“役者目当て=浅い”と言われる観劇について、オタクが本音で考えた

役者目当ての観劇は浅いのか?

舞台やミュージカルの話をしていると、
「役者目当てで観るのは浅い」
「物語をちゃんと見ていない」
という意見を見かけることもしばしば。

役者目当ての観劇は、どこか低俗なものとして扱われがちだ。

この風潮は何も舞台ではなく、
漫画・アニメなどにもみられる。
キャラが好きで漫画が好き、キャラ萌え、もっというと二次創作的なカップリングありきで作品を好きという者は、物語自体を好きな読者より下で見られがちだ。

正直に言えば、私自身もその空気を
まったく感じずに生きてきたわけではない。

とりわけ、好きな作品について、キャラ萌えのみで語られると「もっと物語を見てほしい」、「作者の意図を考えてほしい」と思ったこともある。


実際、舞台の多くは役者ファンで埋まっていることが多い

ただ一方で、現実として舞台などは、
多くは、役者ファンで埋まっていることが多い、と思う。

とりわけ私が主に観劇している宝塚は、
最初から「役者を見る構造」として成り立っている。

スターシステムがあり、
誰が主演で、二番手は誰でということがわかっており、
トップスター中心として舞台が動いている。
観客はその成長や変化を追うことを前提に劇場へ足を運ぶ。

この構造の中で、
役者を中心に舞台を観ること自体を否定するのは、
どこか現実とズレているとも感じる。


初見の難しさと、役者から入ることの合理性

そもそも、舞台は初見にとても優しい娯楽とは言いにくい

原作があるものであれば、だいたいの話の内容は分かるものの、そうでないことが多い。
実際に観劇するまで、
おもしろいのか、おもしろくないのか
わからないのである。

しかしチケットの多くは、舞台が始まるかなり前から発売される。
舞台自体も、長いものは1か月公演している場合もあるが、
1週間や数日しか公演がないとなると事前にチケットを手に入れておくしかない。

そんな中で、
「この役者を見る」「この人が出ているから行く」という軸を持つことは、
かなり合理的な観劇の仕方だと思っている。

私自身、役者を入口にして舞台を観てきた一人でもある。


同じ舞台を観ていても、人は本当に違うものを見ている

そんなことを考えていたとき、
Xでとても象徴的な投稿を見かけた。

母と二人でミュージカルを観に行った方が、
自分は俳優オタクで、自身の着眼点が俳優の芝居であるのに対し、
母親は物語の内容や登場人物の行動の意味について疑問をもっていた。
その違いに驚いた、という話だった。

同じ舞台を観ていても、
人は本当に、見ている着眼点が違うのだ。


観劇の見方は、回数も関係する?

私個人の観劇スタイルとしては、
まず一回目は、できるだけ物語を把握することに努めることが多い。
まずは全体を受け取ることを優先する。

そして二回目以降になると、ほとんど役者しか見ていない。
今日の演技はどうだったか、
昨日と何が違ったか、
そうした細かな変化を見ることが、観劇の中心になる。

ただ、これは役者のオタクであるがゆえに、
何度も観る前提で舞台と向き合っているからこそ、
できる見方ではあるなと思う。

実際、舞台を支えているのは、
よほどの大ヒット公演を除けば、
ほとんどがリピーターだと思う。
そしてその多くは、
もう一度物語を知りたいというより、
「好きな役者をもう一度見たい」という動機で劇場に足を運んでいるのではないだろうか。

そう考えると、
役者を見る観劇スタイルは、
舞台にとって決して周縁的なものではなく、
むしろ、舞台を成立させている中心の一つなのだと思う。


役者への感想は浅い感想?

もう一つ、付け加えておきたいことがある。
「今日もビジュが良かった」「顔がいい」といった感想は、
一見すると、役者の見た目しか見ていないように聞こえるかもしれない。
けれど、それが必ずしも
物語をまったく見ていないことを意味するわけではない。

ネタバレに配慮すれば、
深い感想ほど表に出しにくくなることもある。
余韻の中では、うまく言葉にできないこともある。
結果として、役者本人に関する感想だけが前に出ることも、実際には少なくない。


ただ、
「それだけ」で終わってしまう瞬間に、
少しだけ引っかかりを覚えることもある。

作った人は、何を伝えたかったのか。
この物語は、何を描こうとしているのか。
そこを考える余地を、できれば手放したくない、と自分は思う。


さらに言えば、
セリフの言い方や所作から伝わるものも、確かにある。

同じ台詞でも、声の強さや間の取り方、視線の向け方ひとつで、
登場人物の感情や立場は大きく変わって見える。
明確に言葉にされない心情や、物語の行間にある揺れは、
役者の身体を通して初めて伝わってくることも多い。

そう考えると、
「役者を細かく見ている」という行為そのものが、
必ずしも物語から目を逸らしていることを意味するわけではない、
とも感じている。


全肯定の盲目さへの違和感

ただ、
「推しだから全部良い」「好きだから何でも肯定する」
という状態には、あまりなりたくないとは思っている。

好きでいることと、考えることは、両立できるはずだ。
違和感を覚えたり、立ち止まったりすることまで含めて、
作品と向き合っていたい。


結論|好きでいることと、考えること

観劇の楽しみ方に、正解はない。
役者を見る人がいて、物語を見る人がいて、
そのどちらもが、同じ舞台を成立させている。
どちらが正しいファンである、ということもない。

私自身、役者を見ることをやめたいわけではないし、
これからもきっと、好きな役者の変化や細部に心を奪われ続けると思う。

ただ同時に、
その舞台が何を語ろうとしていたのか、
作り手は何を差し出そうとしていたのかを、
考える余地だけは手放したくない。

好きでいることと、考えること。
その両方を引き受けながら、
私はこれからも舞台を観ていきたいのだと思う。

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