相模国風土記を訪ねる、小倉村、葉山島村
もう何度も渡っている小倉橋で有名な相模原市緑区小倉、嘗ての相模国津久井県小倉村ですが、

風土記によれば、
"北条氏割拠の頃は、領せし者の姓名を伝えず、役帳に当村、根小屋村、葉山島村の三村を載せず"
となっていて、家康江戸入府以前は、領主がいたわけではなかった、つまり、自治区だったのか、ということで、これは興味深い、と、exploreしてみることにしました。これまで何度も通り過ぎてはいますが、じっくりと、見て回ることはしていなかったですし。
しかし、根小屋村は津久井城がありましたし、風土記によれば、元は太井村一村だったのを、津久井城築城以降、城下町 = 根小屋が出来て、根小屋村が独立したとあり、また、"北条氏割拠の頃は、内藤左近将監景定、再び津久井城を経営してこの地に居れり" とも書いてあるので、村民の自治区ではなかったことになり、今回は外します。
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ということで小倉村です。
まず、街道の記述を見てみると、
"村中に一條の道係れり、北上川尻村より来たり、西根小屋村に達す。村内をかかること凡そ十町。"
とあります。

更に、相模川の説明の中でも、
"渡船場あり、上川尻村に達す、これを小倉の渡しと呼ぶ。即ち、小倉村の持ちなり。(中略) 岸に繋がる船も渡船の外は通船、厚木及び須賀浦に達す。"・・・


・・・と、あります。
またここは風土記に、
"相模川の渡津多しと言えども、小倉の渡しの如きは少なし。いと打ち開かれたる場所にて、北岸には明王坂、明王滝の佳景あり。南岸には、小倉の里、小倉山の地形を眺み麗して中流の一水渺々として素練を牽くが如く"



と、褒めちぎっています。確かに、今でも風光明媚ですね。
さぁでは風土記に沿って見ていきたいと思います。
まずは八幡神社です。

他資料では、津久井城の東塁守護として1688年に創建、とありましたが、1688年だと津久井城は廃城になってますから、どうなんでしょうか。。。
八幡神社の参道を逆に行き、k510長竹川尻線を渡って、7/11に下る道を行きます。実はこの道が、小倉の渡しの小倉側渡し場と、小倉村中心部、その先の津久井県各集落とを結ぶ道なのです。今も残っています。

尾崎坂を下り切り、k511太井上依智線を越えた先の道は、リニア工事で通行止でした。小倉の渡し小倉村側渡し場に行きたかったのですが。
先を行きましょう、串川を渡って直ぐ、地蔵堂です。

そしてその東光寺

"東光寺、医王山と号す、臨済宗。青山村光明寺末、開山華渓春延徳元年1489九月七日寂、本尊薬師。
西光寺、極楽山と号す、同末、開山真永建。長久四年1043八月朔日化。開基西光寺殿前四品小倉宝大庵主。本尊阿弥陀。
常照寺、普春山と号す、同末、開山巨硯仙、天文元年1532七月朔日化。本尊釈迦。"
はい、どれも、開山僧の卒年が古いですね。小倉村は、領するに値しなかったのではなく、むしろ、古くから開かれていた歴史ある村であることが分かります。
ということで、小倉村は、決して陸の孤島ではなく、逆に、水陸両方の交通の要衝と言える程で、且つ、風光明媚なのに、何故、ここを領したがらなかったのでしょうか。
そしてこれを見て下さい。

向かって左は三つ鱗、北条ですね。そりゃあそうでしょう、関東を領したんですから。問題は右です。丸に三引き。三浦です。小倉村、三浦と言えば津久井城です。三浦義澄の次男、三浦義明の弟、津久井次郎義行に始まる津久井氏が、津久井城を築城したとの伝承があります。風土記にも載ってますから、江戸期からその伝承はあったのです。しかし近年は伝承の域を出ないとも言われています。そう言えば、津久井次郎義行の館近くにも東光寺がありましたが、何か、関係しているのでしょうか。ロマンです。
続きます。観音堂です。

グーグルマップでは観音堂ですが、現地案内では、元々この辺りに、西光寺鎮守の半僧坊と常照寺があったが、圏央道建設に伴ってここに移転したとあります。つまり、風土記に載る観音堂ではないということでしょうか。観音様はおられますが。
そしてこれが最後、

ということで、ここも東光寺持ち。三寺の内、特に東光寺に勢力があったのですね。
この先、小倉村は続きますが、集落はありません。一本点線徒歩道が、崖の際にあるだけ。その道は葉山島村に続いています。


そして、その下倉から先も、

現代の地理院地図を見ていただくと、川沿いにk511太井上依智線が通ってますが、古地図では、一段西、山裾に一旦上がっているのが分かります。地理院地図でも、長点線で道が残っています。
ですから、もう下倉辺りから葉山島村なのですが、小倉村から葉山島村へは、崖沿いで、いつ、相模川の氾濫に遭うか知れない不安定な道を行き、更に、相模川が崖に迫っている為、道に出来る平地部分が全く無く、一旦、山に上がってまた下らなければならない、過酷な道筋だったことが分かります。

葉山島村の風土記の記述でも、
"只小径一條、三増村に達するの外、他の往来無し。西方に接する小倉村境の如きは、亘峰険阻、或は盤巌重畳して行路難し、或は巌に架けし、或は谷を◯し、離屋接◯せり。村民の生計易からざること推して知るべし。"
と、書いてありました。いやはやこちらは、小倉村とは打って変わって、陸の孤島です。
しかし、渡しはありました。


対岸の大島村側にも行ってみました。なんと!河岸段丘から渡し場への道が残っていました。


ここに渡しがあった理由ですが、古地図を見て分かる通り、一旦山裾に上がってまた下らないといけない。つまり、ここはある意味、"行き止まり" なのです。だから、対岸に渡らざるを得ないと、そういうことでしょう。大島村に行きたかったからここで渡ったわけではない、ということです。
先を行きます。葉山島村の藤木、中平の集落に入ります。
まず先程の長点線の旧道を逆からアプローチしてみます。

そして諏訪神社。

その直ぐ西、蓮葉寺。

陸の孤島の割には、室町初期に遡る古寺です。
また、迅速測図にはありませんが、その後の1896 - 1909の今昔マップには、蓮葉寺の前を流れる藤木川を遡る古道があって、牛松山を経由して三増に通ってますが、ゴルフ場の私道を通らなければならないようで、今回は回避しましょう。
そして三嶋神社。

東林寺の勢力が強かったようです。そしてその東林寺です。

こちらも古いですね。
k511太井上依智線は古道ではありません。一本西の、集落の中の古道を行きます。
そして、相生集落には風土記には掲載されていない金山神社。

金山神社ですか。葉山島村が意外にも早くから開かれていた原因かもしれません。
相生集落から坂を下ると下河原集落ですが、既述の風土記にもあった、ここから三増へ抜ける村道がありました。


少し先に嘗て東林寺の中にあった羽黒神社。

先程の三増へ抜ける村道、地理院地図を見ると羽黒神社の裏手から行けるようでしたが、現地ではこのように。断念して先を行きます。

現道は高田橋まで続いていますが、先程の迅速測図を見ると分かるのですが、村道は三増に抜け、葉山島村の道は村内の一本実線荷車道のみとなっています。下倉のみならず、藤木、中平、相生、下河原も陸の孤島だったのです。
ということは、そうです、渡しがありました。



この渡しですが、10年経つと、、、


しかし渡しは相模川次第です、陸路の状況を鑑みると、領するに値しない、そう、見られていた可能性があります。
風土記の一節です。
"村間には数條の渓流潺湲として寒々たる村落なり"
如何でしたでしょうか。
私は例えば甲州道中裏街道とか、関所抜け道とか、そういったのが何故か好きなのです。
家康江戸入府前、北条割拠の頃、領主がいなかった小倉村、根小屋村、葉山島村ですが、良く言えば村民による民主自治区、悪く言えば無法地帯、そんな、人間の表も裏も見えるような痕跡があれば、と、exploreしたのですが、小倉村は水陸両方の交通の要衝、根小屋村は津久井城の城下町でした。
残る葉山島村は、正に陸の孤島のように思われましたが、大島村、田名村との渡しと、三増へ抜ける村道がありました。
その三増村との交流ですが、大きく二つあったようです。一つは富士講です。三増を中心とした丸玉講があり、葉山島村も属していました。東林寺の裏の山は浅間山と言って、頂上には浅丸玉講が関与する浅間神社がありました。今は東林寺に移されています。

もう一つは三増の牛松山で実施されていた山遊びです。
「北東一帯に広がる三栗山では、毎年八十八夜(五月一・二日ごろ)に『山遊び』という民俗行事が行われ、多くの人々がその年の豊作を山の神に祈り、農繁期前の一日をここで清遊したものであった。
この行事は、三栗山にある通称「牛松山」と呼ばれている山頂の平地に『牛松」と呼ばれていた、牛が伏した姿に見える老松があり、ここに近郷近在の男女が集い、行われたものである。
戦中、出征して行く若者達が、共に青春との決別にし想いを込めて、酒食を持ち寄り山頂で楽しみながら一日を過ごしたことは、日露戦発開戦に伴い明治二十八年(1895)に始まったと言われる。
また、こうした慣習は若者達の貴重な社交の場であり、山を隔てた集落間での集団見合いの役割を果たしたとも言われる。」現地掲示より
牛松山へは、先程の三増へ抜ける村道と、時代が下っていますから、藤木の古道も使ったと思われます。共に、牛松山もある三増アルプス尾根筋に乗れますから。
最後に、今回は地元の方々にとても親切にして頂けました。
湘南寺、下倉から藤木への古道出口、東林寺で、色々とお話を聞かせて頂きました。本来は静かなところだと思うのですが、圏央道、リニアで相当、ダメージを受けておられるようですね。
