【問い】子育てのやり方は、夫婦で同じでなければいけないのか
はじめに
今回は、子どもたちが習字の宿題をしている姿と、それを教える妻を見ながら感じたモヤモヤを、問いとして残しておきます。
妻の教え方に、少しモヤモヤした
午前中、小学3年生の娘はなかよし会へ。
その間、小学5年生の娘は残っていた習字の宿題を、家で妻と一緒に2時間ほどかけてやっていたようです。
そして、小学3年生の娘が帰ってきてからは交代。
今度は小学3年生の娘が、妻から止め・跳ね・払いなどを教えてもらいながら、一生懸命習字をしていました。
その様子を横で見ていると、
「そこから書いたらダメ」
「なんでそうなるの?」
といった言葉が聞こえてきます。
私には少し強く聞こえて、
「そこまで言わなくてもいいんじゃないかな」
と、正直モヤモヤしました。
私だったら、もう少し自由にやらせるかもしれない。
できていないところより、できたところを見ながら伝えるかもしれない。
そんなふうに、自分の中の「子育てはこうしたい」という考えが出てきたんだと思います。
でも、その後の子どもたちは笑っていた
そんな中で私が病院から帰ってくると、小学3年生の娘は楽しそうに友達を家へ呼び、一緒に遊んでいました。
習字を終えた小学5年生の娘も、タブレットを見ながらゆっくり過ごしていて、私と目が合うとニコッと笑ってくれました。
妻から少し強い口調で教えられていたからといって、その時間すべてが嫌だったわけでもないのかもしれません。
さらに面白かったのが、習字につきっきりで疲れた妻がソファーに座っていたときです。
隣にいた小学5年生の娘が、
「そうだよね」
と言うようにうなずきながら、妻の肩をポンポンと叩いていました。
その姿がなんだか大人びていて、少し笑ってしまいました。
教えてもらう側だった子どもが、今度は疲れた親を労っている。
家族って、どちらか一方だけが支える関係ではないのかもしれないなと思いました。
「自分ならこうする」が、正解とは限らない
私は、妻の教え方にモヤモヤしました。
でも、そこで、
「その教え方はよくない」
「もっとこうしたほうがいい」
と妻に言ったら、今度は夫婦の間に別の摩擦が生まれるかもしれません。
もちろん、子どもが明らかに苦しそうだったり、言葉によって傷ついていたりするなら、話し合う必要はあると思います。
ただ今回、子どもたちはその後も友達と笑って遊び、外へ行き、家族でご飯を食べ、ゲームを楽しんでいました。
ゴミ捨てに行くだけの時間でも、みんなで話したり、マジカルバナナをしたり。
夕食には妻が作った餃子をたくさん食べて、その後はマリオカートをしたり、並んでタブレットで遊んだり。
前日に小学3年生の娘が決めた筋トレも、ちゃんと覚えていて、最後は二人でその日のノルマを終えて眠ることができました。
そんな一日全体を見ると、
「私と妻の教え方が違うこと」と、
「子どもたちが安心して過ごせていること」は、
必ずしも、同じ問題ではないのかもしれません。
親が同じである必要はあるのだろうか
私は比較的、子どもが失敗しても、
「まあいいか」
「次やればいいか」
と思うタイプです。
妻は私よりも細かいところまで見て、できるまで一緒に付き合うことがあります。
だからこそ衝突することもあります。
でも、もしかすると子どもにとっては、
きちんと教えてくれる親と、
少し力を抜かせてくれる親。
その両方がいることにも、意味があるのかもしれません。
どちらかのやり方に統一することだけが、家族にとっての正解なのでしょうか。
まとめ|子どもが見ているのは「親の正しさ」だけなのか
今回私が引っかかったのは、妻の強い言葉でした。
けれど、一日を通して子どもたちを見ていると、
笑う。
遊ぶ。
親を労う。
姉妹で一緒に何かをする。
自分で決めたことを続ける。
そんな姿もありました。
そう考えると、親の役割は、相手の子育てを自分の正解に変えることだけではないのかもしれません。
相手の関わり方によって子どもが疲れたなら、自分が少し緩める。
自分が言い過ぎたなら、相手が受け止める。
そんなふうに、家族の中で補い合うこともできるのかもしれない。
とはいえ、それは「どんな言い方でもいい」ということでもありません。
では、
子育てのやり方は、夫婦で同じでなければいけないのでしょうか。
親同士の正しさを揃えることと、子どもが安心して過ごせることは、本当に同じなのでしょうか。
相手のやり方を変えることと、自分にできる関わりを増やすこと。子どもにとって大切なのは、どちらなのでしょうか。
答えはまだ分かりません。
だからこそ、今日感じたモヤモヤを、問いとして残しておきたいと思います。
▼この問いについて、
構造から整理した記事も書きました。
摩擦を、構造に。
問いを、資産に。
Yuta
