訂正と捕捉
ご無沙汰しております。
書く事から離れているうちに夏が来てしまいました。ラーマクリシュナについての記事も途中ですが、取り急ぎこれまでの記事の訂正と捕捉をしておきます。
訂正1
【アサンプラジュニャータ系(対象なし)】:対象そのものが消え、意識が純粋に輝く段階。
nirvikalpa-samādhi(無分別三昧/無想三昧)すべての対象を超えて、純粋意識のみが残る
asaṃprajñāta-samādhi(無種子三昧)
認識作用も対象も完全に止滅し、解脱に直結する境地
「nirvikalpa-samādhi」
ヨーガスートラのアサンプラジュニャータ系は、asaṃprajñāta-samādhiのみです。
ニルヴィカルパ·サマーディは後のヴェーダーンタ、或いはシヴァ派での概念、またその周辺で使われた言葉でその意味はそれぞれ違います。
分別を超えた非二元の認識が常態化する、というような意味では似ていますが、ヴェーダーンタでは、究極はブラフマンだけが存在し世界はマーヤー(幻影)とする、に対し、カシミール·シヴァ派では、世界は全てシヴァ(シャクティ)の現れと捉えます。
ただそれは概念が違うだけで、その状態は同一なのか、全く別の状態なのか、というのは専門家でも議論が続いています。
訂正2
ナータ派やタントラでは、特殊な呼吸法、音(ナーダ)、図形(ヤントラ)などを通じて、シヴァやシャクティのエネルギーが行者に憑依し、神そのものが行を始めるとされます。
これが本来の意味での「ラージャ・ヨーガ」、すなわち“王のヨーガ”の在り方であり、ヨーガ·スートラで示された静坐瞑想とは異なる、『神的な実現(divine embodiment)への道』です。
1994年、フランスの研究者Christian Bouyが自身の著書の中でハタ·プラが、資料としてハタ·ヨーガの祖師であるゴーラクシャナータの著書とされる長本『Amaraughaprabodha(アマラウガ・プラボーダ)』を採用していることを指摘しました。
ハタ·プラにはいくつかの元ネタがあった、ということです。
そして、ゴーラクシャナータとハタ·プラの著者であるスヴァットマラーマには、約300~350年開きがあるので、その教えをそのまま引き継いでいるわけではありません。
さらに『Amaraughaprabodha』はゴーラクシャナータの短本『Amaraugha(アマラウガ)』を元にしていますが、この二冊の成立年度はおよそ200年程開きがあるようです。
中世インドでは権威ある祖師の名で文献が伝えられることが多かったので、『Amaraugha』や、『Gorakṣaśataka(ゴーラクシャシャタカ)』さえ、実際にゴーラクシャナータが書いたかどうかは不明です。
さらに『Amaraugha』は仏教密教の聖典『Amṛtasiddhi(アムリタシュッデイ)』の影響を強く受けている、または、その伝統を継承・発展させている可能性が高いことがわかってきています。
そして訂正箇所ですが、私の記事では
【シヴァやシャクティのエネルギーが行者に憑依し、神そのものが行を始めるとされます。これが本来の意味での「ラージャ・ヨーガ」、すなわち“王のヨーガ”の在り方であり、ヨーガ·スートラで示された静坐瞑想とは異なる、『神的な実現(divine embodiment)への道』です。】
といいきっていますが、近年の研究者の見解では、ハタ·プラ、及びアマラウガ(短本)では、
・心の活動が止む(amanaska, unmanī)
・深い三昧
・二元性を超えた状態
なので、『寂滅』を目指す方向です。ここが違います。
ですが、ヨーガ・スートラは二元論なので、最終境地の描写という点では、ハタ・プラはどちらかというとヴェーダーンタに近い印象です。
そして、ハタ・プラと、ヨーガ・スートラ及びヴェーダーンタとの大きな違いは、ムドラーやプラーナ操作など身体側からアプローチすることが大きな要素になっている点です。
ということで、アマラウガの研究以降、ハタ·プラの静坐瞑想とは異なる、『神的な実現(divine embodiment)への道』という読みは現在の研究者の間では主流でなくなってきています。
今回は取り急ぎ、訂正と捕捉をさせて頂きましたが、では、
「ラージャヨーガ=神人化」という見方は全面的に間違いなのか?
について、次回から数回に渡り深掘り&私自身の推論をしていきたいと思います。
こちらは有料記事にしたいと思います。
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貴方の心が平和でありますように。
ॐ श्रीमातृभ्यः नमः
om śrī-mātṛbhyaḥ namaḥ
