おろく|風まかせ文芸部 第67回「夜風」
iさん主宰の「風まかせ文芸部」第67回お題企画に参加してゐます。
今回のお題は「夜風」。
ショートショート、小説、詩、随筆──ジャンルも文体も自由とのこと。
今回は、少しばかり昔の言葉遣ひと仮名遣ひで書いてみました。
東京から汽車で半日ほどの、小さな停車場まで商用で來てゐた私は、うつかり最終列車を逃してしまつた。
停車場のそばに一軒だけある旅館は滿室で、草鞋を脱ぐこともかなわなかつた。
──さて、明日の朝までどうして過ごさうか。
それにしても腹が減つた。
とにかく今日は、晝飯もロクに食べてゐなかつたのだから。
そのへんをあてもなく步いてゐた私は、暗い道の先の、一軒の店の燈りに引き寄せられていつた。
戶口をくぐると、板場の前の長い臺に、椅子が二つ三つ。
──寸詰まりの鰻の寢床のやうだ。
小體な、あんまり小體な店だつた。
割烹着を着たおかみが、竈門を背にして所在なげにお茶を挽いてゐた。
手元の煙管からは、細い煙が立ち上がつてゐる。
「あら、こんな時間だから、もう閉めようと思つてたんですよ」
「さう言はずに、一杯やらせてくれないか」
「ようござんすよ、どうせ家に歸つても、獨寢するだけなんですから」
「それは助かつた、恩にきるよ」
おかみが手際よく何かを火にかけながら、屈託なく話しかけてくる。
「東京から──お仕事ですか」
「どうしてだい」
「この邊の人は、そんな大袈裟でハイカラな鞄なんて持つて步きやしませんよ」
「それはご慧眼」
火にかけた出汁の香りが立ち上がつてくる。空腹にはたまらない。
「こんなもの、お口に合ひますかね。なにしろこのへんときたら、とんと田舍なんですから」
お通しといふには豪勢な、湯氣をたててゐる一人鍋が出てきた──葱鮪だ。
「おや、このあたりでも鮪が食べられるとはね」
「ええ。たまにですけどね」
「淺草で飲んでいるやうだ」
「そんな大層なものぢやありませんよ」
「おかみは、江戶の人かね」
「さあ、どうでせうね」
煙管が煙草盆を叩いて、コンと音を立てた。
「葱鮪なんて出すからさ。それに、言葉がなんだか江戶辯ぢやないか」
「お客さんだつてそんな調子だけど、でも西のお人でせう」
「おや、わかるかね」
「わかりますよ」
「さて、飮まれるんでせう、ビイルにしますか」
「ああ、熱燗にしてくれないか。私はどうも、ビイルといふやつが苦手でね」
「あら、古風でいらつしやる」
「いや、この時期だと、どうにも溫いだらう」
「うちは井戶で冷やしてますからね、ちやんと冷たいですよ」
「それはいい。でも、やつぱり熱燗をもらふよ」
「あい」
藍染の暖簾に染め拔かれた屋號──おろく、が風に搖れてゐるのが、開け放した戶口から見える。
「おろくさんは、このあたりは長いのかね」
「ああ、この屋號は私の名前ぢやありませんよ」
「なんだい、すつかり勘違ひさせるぢやないか」
「これは──六區のことですよ」
「淺草の」
「あい」
「なんだい、やつぱり江戶の人ぢやないか」
「隱しやしませんよ」
「それぢやあ、名はなんといふ」
「なんでせうねえ」
「そいつは隱すのか」
「女ですからね」
おかみがまな板の上で、なにかを細かく刻んでゐる。
次に出てきたのは、たつぷりと刻み葱をのせた豆腐だつた──田樂だ。
「おお、これは豆腐百珍」
「このあたりに珍しいものなんかありやしませんよ」
「私はこの田樂といふのがたまらなく好きなのさ」
「よござんした」
「おや、この味噌は──」
「政宗公ですよ」
「驚いたな、仙臺味噌か。おかみは奧州の出かね」
「あら、そんなら旦那さんは、黑船に乘つて來なすつた」
「なんだね、そいつは」
「異人さんみたいに洒落たハットをかぶつてらつしやる」
「さうかね」
どこからか、蚊遣りの煙の匂ひが流れてくる。
「お仕事はいかがでしたか」
「ああ、まずまずだ。まつたく、汽車なんてもののせゐで、西に東に驅けずり囘される」
「お忙しいこと」
「まつたくだ」
「おや、もう空つぽ。お腹を空かせていらつしやつた」
「ああ、じつは晝飯も食ひそこねてゐた」
「では、ももんじの燒いたのでも食べなさるか」
「そいつは豪勢だ。ももんじは、何かね」
「あい。山鯨」
「それは珍味だ。江戶ではなかなかお目にかかれない」
「いつもかうして──ほら、味噌に漬けとくんです。くせがありますからね」
「ああ、もう香ばしい匂ひがしてくるぢやないか」
「この眞夏に熱燗だなんて、ずゐぶんの酒飮みでいらつしやると思つてゐたけれど、もうお銚子が空きさうぢやありませんか」
「ああ、こんな匂ひがしてきたら、それを肴に飮んでしまふよ」
味噌漬けにした猪の肉が、思ひのほか煙を上げてゐる。
狹い店の中が、ぼうっと霞み始めた。
おかみが奧の勝手口を開けると、風が通り拔けていく。
「ああ──いい夜風だ」
「あら嫌だ──」
おかみが口元に手を當て、わづかに微笑んだ。
目元に少しだけ寄る皺が、なんとも仇な景色だ。
「──何がかね」
「だつて主さん、今、あちきの名を呼びなさんした」
──夜はまだ、はやい。(了)
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