#324 snap / SONY α7Ⅴ 〜 足元の世界とその感覚 〜
こんにちは。遺跡発掘と埋蔵文化財の写真を撮るというお堅いお仕事をしながら、「猫撮り」と「街撮り」を楽しんでいる、Yurihiro Yoshida です。
本日は、「足元の世界」のお話です。お付き合いいただけると嬉しいです。この記事で使用している機材は「SONY α7Ⅴ+ Sonnar T* FE 35mm F2.8 ZA」です。
前回も同様のタイトルで記事を書いていますが。その記事では
だからこそ、足元の植物を見ていると、その街の今や、時代の流れまで感じることがあります。
と、少し(いや、かなり)壮大なことを書いていましたが、今回は少し「視線」を変えたお話をしたいと思います。
そうです。今回の着目点は「視線」なんです。
足元に佇んでいる植物たちも、我々と同じように、この街で暮らしています。時には駆除することもあるので、「仲間」と表現するのは語弊があるかもしれません。それでも、同じ街で生きている存在であることに変わりはありません。
そんな足元の植物たちと同じ高さの視線で街を見てみたら、どんな景色が見えるのだろう。そんなことを思いながら、カメラを構えてスナップしてきました。
これは猫撮りの時にもよくやるスタイルです。猫と同じ目線の高さになることで、普段とは違う景色を感じられるとともに、猫との一体感も感じられるのです。
以前は植物でもこのような撮影をよくしていたのですが、ここ最近は「街の景色」が主体になっていて、しばらく遠ざかっていました。
ところが前回の「足元の世界」の記事を書いてから、その感覚が蘇り、思い出したかのようにしゃがみ込んで撮影していました。
猫の場合は一体感を感じられるのですが、植物の場合はどうでしょう。
僕の場合は、何となく静かな気持ちになれるのです。
少し俯瞰して見ているような、静観とまではいかないのですが、とにかくいつもとは違う感覚で街を見ている気持ちになります。
感覚としては、背景をぼかしたこの画像のような感覚に近いのかもしれません。

人の姿も存在として認識しています。ただ、視覚も聴覚もどこかぼんやりしていて、むしろ触覚に近いような感覚で街の姿を捉えている。そんな印象なのです。
それでも街は街として認識できていますし、音も聞こえています。ただ、聴覚だけが少し遠のき、静かな時間の流れだけを感覚として受け取っている。そんな状態と言えるのかもしれません。

交差点も交差点として認識しているし、変わりゆく信号の光も感じています。
だけど、その感じているものは音の波動なのか、光の波動なのか。それとも、ただ全身でその波を受け止めているだけなのかもしれない。そんなことさえ思えてくるのです。
色という概念もあるのかないのか。もしかすると、そんな認識さえ必要ないのかもしれません。

何を感じるのか。その「何か」を求めること自体が不必要で、ただ感じることだけで十分なのかもしれない。そんな感覚にまで陥るのです。
レンズを開放にして、植物と同じ視線で植物にフォーカスを合わせながら街を眺め、シャッターを切っていると、ここまで長々と書いてきたような、分かったような分からないような、不思議な感覚になるのです。
ところが、レンズを絞り、くっきりとした視界で植物を捉えると、不思議なことにその感覚が一変します。
開放で撮影していた時は、植物にフォーカスしていながらも、「植物から見た街」をレンズ越しに見ているような感覚でした。
ところが、絞って植物にフォーカスすると、途端に植物から自分が見られているような感覚になるのです。

自分を見ているのは植物なのか。
いや、それはもしかすると自分自身なのかもしれません。
自分を見つめているのが自分自身だとしたら、そこにある植物は紛れもなく自分自身の姿であり、今レンズを向けているのは、まさに今の自分自身なのかもしれない。ハッとしてそこで我に帰るのです。
とにかくそんな不思議な感覚に陥っていくのです。
今回の記事は、文章になっていない文章なのかもしれませんし、意味もまったく伝わらないかもしれません。
さらに結論もありません。
ただ頭に浮かんだことを、そのままストレートに打ち続けてみました。
記事として成り立っているのかも怪しいですが、たまにはこんな脳内と直結した文章も書いてみたくなったので、今回はこのまま、あえて読み返さずに完結としてみようと思います。
気が向いたら、またこんな脳内直結型の記事を書くかもしれません。
その時も、お付き合いいただけると嬉しいです。
それではまた、次の記事でお会いしましょう!
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