生存に理解も啓発もいらない
他人に理解されることが目的にはなりえなかった。あれだけたくさん自分の障害や病、マイノリティ性について書いておきながら、私にとって誰かの理解を得るのは手段でしかなかった。企画を通す、発注してもらう、文章を世に出す。そのための通過ポイント。
仕事をしていないときでさえ、自分を知ってもらうためではなく、伝えると得られる利益不利益を考えて言葉を発している。そう、私が理解啓発らしき行動に出るのは生存のためだ。
しかし、生存は必ず理解啓発を経由しなければ手に入らないものなのか。そんなことはない。そしてそんなことはあってはならない。
患者とごく僅かな医師しか詳細を知らないような知名度の低い病気でも生存のための制度がある。理解啓発は不十分だが、生存にはたどりつけている。
そして婚姻の平等なんかでもよく言われることだが、マイノリティの権利はマジョリティが理解するまで据え置かれてはいけない。むしろ先に法律や制度を整えることで、理解を浸透させていくべきものだ。
そもそもにして、理解を得ようと手段を考えなければならないことこそが差別だ。マジョリティはマイノリティを排除する自分達の手落ちをさして責められず、丁寧な言葉で啓発されてもなお、それを聞き入れない選択肢を持っている。
逆はない。マイノリティがマジョリティの要求を聞き入れなければ解雇されたり卒業できなかったりして終わるだけだ。
理解啓発から生存に至る経路もある。だが、それ以外もある。発達障害がどういうものか知らなくても、あるいは生身の発達障害者とうまく関われなくても、データを見て考えられるのが人間の知性というものだ。
発達障害の人の収入が総じて低いことは既にデータで示されている。生存に必要な収入と医療アクセスの保障。無理解な人間に囲まれて苦しんでいても逃げた先でそれが見込めるとしたら、どれほどの人が劣悪な環境から離脱できるだろうか。
生存の保障は理解や啓発よりも先になければならない。生存が保障されていない現状で訴える理解や啓発は空虚にすらなりうる。
生存さえも厳しいなかで理解も啓発も出る幕じゃない。
つまりは、同情するなら金をくれならぬ、同情するなら生存をくれに帰結する。理解啓発よりも収入と医療アクセスの保障をしろ。
理解啓発のテイストからかなり離れた、アルビノを知った上で制作されたアルビノのフィクションを読みたいがために書くアルビノ解説本が5月4日の文学フリマ東京42、た-37で頒布予定です。アルビノ解説本を読んでいっぱい創作しよう。
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