マリカー、ポケモン、遊戯王
子どもの頃、僕はゲームが好きだった。中学受験が始まる前までは、ひたすらテレビゲームに没頭していた気がする。
家には「ゲームは1日1時間」なんてルールがあったから、心置きなく遊びたければ友だちの家に行くのがお約束だった。ちなみに、もし無視したらゲームは禁止されてしまうので絶対に家では守らなければならなかった。
中でもよく溜まり場になっていた友だちの家は、今思えば、いつも少し埃っぽかった。掃除も換気も、あまり熱心にされていなかったんだと思う。今思うとちょっと気になるが、当時はそんなこと気にしている余裕なんてなかった。
その友だちは自転車に乗るのも苦手で、運動があまり得意じゃなかった。祖父母と暮らす母子家庭だったからなのか、僕らが週末ごとに2階の6畳部屋でゲームをするのも、特に怒られたりせずに受け入れてくれた。
4〜5人のメンツが当たり前のように集まり、ボンバーマンやマリオカートをわいわい遊ぶ。ゼルダなんかの1人プレイゲームでクリアできない面は、誰かが交代で挑戦し、みんなで一緒に騒いだり笑ったりしていた。
あの時は、ただ楽しかった。「これ何か役に立つのかな」なんて問い自体が存在しなかったと思う。
今になって振り返ると、不思議なくらい無防備な時間だった気がする。他人が何を考えているかなんて気にしていなかったし、もし文句を言われていたとしても、僕は多分聞き逃していただろう。
元々、音から情報を拾うのが得意じゃなかったから、適当に「はーい」なんて返事だけして、指示も注意もすり抜けていたかもしれない。まあ、嫌われなかったんだから、それでよかったのかもしれない。
大人になった今、僕はリビングで寝そべってニンテンドーSwitchをやっている。ゲームを遊ぶのは変わらないけれど、頭の片隅では「これ、何かビジネスのネタになるかな」「この経験、Xの投稿ネタにできるかも」とか、無駄に考えてしまう。
買い物ひとつするにも「妻が喜ぶなら意味がある」「学びがあるなら浪費も悪くない」と、自分を納得させるために、いちいち理屈をつけるようになった。
子どものころみたいに、ただゲームに没頭して、「クリアできないから代わりにやって」とダベっていた、あのゆるい時間はもう戻らないんだろうな、と少し寂しくなる。
今でもゲーム中は基本的に何も考えていないはずなんだけど、ふとしたときに「あ、これネタになるかも」なんて思いついてしまうと、子ども時代のあの無意味な没頭とは微妙に違う感じがする。
昔は本当に、何の役にも立たない遊びが当たり前だった。それでも特別問題なかったし、ユートピアのような空気さえあったのに、今は意味や目的をつけないと落ち着かない自分がいる。大人になるって、そういうことなのかもしれない。
でも、たまに懐かしいゲーム機の画像を見たり、新しいポケモンのソフトを手に取ったりすると、あの埃っぽい6畳部屋や、笑い声の渦中で感じていた「どうでもよさ」と「豊かさ」を思い出す。
意味を求めすぎて少し窮屈になった今の自分には、あの無駄だらけの日々はキラキラして見えるから不思議だ。昔みたいに、ただ遊ぶだけで満足する時間を、ほんの少しだけでいいから味わえたらいいのにと思う。
でも、まあ、もう戻らないなら戻らないで、こうやって懐かしむくらいは許されるだろう。
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