相模国風土記を訪ねる、三崎道のより海岸近くの荷車道、三崎、諸磯、小網代、三戸、和田、長井
前回、
で、相模国風土記三浦郡図説にある、
半島東を南北に走り浦賀に至る浦賀道東ルート
半島西を南北に走り三崎に至る三崎道、又は鎌倉道
起点は2の三崎道と同じで、半島を北西から南東に斜めに走る浦賀道西ルート、又はこちらも鎌倉道
三崎と浦賀を結ぶ道
の中の4について、村と村を結ぶ村道よりも更に海に近い、迅速測図で一本実線 = 荷車道をexploreしました。
今回はその続き、2の三崎道の荷車道をexploreします。
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京急三崎口駅まで輪行、しかし、三崎口駅は三崎からは随分と離れています。三崎口駅は旧和田郷下宮田村にあり、三崎は三崎郷で、郷レベルが違うのです。
だから、苦肉の策で、三崎 "口" なのでしょうが、一説によると、三崎の皆さんが、駅を拒んだ、駅を利用し三崎に新たに住む人を、観光等で訪れる人々を拒んだ結果だということですが、果たしてそうでしょうか。
三崎にある三浦郡総鎮守海南神社は、藤原資盈が御祭神ですが、この藤原資盈、大宰府から船でここ三崎に辿り着いた人です。三崎の人たちは、外部の人を受け入れ、親しくし、祠を建て神として祀る、それ程までに寛容な歴史があるのです。

さて、三崎の三崎道の西側を行きます。

まずは、向井兵庫頭正綱とその嫡男向井将監忠勝の墓参りです。

前々回も触れましたが、1590年の家康江戸入府時、三崎は水軍の根拠地となり、船手奉行として、向井、千賀、間宮、小浜の四氏が配されましたが、1615年、大阪夏の陣で徳川の世になると、水軍の要は薄くなり、向井氏のみとなって、1624年には、江戸湾出入りの船の番所、三崎番所となり、向井氏はその奉行となりました。その後、1648年には、天領となった三浦郡の代官にもなっています。
江戸期の、特に初期の、三浦郡の中心人物と言って良い人です。
向井一族のお墓の直ぐ隣、同じ旧二町谷村にある神明社は、伊勢から流れ着いた人達によって勧請されました。

海南神社然り、二町谷神明社然りです。外洋に面した半島や岬はそういう所、玄関なんです。
荷車道ですから隣村に通じていません。一旦三崎道に上がり、ローソンがある丁字路から、きれいに尾根に乗っている荷車道で旧諸磯村を貫通し、岬に向かいます。ここに、諸磯神明社があります。

建久・正治年間(1190~1200年), 二町谷神明社同様、伊勢から流れてきた人たちによって、故郷伊勢神宮を勧請したことが始まりです。
前回の浦賀、三崎間もそうですが、
大道から一段海側は神明社が多いです。これは、伊勢、熊野の荘園が東国にも多数存在していたことから、貢物が東国から伊勢、熊野に海運で運ばれたのをベースに、次第に商売としての物品も運ばれるようになり、人々の交流も盛んになって、中には東国に移住する者も出たことに起因していると思います。

来た道を戻り三崎道に乗って、折り返すように旧小網代村に向かいます。
何故、そのまま北に行かないか。

ご覧の通りのリアス式海岸で、十字マークの辺りを北上しようにも、アップダウンが酷くて、且つ、等高線を見ればこれはもう崖レベルですから、事実上、不可能であることが分かります。
さて、改めて、小網代村に向かいますが、その途中に、なもた坂があります。


場所はここです。

そして、なもた坂を上り切ると、潮音寺真光院があります。

三浦道寸、三浦荒次郎義意が深く信仰していました。ここには、幕末に作られた三浦道寸、義意親子の座像があります。
迅速測図を見ると、集落があったように見える、なもた坂の谷沿いにある荷車道を進むと、

後で訪れる永昌寺の子院、霊照院があります。

風土記によれば、霊照とは三浦荒次郎義意の室の法名です。ここは、三浦荒次郎義意室の追福を願って建立されたとのこと。ここも、三浦道寸・義意親子に縁の寺でした。
そのまま尾根道を行き、



を訪問です。
戻って小網代村の中心地に下ります。途中に、三浦道寸開基の永昌寺。


そして集落の中には、三浦道寸が開いたとされる海蔵寺と、道寸が社殿修理の白髭神社がありました。


そして白髭さんの門前のこの風景、富士山が見えました。ここ、最高ですね。

ということで、小網代は、三浦氏最後の当主、三浦道寸の濃度が大変濃い村でした。

再び三崎道に戻り、折り返すように三戸へと向かいます。

迅速測図を見ると、道が不自然に切れています。

しかし、小網代側を見ると渡船があるのですね。海の道が繋がっていました。先程の、"小網代湾越しに対岸三戸を望む、近いですね。" という写真が小網代側ですね。
先端まで進み、折り返します。迅速測図を見ると海岸まで道があるようですが、今は無いようです。
暫く行くと、光照寺です。

風土記によれば、古僧空念、三戸某の臣なり、故あって出家す。村内に草庵を結び庄司院と号しここに住す・・・この地に一宇を建て光照寺と号し庄司院の号を引いて院名となし・・・永享二年(1430)三月卒す、とあります。
三浦氏は、初代為継、義継、義明、義澄、三浦平六義村と続きますが、義村の弟が三戸友澄で、承久の乱では、兄で当主の義村と別れ、朝廷側につき、戦死しますが、この時、ここ三戸の内田次郎、庄司三郎、海戸五郎を引き連れていました。戦後、この三人は、友澄の首を故郷三戸に持ち帰り、葬ったといいます。

光照寺の空念は、庄司三郎の子孫ではないでしょうか。

三戸の北、下宮田から和田へは入り江がありましたから今のカインズ、r134辺りまで戻って海側に折り返します。

折り返した所は和田村矢作です。

三浦古尋録によれば、矢作は和田義盛の馬場跡で、他の一説にも、和田義盛が矢を作らせた所ということです。

次の長井に向かうには、谷を越えなければならず、迅速測図では荷車道が通ってますが、今は鬱蒼とした森になっていて柵もあり、やはり迂回が必要です。
結果、和田村和田里を通りますがここに和田義盛の碑がありました。

風土記には、義盛塚が取り上げられていて、"三崎道の東にあり、和田義盛の墓なりといえど由来は伝えず" と、ありますから、ここではないですね。ここは三崎道の西で、和田の里鎮守の牛頭天王が鎮座しています。
更に、r134の向こう側に、天養院があります。

天養院自体は、風土記によれば、和田義盛に縁が無いですが、末の廃寺となった養長院の本尊毘沙門像は、和田合戦の際、義盛の代わりに矢を受けたということで矢受けの像と呼ばれていたということです。
また、やはり末で廃寺の安楽寺は和田義盛宅鬼門鎮護の為建立とのこと。本尊薬師は今天養院にあります。
折り返して和田義盛館跡

ここ和田は和田義盛の根拠地ですから、和田義盛の史跡が多いです。
先端まで行きます、この先端部にも、迅速測図で集落がありました。漁村でしょうか。

丘陵に上がり、長井に向かいます。

そのまま荒崎へと下るとここは、義経と運命を共にした鈴木三郎重家の長男、鈴木家長が住んだ集落です。


熊野神社の写真は撮り忘れ、訪問したんですけどね。

海岸沿いに進み、長徳寺がある集落です。迅速測図で道はありませんが、ここは崖ではなく浜で集落もありましたし、当時も歩いたでしょう。

そして長徳寺です。

風土記によれば、当寺は元行基菩薩開闢の地にして古は天台宗なり。その頃不動を本尊とせしと云う。当所の領主三浦義澄この像を信崇し城内に移祀り、当寺には阿弥陀の像を安す。
と、古寺です。
、、、佐島に向かおうと走り出し、軽い上りを行くと、ここで、後輪から、バッという音が。スポークが折れてしまいました。仕方無く中断です。三崎口駅まで、2.5km押して帰りましたとさ。
如何でしたでしょうか。
毎度言いますが、本当にここ三浦は海、丘陵が美しいですね。
また涼しいです。この日は都心32度程でしたが、三浦は28度で、風が涼しいですよ、クーラー28度設定のような体感です。
尚、スポークは当日ツバサに持ち込み日曜日には戻ってきました。
