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【問い】学力とは、知っていることなのか。それとも、自分で学べることなのか?

はじめに

今回は、PISA2025というキーワードから感じた気づきを、問いとして残しておきたいと思います。

PISA2025とは?

PISAは、OECDが15歳の生徒を対象に実施している、国際的な学習到達度調査です。

PISA2025では、これまでの読解力・数学的リテラシー・科学的リテラシーに加え、科学を重点分野として調査しました。

そして、今回初めて取り入れられたのが、

「Learning in the Digital World(デジタル世界での学び)」

という領域です。

ここでは、単にデジタル機器を使えるかを見るのではなく、

デジタルツールを使いながら、知識をつくり、問題を解決し、自分の学習を調整していけるか

という力が評価されます。

その中核にあるのが「自己調整学習」です。

OECDは、自己調整学習を、自分の理解や行動、意欲、感情などを確認しながら学習を進めていく力として捉えています。なお、この「デジタル世界での学び」の詳しい結果は2027年に公表される予定です。

私はPISAについて、そこまで深く理解しているわけではありません。

ただ、2人の娘を育てている親として、そして自分自身が大人になってから学び直している立場として、この「自己調整学習」という言葉がとても気になりました。

タブレットで「正解すること」と「学ぶこと」

私の娘たちの学校でも、タブレット学習が取り入れられています。

夏休みに出された課題の中にも、画面に問題が表示され、いくつかの選択肢から答えを選んでいくものがありました。

正解すれば次へ進む。
間違えればヒントを見ることもできる。

その姿を見ていると、同じタブレット学習でも、子どもによって使い方が違うことに気づきます。

ヒントを見て、

「なんでだろう?」

と考えてから答えを選ぶこともある。

一方で、

「これかな?」
「違った。じゃあこれ」

と、何度か押して正解を探すこともできる。

もちろん、正答率や回答履歴などがデータとして残るので、仕組みとして考えることを促す工夫はされているのだと思います。

でも、そこで少し引っかかりました。

正解にたどり着くことと、学んでいることは、同じなのだろうか。

デジタルツールに慣れることは、これからの社会を考えれば大切です。

その一方で、

紙に書く。
分からないことを自分で調べる。
しばらく分からないまま考える。

そんな時間が少なくなっているようにも見えます。

とはいえ、だから「昔の勉強のほうが良かった」とも思いません。

私自身は「分からない」を放置してきた

自分の幼少期を振り返ると、私はむしろ、

分からないことを、分からないままにしてきた側

だったと思います。

理解できなければ、そのままにする。
テストが終われば忘れる。
周りに勉強のできる人がいれば、自分とは違う人だと思ってしまう。

そうやって大人になりました。

そのため、仕事や子育てをするようになってから、

「そもそも、これってどういうことなんだろう?」

と、基礎や基本まで戻らなければ、理解できないことが何度もあります。

今振り返れば、勉強ができる人は、分からないことに向き合い、悩み、調べ、少しずつ積み上げてきた人だったのかもしれません。

私はその途中で、分からないという”感情に蓋”をしてしまっていたのだと思います。

そんな私にとってAIは「救世主」だった

生成AIが当たり前になってきた今、私にとって学ぶことのハードルは大きく下がりました。

分からない言葉があれば聞ける。
複雑な内容なら、簡単な言葉に置き換えてもらえる。
自分の考えがまとまらなければ、整理してもらえる。

私は今、趣味としてnoteを継続的に書いています。

日常で感じた気づきや違和感を、まずは自分の拙い言葉で並べる。
そこに自分なりの解釈を入れる。
その後、AIに文章の構成を整えてもらう。
完成した文章をもう一度読み返す。

そんなことを続けています。

AIに文章を書いてもらって終わりではなく、

AIによって、自分が考えていたことを”自分でもう一度理解”する。

そんな使い方になっています。

以前の私は、知識のある人を見て劣等感を覚えることがありました。
でも今は、「日常の中にも、こんなに学ぶ材料があるんだ。」

と気づくようになりました。

間違いなく、AIのおかげです。

だから、私にとってAIは、学びを奪う存在ではなく、むしろ学びを好きにしてくれた存在です。

「知識を持つこと」だけが学びではない

ここで、今井むつみさんの『学びとは何か――〈探究人〉になるために』という本の考え方が重なります。

今井さんは認知科学の視点から、学びを単に知識を増やしていくこととしてではなく、すでに持っている知識を使い、修正し、組み合わせながら、新しい知識をつくっていく過程として捉えています。

学びとは、一度正解を受け取って終わるものではなく、探究を続けていくプロセスでもある、という考え方です。

だとすれば、

AIから正解を教えてもらったかどうかだけで、

「学んだ」
「学んでいない」

を判断することも、できないのかもしれません。

大事なのは、その前後に何が起きているのか。
そんな気がしてきました。

AIが問題なのではなく、「問い」がなくなることが問題なのか?

AIは聞けばすぐに答えてくれます。

だからこそ、

「なぜだろう?」

と考える時間を飛ばしてしまう危険もあると思います。

一方で私のように、今まで分からないまま諦めていた人が、

「ちょっと聞いてみよう」

と、学び始められる可能性もあります。

同じAIなのに、

考えなくなる人もいれば、
考え始める人もいる。

では、その違いはどこから生まれるのでしょうか。

私は今のところ、その一つが”知的好奇心”なのではないかと感じています。

私の場合、

「なんか違和感がある」
「なぜこうなるんだろう?」
「これって、本当にそうなのかな?」

という日常の小さな引っかかりが、AIを使う入口になっています。

つまり、

AIが問いを生み出しているというより、

自分の中にある問いを、AIによって先へ進めている。

そんな感覚です。

子どもの「なぜ?」に、すぐ答えない

そう考えると、子育てでも気になることがあります。

子どもが、

「なんで空は青いの?」

と聞いたとき。
親がすぐAIに聞けば、かなり正確な答えが返ってきます。

でも、その前に、

「なんでだと思う?」
「太陽と関係あるのかな?」
「夕方は色が違うよね」

と、一緒に考えてみることもできる。
正解にたどり着くまでの、少し面倒な時間です。

でも、もしかすると、その時間の中に、

「自分で考えることって面白い」

と思える種があるのかもしれません。

仕事でも同じようなことを感じます。
資料作成や文章の構成は、AIを使えば圧倒的に速くなります。

だからこそ、その前に、

「そもそも何のためにやるんだろう?」
「本当に解決したいことは何だろう?」

と、人同士で考える時間が必要になるのかもしれません。

そして、AIから出てきた答えにも、

「本当にそうだろうか?」

と一度立ち止まってみる。

AIに任せる。
AIを疑う。
自分でも考える。
そして、またAIを使う。

もしかすると、これもこれからの「自己調整学習」の一つの姿なのではないか。

そんなことを、PISA2025というキーワードから考えました。

学力とは何だろう

昔の私は、学力とは

「どれだけ知っているか」

だと思っていた気がします。

でも、大人になってから学ぶことを楽しめるようになった今は、少し違って見えます。

知っていることも、もちろん大切です。
基礎や基本があるからこそ、考えられることもあります。

でも同時に、分からないことに出会ったとき、

「分からないから終わり」

ではなく、

「ちょっと調べてみよう」
「考えてみよう」
「誰かに聞いてみよう」

と動き出せることも、一つの学力なのではないでしょうか。
そしてAI時代になるほど、その境界は曖昧になっていく気がします。

だから、今回残しておきたい問いはこれです。

学力とは、知っていることなのか。
それとも、自分で学べることなのか?

AIによってすぐ答えが得られる時代に、「分からないまま考える時間」にはどんな意味があるのだろうか。

知的好奇心は、子ども自身が持つものなのか。
それとも、周囲との関わりの中で育っていくものなのだろうか。

そしてもう一つ。

AIは、考える力を奪う存在なのか。
それとも、考えることを諦めていた人に、もう一度学ぶ入口をつくる存在なのか。

私自身、まだ答えは分かりません。
ただ少なくとも私は、AIによって学ぶことが好きになりました。

だからこそ、

「AIを使うか、使わないか」

だけで終わらせず、

AIと一緒に、どんな学び方を残していくのか。

そこを考えていきたいと思います。

あなたにとって「学力」とは、どんな力でしょうか。


▶︎この問いについて、
構造から整理した記事も書きました


摩擦を、構造に。
問いを、資産に。
Yuta


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