相模国風土記を訪ねる、三浦氏
相模国風土記を訪ねるシリーズで、三浦郡を実走しました。海と丘陵が本当に良かったです。
三浦郡の総説にある街道を中心に回りました。
三崎道、浦賀道東ルート、そして、街道が尾根筋、つまりやや内陸を行っているので、より海岸に近い荷車道も実走しました。
※浦賀道西ルートは、『道興が歩いた道、廻国雑記を辿る』で実走しています。
その中でも触れざるを得ませんでしたが、やはり、三浦郡と言えば三浦氏です。
ということで今回は、三浦氏の痕跡を辿るexploreとしたいと思います。

図右から左へ谷がありますが、これは平作川です。平作川を上流に遡ってほぼその終わり、源頭近く、図左上に、衣笠山とあって、城マーク(凸)もあります。三浦氏の本城、衣笠城です。
敵は、衣笠城までは比較的容易に川沿いの平地を来れるわけですが、衣笠城の背後、見切れていますが、もう山、山、山、分厚い山で、北、西からの攻撃からは守られている、と、言えます。
ですから平作川沿いのルートを守れば良いという、城には最高の立地であることが分かります。
ここで、三浦氏について改めて振り返りたいと思いますが、
平為通は前九年の役(1056)で源頼義に従い、その活躍によって相模国三浦の地を与えられ、三浦氏を名乗る。衣笠城を築城。
後三年の役(1083)では、三浦為通の子、三浦為次(為継)が、源八幡太郎義家に従い活躍
天養元年1144, 源義朝が、清大夫安行、三浦庄司平吉次(義継、為継嫡男), 男同吉明(三浦義明), 中村庄司宗平、和田太郎助弘等と大庭御厨に乱入
保元の乱(1156)では、三浦義明、義澄親子で源義朝に従い
続く平治の乱(1159)では、三浦義澄が参陣、源義朝は討死したが、三浦義澄は三浦に帰国
治承四年1180, 源頼朝が伊豆で挙兵、三浦一族は石橋山の戦いから三浦へ引き返す途中、平家方の畠山重忠と合戦となり、本城衣笠城を攻められ、当主三浦義明は討死、嫡男三浦義澄は安房へ向かい頼朝と合流、源頼朝が安房、上総、下総、武蔵と進み、鎌倉に戻って平家方を滅ぼした後は、三浦義澄は三浦介の名乗りを許された。
最後の石橋山の戦い、鎌倉幕府成立の頃からは、安定していましたから、三浦氏は、外敵から攻められるということはありませんでした。
が、それまでは、平治の乱の四年後、長寛元年(1163年)秋、三浦義明は長男杉本義宗を引き連れ安房国に出陣し、長狭常伴と合戦となって、その矢傷が原因で、杉本義宗は帰国後、杉本城内で亡くなっていることからも分かる通り、安房国の長狭氏が主な敵でした。

ですので正に平作川ルート、ここを押さえる。
更に、安房に向けて大きく口を開けている金田湾、実際ここは、時代は大きく下りますが、房総の里見氏が攻め込んできています。

そして最後は三浦半島西海岸でしょう。
逆に、地理的に見て、東海岸の優先順位は低いと思われます。
これを頭に入れながら、三浦義明と、その子義澄の代の城を見てみると、
平作川沿い、舟倉、吉井の辺りには三浦義明の弟、岡崎悪四郎義実の怒田城と、三浦義澄の弟、佐原十郎義連の佐原城
観音崎には義澄弟、多々良四郎義春の多々良城
金田湾津久井には三浦義明の弟、津久井次郎義行の津久井城
芦名には三浦義明の弟、芦名三郎為清の芦名城
荒崎には義澄弟長井五郎義季の長井城
衣笠城と、芦名城・長井城を結ぶラインの中間、太田和には義澄弟、大多和三郎義久の大多和城
が、配置されています。正に、結果は全て正しい。
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浦賀駅まで輪行、東浦賀から鴨居へ。早速この風景でした。

鴨居海岸に面した鴨居八幡神社は、三浦義澄弟多々良四郎義春が創建しました。

多々良四郎義春は、吾妻鏡には記載が無く、詳細は不明なようです。
鴨居八幡神社の西側、西徳寺の裏山には、中世の城の特徴である集合墳墓が発見されています。この辺りが多々良城跡と目されています。

ここ多々良には、多々良四郎義春と、郎党の石井三郎四郎兄弟が海賊退治をしたという伝承があります。この海賊というのは長狭氏だったのかもしれません。
来た道を戻って浦賀湾をグルっと回って西浦賀へ行き、浦賀道西ルートplanBで怒田城に向かいます。

怒田城は、畠山勢との衣笠合戦の際、和田義盛が当主三浦義明に対して、
"怒田の城は三方は石山高うして馬も人も通ひ難き悪所なり。一方は海口に道一つ開けたれば、善き兵200人有らば、たとひ、敵何万騎寄すとも、たやすく攻め落すべからず"
と進言した程、守りが強固な城でした。




来た道を少し戻って法善寺の前を通りニトリの裏から平作川に下り立ちます。平作川を渡って佐原城跡です。

三浦義澄の弟、佐原十郎義連の居城です。その、佐原十郎義連の墓が満願寺にあります。


佐原十郎義連と言えば、一ノ谷の戦いの鵯越えで、一番に崖を駆け下りたことで有名です。
さぁ、いよいよ衣笠城です。
まずは清雲寺

長治元年1104, 三浦義明父、三浦義継が、父三浦為継の供養の為、建立。

三浦為通―為継―義継―義明―義澄―義村ですから、最も古い三浦氏関連史跡となります。
そしてk27を挟んだ向かいには、三浦義澄の墓があります。

ここには和田義盛が三浦義澄や父杉本義宗の菩提寺として開いた薬王寺がありました。
そして満昌寺です。

1194年、頼朝の命で、衣笠合戦で討死した三浦義明を開基とし、開創されました。
境内奥には三浦義明の墓もあります。

そして、衣笠城の城趾には大善寺。

天平元年729年、行基が自ら彫った不動明王を祀る不動堂と、蔵王権現を祀る蔵王権現社を開きましたが、その別当が大善寺です。
このお不動さんは、後三年の役の時、三浦為継を敵の矢から守ったとの伝承が残ります。
ですから衣笠城は、元々、行基が開いた不動堂、蔵王権現社、大善寺があった、宗教的聖地でした。

先を行きます、衣笠インター入口交差点を南西にk26を行きます。
この道沿いには金子十郎家忠陣屋道標石碑があります。

衣笠合戦で、畠山重忠勢と共にした武蔵国村山党金子十郎家忠は、ここに陣屋を置きました。
逆に言えば、このことから、畠山重忠軍が、どのような進軍ルートで衣笠城を襲ったのか分かりますね。
衣笠城の背後は分厚い山、山、山ですから、武蔵国から鎌倉街道で鎌倉、鎌倉から三崎道で林、林から現代のk26で平作川沿いに出て、衣笠城を攻め込んだと思われます。
ここで、冒頭の迅速測図を見て下さい。赤点を打ってあります。衣笠城へのルートは既述のように平作川沿いをメインに、もう一つはこの赤点を打った、迅速測図で両実線の郡道クラスの大道だったと思われます。北へ抜ける道は半島東側なので優先順位は低かったでしょう。南の方、正にここに金子十郎家忠の陣屋があったのです。
k26から通研通りを金田湾に向かいます。この道は三浦半島の断層に沿った道となります。よって行き来し易い道です。金田湾から衣笠城へ進軍するルートと言えるでしょう。ここに津久井城を配置したわけです。

津久井城は、三浦義継の次男であり、三浦義明の弟だった津久井次郎義行の城でした。

津久井次郎義行の名は吾妻鏡で石橋山の戦いに見ることができます。しかしその後の衣笠合戦では、認められません。
兄三浦義明と一つ違いだった津久井次郎義行、兄三浦義明と共に衣笠城落城と共に果たか、あるいは一世代後の三浦義澄らと安房に逃げたのか。
八十代後半という年齢から、兄三浦義明と共に衣笠城で果てたのではないかと思います。
先を行きます、丘陵を通って長井に向かいます。

長井には、長井城がありました。

長井城は、三浦義澄の弟、長井五郎義季の館跡とされています。
地元の伝承では、三浦義澄の館跡ともされているようです。
確かに、長徳寺の伝承には、そのように書かれています。

一方で、長井小から長徳寺にかけての坂は五郎坂と言い、長井五郎義季の館はむしろこちらにあったのでは、とも思わせます。

長井から三崎道へ行き北上、小田和川を渡ったら右折して小田和川を遡上すると、海風会いちばん星がある小山が、三浦義澄の弟、大多和三郎義久の居城、大多和城址となります。

ここ太田和は、先述の金子十郎家忠陣屋があるルート上にあります。つまり、長井城から衣笠城への進軍ルートの、中間地点の押さえなのです。
三崎道に戻って芦名に行くと、三浦義明の弟、芦名三郎為清が築城した芦名城がありました。

十二所神社、芦名城の佐原十郎義連が、城鎮守として創建と伝わります。このことから、芦名城は、芦名三郎為清の後、佐原十郎義連の城となった可能性があります。
ここも、長井城と同じく、三浦半島西海岸の押さえの城ということになります。
exploreこれにて完了です。帰りは片瀬江ノ島駅まで走り、我が小田急で輪行で帰りました。

こうして俯瞰すると三浦一族の勢力範囲がよく分かります。※鎌倉幕府が開かれるまでの、三浦為通―為継―義継―義明―義澄までの世代が対象
衣笠より北は含ませていません。そして三崎も。何か理由があるのでしょうか。
三崎と言えば三浦郡総鎮守海南神社ですが、三浦為継が三浦一族の祈願所としています。また、三浦義明は、石橋山の戦いの際、参詣し、神事狐合で源平の争覇を占ったと言います。

何か、聖地的意味合いがあったのでしょうか。
尚、義澄の嫡男義村の世代以降は、南下浦に義村が開いた福寿寺、三戸に三戸十郎友澄、和田に和田義盛の居館が出来ています。
