響力に、嵯峨野は唇を噛み締める。被害者だけではない。早く解決しなければ、関わった人間全てが深い傷を負っていく。
嵯峨野は高浪と持田の様子を気にしながらも、松田に名前を呼ばれて気持ちを切り替えた。エレベーターに乗り込み、事件現場である七階に向かう。
事件概要について松田と話したかったが、エレベーターの中まで腐臭が満ちていた。とてもではないが口を開ける状態ではなく、嵯峨野も松田も咳き込みながらハンカチで口元を覆う。
五分も乗っていないはずなのに永遠のような時間を感じ、ようやくエレベーターが七階に到着した。密室から出た瞬間に風が頬を撫で、嵯峨野はようやく生きた心地がしてため息を吐く。
「はぁ……。松田さん、俺もう気が重いっす」
「馬鹿たれ、まだ現場にも入ってないだろうが。気合い入れろ!」
叱りつけるような声とともに背中を叩かれ、嵯峨野は思わず低く呻く。
「お。マツさん、嵯峨野くん! お疲れさん」
騒がしい声に気付いたのか、ちょうど玄関から出てきた男が二人に声をかけた。
「ノム、お疲れ」
「野村さん、お疲れッス」
鑑識員の野村光男だ。年齢は松田より二つほど下だが、五十代のベテラン職員だった。嵯峨野は礼儀正しくお辞儀をして、野村に挨拶をする。
「どうだ、状況は」
「どうもこうも。ま、予想通りだよ」
「だとよ、嵯峨野」
「うぅ……」
「ははっ。まぁ惨い現場であることは確かだからな」
「吐くなよ」
松田に釘を刺され、嵯峨野は口の中に溢れる唾液を強引に飲み込む。
「だっ、大丈夫ですよぉ」
だが思いのほか弱々しい声が出てしまい、松田は呆れたように鼻を鳴らす。
「ま、いつまでもここに居てもしょうがないだろ。ほら、マスク」
「おう、悪いな」
「ありがとうございます」
野村からマスクを受け取って、嵯峨野は勢い良く息を吐く。マスクがあっても気休めにしかならないが、ハンカチ一枚よりはマシだろう。
「仏さんに失礼のないようにな」
「――はい」
松田の言葉に身を引き締め、嵯峨野は事件現場となった室内に足を踏み入れた。
