相模国風土記を訪ねる、甲州道新旧
足柄上郡の街道の記述に甲州道があります。
"脇往還二條を通す、一は小田原宿より、甲駿信三国への往來にて甲州道と称す。按ずるに、足柄下郡早川村、海藏寺藏、永祿十一年1568七月、北條氏より伝馬の事を下知せし文書に、宛所小田原より甲府迄、関本透宿中とあるは、此道の事なり、透の字は即ち通の字の義なるべし。足柄下郡北ノ久保村より郡中沼田村に入、矢倉澤村より駿州駿東郡竹下村に達す、道程四里許、幅二間。
又千津島村の伝に、往昔は足柄下郡国府津村より西大友村に至り、夫より郡中下大井・金子・金手等の村を経て、十文字を渡り、吉田島・延澤・千津島・怒田・苅野等の村々に掛り、矢倉澤御関所前にて、今の道に合す、是を甲州古道と云。"
甲州道には新旧があって、第一段落、新の方は小田原が起点、第二段落、旧の方は国府津が起点で、起点によって自ずと道筋も記述の様に定まったように思います。
国府津はその名の通り、国府の津 = 湊、です。相模国国府が、国府本郷にあった時の公式な湊ということですから、歴史は深いです。
一方小田原は、
十六夜日記、"弘安二年1279十月二十八日、伊豆の国府を出でて箱根路にかかる。今だ夜深かりければ、(歌略)、足柄山は道遠しとて箱根路に掛かるなりけり。(歌略)、いとさかしき山を下る。人の足も留どまり難し、湯坂と言うなる。辛うじて越え果てたれば、また麓に早川と言う河あり、まことに早し。木の多く流るるを如何にと問へば、あまの藻塩木を浦へ出さんとて流すなり、と言う。(歌略)、湯坂より浦に出でて日暮れかかるに尚泊まるべき所遠し。伊豆の大島まで見渡さるる海面をいずことかいふと問へば知りたる人も無し。あまの家のみぞある。あまの住むその里の名も白浪の寄する渚に宿やからまし。まりこ川と言ふ川をいと暗くてたどり渡る。今宵は酒匂と言ふ所に留まる。明日は鎌倉へ入るべしと言ふなり。"
伊豆を出て、箱根湯坂を越えて早川を渡って着いた浦は小田原でしょう。誰に尋ねてもここがどこだか分からず、宿も無かったから、まりこ川 = 酒匂川を渡って酒匂宿に泊まったとありますから、この頃は、少なくとも街道の起点となるような場所ではなかったことになります。
その後、大森氏が、康正二年1456に小田原城を築いていて、更にその後、北条が小田原城に入ったのは1500年頃ですから、小田原起点の甲州新道が成立したのはこの頃でしょう。逆に言えば、国府津起点の甲州旧道はその前ということになります。
そして、十六夜日記では、小田原に宿が無かったので、酒匂宿に泊まっています。
源平盛衰記、"治承四年1180八月二十五日、和田義盛、三百餘騎にて、鎌倉通を腰越・稲村・八松原・大磯・小磯打過て、二日路を一日に、酒匂の宿に着けるが、丸子川の洪水いまだ減ぜざれば、渡すこと不叶して、宿の西の外れ、八木下と云ふ所に陣をとる。"
源平盛衰記にも酒匂宿が記載されています。
まとめますと、北条前は国府津、あるいは酒匂が街道の起点に、北条後は小田原が起点になって、今回の甲州道新旧が成立したのだと思われます。
ということで、exploreしたいと思います。
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往路は旧にしました。
小田原駅まで輪行、r1を国府津まで戻ります。酒匂川を渡ると酒匂宿です。

国府津に到着、r1とk72の交差点が起点です。ここからの道筋ですが、風土記、矢作村の街道の記述に、
"村内四條の往還通ぜり、富士道は村の中程を通ず。この道、西に分かれて小田原道となり、東に分かれて大山道となる。酒匂道は酒匂堰崖に有り、十文字往来とも云う。以上三路各幅二間。巡礼道は南境を通ず幅五尺。"
がありました。

画面左上から右下に走る水路が酒匂堰です。その右岸に、十字マークより北は一本実線荷車道、南は片実線片点線村道が走ってますがこれが酒匂道です。南に行くと先程の東海道との丁字路に至ります。
風土記の記述を見るとそのものズバリの様に思えますが、酒匂道は酒匂堰が前提でしょう。酒匂堰は慶長年間1596 - 1615の成立ですから、甲州古道とは出来ない可能性が高いです。
一方、画面縦方向真ん中右、国府津を起点に中里を経由しここに至り北西に抜けていく両実線の大道は、上図に入り切ってませんが、
国府津→中里→矢作→成田→西大友→下大井→上大井→金子→金手→十文字の渡し
と続いています。冒頭の風土記既述の通り。
これですね、甲州古道は。
では実走します。
まず国府津から中里に向かいますが、早速富士山が大きく見えていますが、家、看板、何より電線が多く、なかなか撮影ポイントがありません。先程の酒匂道との交差点も過ぎ、矢作、成田、西大友、下大井と行って、上大井の手前で漸く

そして上大井に。三嶋神社に参拝します。

風土記によれば、
"三島社、古は大井宮と唱ふ。社地古木鬱蒼たり、祭神大山祇命、木像四軀を置く。當村及び下大井、西大井、金子、都て四村の鎮守なり。例祭九月廿九日。境内に二月廿八日の雛の市、十二月廿二日年の市立り。"
風土記に記載はありませんが、大井町史によれば、"由緒書によると三嶋大明神は、治承四年1180に源頼朝によって建立されたと伝えられている。" ということです。
この先、金子、金手と進んで、三角土手に至ります。

現地の松田町教育委員会の掲示によれば、元文年間1736 - 41は、ここが、十文字の渡しでした。
また、前回の奥山家道で取り上げた田中丘隈による文明堤ですが、
それによって水害は下流に移動し、ここ酒匂川と川音川合流点 = 十文字で頻発した為、田中丘隈は、享保十二年1727、ここに十文字堤を築きました。しかし、その十文字堤も、享保十六年1731、決壊し、享保十九年1734、田中丘隈と共に文明堤築堤に従事した箕笠之助が、この三角土手を築いたのです。
宝永の噴火以来、この地域は本当に水害に悩まされたのですね。
十文字橋で酒匂川を渡ると吉田島村です。ここに、吉田神社があります。

風土記によれば、"三島社、村の鎮守、牛頭天王を相殿とす。例祭十一月中酉日、慶長十二年の棟札あり。村民持ち。"
また、ここも、頼朝が三島から西相模に勧請した三嶋神社八社の内の一つとなります。
先を行きます、延沢、千津島と足柄平野を進み、怒田で河岸段丘に上がり、先日exploreしたばかりの川村・谷ヶ関所道と交差し突き抜け、洞川の谷に下り再び上がりますがここに、平等寺、朝日観音堂、長尾天満宮があります。


と、こんな所に、と言っては失礼ですが、中々の古寺です。


この辺りには3本の尾根を走る古道があり、苅野で合流するのです。

一番南の道筋が今回のテーマである甲州古道、真ん中が長尾天満宮旧地があった道筋です。上記長尾天満宮旧地の現地掲示にも記載がありますが、これらは全て足柄古道、足柄峠に向かう古道だったのではないでしょうか。だからこんな山奥に、と言っては失礼ですが、古寺、古社があるのだと思います。
この長尾天満宮については、大森八郎実頼が、文明年間1469 - 1487に創建したとの伝承があります。冒頭既述の様に、大森氏が小田原城を築いた1456年から十数年後ですね。
この大森八郎実頼、父が大森氏頼、弟が藤頼で、氏頼→実頼→藤頼と、大森家当主なのですが、北条早雲に小田原城を獲られたのは藤頼です。
先を行きます、洞川支流の谷に下り再び上がりして、漸く尾根道です。この道は甲州新道と平行に走る道で、新道が狩川沿いの谷を行くのに対し、尾根を行くのです。だから、


暫く行くと、先程上った長尾天満宮の旧地があった尾根道と合流します。

更に進み、今度は上怒田、洞川の北側尾根を進んできた道が合流してきますがその手前、

そして古道同士の交差点には庚申塔道標がありました。



更に進むと今度は左から、矢倉沢往還が合流してきます。

よってここから先は甲州古道であり且つ矢倉沢往還でもある道筋となります。



そしてこの先、矢倉沢の関所前で、甲州新道と合流します。冒頭の風土記記述の通りに。


既述の様に、ここから先は矢倉沢往還です。矢倉沢往還として、別の機会にexploreしたいと思います。ということで新道で折り返します。
折り返して苅野岩村ですが、割と直ぐ、法妙堂があります。

日蓮が、弘安五年1282九月十五日、身延山から江戸の本門寺へ向かう時、ここで南無妙法蓮華経のお題目を書き、村人はそれを石に彫って、以降、信仰したと言います。
先を行きます、足柄神社です。

風土記によれば、
"矢倉明神社、古は足柄峠に鎮座し、足柄明神と号せり。景行天皇の御宇日本武尊東征の帰路、此神白鹿に化顕せし事、古事記に見ゆ。建武二年1335十二月足利尊氏、新田義貞等と、竹ノ下合戦の時、新田方は、足柄明神の南なる原野に陣を設けし事、梅松論に見えたり。其後、矢倉ヶ嶽に遷座せしかば、是より今の神号を称す。日域洞上緒祖伝に、矢倉澤廟と見えたれば、應永1394 - 1428の頃は、既に矢倉澤村に移せしなるべし、後又神託に任せ、当所に移せしかど、神号は旧に因る。祭神は瓊瓊杵尊、神体木像を置、残本古風土記、及び、神社考、国名風土記等に垂迹の事跡を載たれど、皆真を取にたらず、相殿に神明・浅間の二座を祀る、郡中十八村(當村及苅野一色・弘西寺・雨坪・福泉・飯澤・猿山・狩野・中沼・炭焼所・塚原・駒形新宿・和田河原・關本・怒田・小市・内山・平山等の村々なり)の鎮守なり、例祭正月十八日。"
ということで、元々は足柄峠にあり、1335年の竹の下の戦い時にはまだそこにあって、その後、矢倉岳山頂に移るも、1394 - 1428の頃は麓の矢倉沢村に遷座し、その後に現在地に移っています。現在地への遷座については、鎌倉末期という説もあって、古社、大社です。
先を行きます、弘西寺村、村名の起こり、弘済寺です。

風土記によれば、
"本村にあり、下同、法雨山金剛幢院と号す、古義眞言宗。應永十六年1409僧栄海中興す。本尊不動。"
ということでここも古寺ですね。
また、足柄神社の記述に、
"矢倉明神社別当弘済寺、弘西寺村にあり、当社進退の事により、元文の頃、神主と争論に及び、宝暦八年1758領主の裁許にて、神主別当の兩進退となれり、されど社頭に付ての事は、総て神主進退し、別当は本地堂のみを、兼管する事とはなれり。"
ということで、若干揉めた形跡があるものの、足柄神社の別当でした。
隣の福泉村には、足柄神社の后神、一の御前社、二の御前社があります。


"二の御前社、年々正月十八日、苅野岩村矢倉明神(是、当村の鎮守なり。即ちこの両社(一の御前社とこの二の御前社のこと)は矢倉明神の后神なりと伝う。)の神輿を◯来たりて両社の地に居へ法楽をなす。"
雨坪村に入りますと、弘行寺があります。

風土記によれば、
"関本山と号す、法華宗。弘安五年1282九月十五日、日蓮甲州身延山より、武州池上へ赴く時、少時当所村民の家に寓宿あり(按ずるに、注畫賛に、九月八日、出身延云々、十五日関本、十八日入武蔵國千束郷池上村とあり)、当寺其頃迄は、不動堂なりしが、日蓮爰に止宿の際、興立して一寺となし、地名に因て関本山と唱へ、弘安中の起立故弘行寺と称す。故に日蓮を開山とす、中興日怡。本尊三寶諸尊を置、又不動を安ぜり(不動は往昔不動堂に安ぜし本尊なりと云)。"
と、先程の法妙堂に続く、日蓮関連史跡です。
ここで、

この地図を見て頂きたいのですが、黒が甲州古道、茶が甲州新道、赤が矢倉沢往還です。ですから、右から矢倉沢往還が甲州新道に合流(ここが和田河原)してから左の赤線までは、矢倉沢往還と甲州新道が、重なっているのです。
さて、甲州古道は古い道です。矢倉沢往還も同様。ですから、甲州新道も、和田河原から足柄神社までは古い道なのです。
問題は、足柄神社から西、甲州古道と新道が合流する所までです。しかしこの区間に、弘行寺との関連でその確からしさも証明された法妙堂があったのです。ということは、この区間も甲州古道、矢倉沢往還と同じく古い道だということになります。
ということで、甲州新道の新道たる所以は、元々あった和田河原以降の道に、小田原から道を付けた、と、こういうことなのではないでしょうか。
関本村に入ります。ここは、風土記によれば、
"足柄関の麓なりし故、この称ありしと言う。按ずるに、これは全く彼の関、塞ぐをすえられしより後の唱称にて、往古の称は古事記景行帝の條に日本武尊東征の帰路、足柄の坂本に至るとあるによるに、この地もなえて坂本といいけるなるべし。延喜兵部式諸国駅馬の数を言える條に、当国駅馬坂本二十四匹とあるものも同玄葉式に足柄坂の名見えたるを併せ考えれば顕然たる当所の旧名にして他を見むへきに非ず。且つ古くから郵駅たりし證あらばこの地をいえること論すべからず。"
と、古代の宿駅でした。

その後、和田河原、駒形新宿と進み、塚原には、長尾天満宮を創建した大森実頼が開創した長泉院があります。


風土記によれば、
"玉峯山と號す、曹洞宗。文明二年1470の起立にて、開山は大寧、開基は大森八郎実頼なり。按ずるに岩原村古城略記に據れば、往昔大森寄栖庵(大森氏頼のこと。嫡男実頼に家督を譲った後、この名を名乗る。)、僧實山を請て岩原村薬師堂の地に一寺を起立し、清泉院と號す。文明二年1470大森実頼、当所廃寺蹟を開き此に移して再建し、今の山院號に改むと云う。"
隣の岩原には頼朝創建の岩原八幡神社があります。

風土記によれば、
"八幡宮明暦三年の棟札に、源賴朝建立とあり、後大森安藝守某再建し、又北條早雲修理を加へし由記せり、里正が蔵する古城略記に、城蹟の東北にありと記せしは則當社なり、記中に載する城蹟圖に出す所も今の地に合へり、幣殿・拝殿あり、例祭二月十五日當村及塚原村の鎮守とす、村持。"
ということで、既述の様に頼朝創建で、大森氏の城、岩原城の城内と言っても良いでしょう、に、ありました。先程の長泉院の旧地でもあります。
大森氏は小田原進出以降、積極的に領地経営していたようです。

この後、沼田、北ノ窪、府川、穴部、多古、井細田と進み、小田原城下に入って、甲州道新旧、explore完了です。
如何でしたでしょうか。
甲州道の新旧、単純に、大森氏や北条が、小田原を開発してから出来たのが新道ということでしたね。
北条の前は鎌倉の時代で、鎌倉からの道筋だと古東海道で国府津から甲州古道で足柄峠越え、あるいは酒匂宿から、あるいは小田原を通過し箱根湯坂越えというルートがあったことになります。
バリエーションルートとしては、二宮から川勾神社、六本松峠、曽我原から曽我道、上大井から甲州古道で足柄峠というのもあったと思います。
