【問い】幸福を人生の目的にすると、なぜ苦しくなるのか|『ミル自伝』から考えたこと
はじめに
今回は、荒木博行さんのVoicyで紹介されていた、ジョン・スチュアート・ミルの『ミル自伝』から気づいたことを、問いとして残しておきます。
今回、特に印象に残ったのが、
「幸福を直接の目的にしてはならない」
という言葉でした。
人生では、幸せになりたい、楽しく生きたいと考えることがあります。
私自身も、「人生を楽しむ」ということを大きな目的の一つにしています。
しかし、幸福や楽しさを強く求めるほど、目の前の出来事が思いどおりにならなかったときに、かえって苦しくなることがあるのではないか。
『ミル自伝』の話を聞きながら、そんなことを感じました。
幸福のために教育されたミル
ジョン・スチュアート・ミルは、幼い頃から父ジェームズ・ミルによる非常に厳しい教育を受けて育ちました。
父は功利主義の思想に強く影響を受けており、ミルは社会をより良くするための知識や論理を、幼少期から徹底的に学んでいきます。
普通であれば逃げ出してしまいそうな環境でも、ミルには教育についていけるだけの力がありました。
だからこそ、やり遂げることができてしまったのだと思います。
しかし、1826年の秋、20歳だったミルは、自分自身に一つの質問を投げかけます。
社会の制度や人々の考え方が、自分の望んでいたとおりに変わったとしたら、自分は本当に幸せなのだろうか。
その問いに対して、自分の内側から返ってきた答えは「違う」でした。
それまで自分の人生を支えていた目的が、突然意味を失ってしまったのです。ミルはこれを、自身の「精神史における危機」として振り返っています。
同じ境遇を知るだけでは救われなかった
精神的な危機の中にいたミルは、自分と似た苦しみを抱えた人の文章を読みます。
しかし、同じような境遇を知ったからといって、すぐに救われたわけではありませんでした。
むしろ、自分が置かれている状態の輪郭が、よりはっきりと見えただけだったのかもしれません。
「自分だけではなかった」と知ることは、安心につながる場合もあります。
一方で、自分の苦しみが言語化されたことで、その苦しみから逃げられなくなることもあるのだと思います。
ミルに最初の小さな変化が起きたのは、マルモンテルの回想録を読み、家族を支えようとする少年の場面に涙を流したときでした。
涙が出たことで、自分の感情が完全に失われたわけではないと気づいたのです。
そして、その後の回復を大きく支えたのが、ワーズワスの詩でした。
ワーズワスの詩が耕したもの
ミルがワーズワスの詩に見つけたのは、自分と同じ苦しみではありませんでした。
自然の美しさや、静かな感情、誰かと共有できる内面的な喜びでした。
ワーズワスの詩は、社会を変えるための方法を教えたわけではありません。
ミルがそれまで重視してきた、論理や分析の正しさを否定したわけでもありません。
ただ、論理や知性だけでは育てられなかった感情を、少しずつ耕していきました。
ミル自身も、ワーズワスの詩を「心の状態に対する薬」のようなものだったと振り返っています。
そこからミルは、外側の環境を整えるだけではなく、人間の内側にある感情を育てることも、幸福には欠かせないと考えるようになります。
幸福を確認した瞬間、幸福ではなくなる
『ミル自伝』には、次の言葉があります。
「自分は今幸福かと自分の胸に問うて見れば、とたんに幸福ではなくなってしまう」
―ジョン・スチュアート・ミル
ミルは、幸福そのものを直接追いかけるのではなく、他者の幸福や社会の改善、芸術や自分が価値を感じる活動など、幸福とは別の何かに心を向けることが大切だと考えました。
そして、別の何かに夢中になって進んでいる途中で、幸福は副産物として見つかるのではないかと結論づけています。
幸福を直接見つめ続けると、
「今の自分は幸せなのか」
「まだ足りないのではないか」
「もっと楽しくなければいけないのではないか」
と、自分の状態を測り続けることになります。
幸福を求めているはずなのに、幸福ではない証拠ばかりを探すようになってしまうのです。
お金持ちになることを目的にしたとき
例えば、「お金持ちになれば幸せになれる」と考えたとします。
お金持ちになることが幸福の条件になると、まだ十分なお金を持っていない現在は、幸福に到達していない時間になります。
収入が増えても、目標の金額に届いていなければ満足できない。
誰かが自分より稼いでいるのを見れば、自分が遅れているように感じる。
お金が増えたとしても、失うことへの不安が生まれるかもしれません。
幸福になるためにお金を追いかけているのに、幸福ではない時間が増えていく。
これも、幸福を直接の目的にしたときに起こる、パラドックスなのだと思います。
一方で、自分が関心を持っていることに取り組み、誰かの役に立ち、試行錯誤を重ねた結果として収入が増えていたのであれば、同じ「お金持ちになる」という結果でも、そこに至るまでの時間の感じ方は変わるのかもしれません。
「人生を楽しむ」が自分を苦しめるとき
私も、人生を楽しむことを大きな目的にしています。
家族と楽しく過ごしたい。
子どもたちにも、いろいろな経験をしてほしい。
仕事でも、学びや成長を感じながら働きたい。
そうした思いは、決して悪いものではありません。
しかし、「楽しい人生にしなければならない」という目的が強くなりすぎると、思いどおりにならない出来事を受け入れにくくなることがあります。
家族の予定が崩れる。
子どもが思ったように動かない。
パートナーと考え方が合わない。
仕事で理不尽なことが起こる。
そんなイレギュラーが発生したとき、本来であれば人生の一部である出来事を、「楽しい人生を邪魔するもの」と感じてしまう。
そして、自分に対して、
「どうしてもっと穏やかにできないのか」
と嫌悪感を抱いたり、
相手に対して、
「あなたのせいで楽しくなくなった」
と矢印を向けたりしてしまいます。
人生を楽しもうとしているのに、楽しめない自分や相手を責めるようになる。
私自身にも、思い当たることがあります。
大きな目的を握りしめすぎていないか
人生の目的を持つことは、大切なのだと思います。
ただ、その目的からすべてを逆算して、目の前の行動を決めようとすると、大きな目的の奴隷になってしまうことがあります。
「これは幸福につながるのか」
「これは楽しい人生に必要なのか」
「この時間には意味があるのか」
一つひとつを判断しているうちに、目的とは関係のない寄り道や、意味のない時間を楽しめなくなってしまいます。
もしかすると、大きな目的は、常に手に握っておくものではないのかもしれません。
遠くに置いておきながら、今は、
「これをやってみたい」
「この人と話してみたい」
「この本を読んでみたい」
「今日は家族とここへ行きたい」
といった目の前の好奇心に集中する。
その延長線上で振り返ったときに、結果として「楽しい人生だった」と感じるものなのかもしれません。
まとめ|幸福は目的なのか、副産物なのか
幸福になりたいと思うこと自体が、間違っているわけではありません。
ただ、幸福を直接つかもうとした瞬間に、現在の自分が「まだ幸福ではない存在」に変わってしまうことがあります。
人生を楽しむ。
お金持ちになる。
家族と幸せに暮らす。
仕事で成長する。
こうした大きな目的を持ちながらも、その目的を強く握りしめすぎず、目の前で関心を持ったことに集中する。
その結果として、幸福があとからついてくることもあるのだと思います。
幸福は、目指すべき目的地なのでしょうか。
それとも、何かに夢中になって歩いたあとに、振り返って初めて気づくものなのでしょうか。
あなたが「幸福にならなければ」と考えることを忘れて、自然に夢中になれるものは何でしょうか。
▼この問いについて、
構造から整理した記事も書きました
摩擦を、構造に。
問いを、資産に。
Yuta
