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著書『成り損ない』ドラフト|第一話「黎明」

俺は、自分が生まれた瞬間を覚えていない。
たぶん、それは、ほとんどの人が同じだろう。

でも、俺は思う。
生まれた時代や環境は、その人の人生を確実に形作っていく。
だから、自分の人生を振り返る時、まず最初に知るべきなのは、「どこで生まれたのか」ではない。

「どんな時代に、どんな環境で生まれたのか」だ。

後に「ゆうたん®︎」と名乗ることになる一人のオッサンは、1965年1月6日、群馬県沼田市で生まれた。
雪が2メートル以上積もる山奥の町だったという。

その頃、日本は高度経済成長の真っ只中。
父は土木工事会社で現場監督をしていた。高速道路を造る仕事だ。
完成すれば、また次の現場へ向かう。

だから、父だけではなく、母と幼い俺も一緒に全国を転々とする生活だった。
福岡に落ち着くまで、俺は群馬から相模原、大阪へと、日本中を渡り歩いていたらしい。もっとも、その記憶は俺自身にはほとんど残っていない。

父は宮崎県都城市の農家に生まれた。
裕福ではなかったが、奨学金で大学へ進み、自分の力で人生を切り拓いた人だった。

父の仕事は、山林を開拓して、それまで地図になかった道を造ることだった。

その現場で、父は左手の人差し指を失っている。

ベルトコンベアに不具合が起き、現場監督だった父が原因を調べていた時、誰かが誤ってスイッチを入れてしまった。
突然動き出したベルトコンベアに左手を巻き込まれ、人差し指を第二関節から切断した。
山奥の現場だったため、すぐに十分な処置を受けることができず、切断された指先が元に戻ることはなかったという。

俺が物心ついた頃には、父の左手の人差し指は三分の一ほどしかなかった。 だから俺にとって、それは特別なことではなかった。
最初から、それが父の手だった。 父とキャッチボールをする時も、グローブから短い人差し指が出ていた。
ある意味、その指が俺の中で父の象徴だった。

今思えば、「人生は自分で切り拓くものだ」という価値観は、父の背中や指から学んだのかもしれない。

母は専業主婦だった。
父の仕事の都合で何度も引っ越しを繰り返す生活だったが、母はいつも家庭を守ってくれていた。
夕方、友達と遊び疲れて帰宅する途中、家に近づくにつれて漂ってくる、母の作ったカレーの匂い。
あの匂いは、今でも忘れられない。

そして、我が家には少し変わった家族の歴史がある。

母の若い頃のアルバムには、父と一緒に写っている写真が何枚もあった。
その写真には、「○○海岸にて、お兄ちゃんと」そんな付箋が貼られていた。

子どもの俺には、さっぱり意味が分からなかった。
「なんで、お父さんがお兄ちゃんなんだ?」 そんな疑問の答えを知ったのは、ずっと後のことだった。

実は、父と母は戸籍上では兄と妹だったのだ。
もちろん、血のつながりはない。
父の父と、母の母が、それぞれの伴侶と死別した後に再婚したことで、お互いが連れ子となり、戸籍上は兄妹という関係になった。
そして、その後、二人は夫婦となった。

子どもの頃の俺は、そんな事情を知る由もなく、「どうして、うちにはおじいちゃんとおばあちゃんが一人ずつしかいないんだろう。」 と、不思議に思っていた。
その疑問が解けたのも、ずっと後のことだった。

物心がついた頃には、俺が高校卒業までのヤンチャな時期を過ごした福岡で暮らしていた。

最初に覚えている家は、福岡市中央区鳥飼にあった2DKの小さな賃貸マンション。敷地の花壇には、チューリップや椿が咲いていた。

ある日、その近くで火事があった。
目の前に何台もの大好きな消防車が止まり、カッコいい消防士のおじさんたちに会えた幼い俺は、今思うと不適切だが大喜びだった。

火が消えた後、消防士さんが笑顔で言った。

「乗せてあげるから、おいで。」

ところが、近づいた瞬間、俺は怖くなって大泣きしてしまった。
もちろん消防士さんは優しさで声を掛けてくれたのだ。
でも、幼い子どもにとっては、大きな消防車も、防火服を着た大人も、全部が圧倒される存在だった。
自分の知らない大きな世界に、飲み込まれてしまうような恐怖を感んじた覚えがある。

その頃、二歳半違いの妹が生まれた。
もちろん当時の俺は、「妹」とは何なのか、「生まれる」とはどういうことなのかも分かっていなかった。
母の出産を手伝うため、宮崎から祖母が福岡へ来てくれた。
父と俺の世話をしながら、母を支えてくれていたらしい。

幼稚園は、西南学院系列の舞鶴幼稚園。
今でも鮮明に覚えているものがある。

教室の床に塗られたワックスの匂い。
冬になると焚かれるストーブの灯油の匂い。

不思議なもので、今でもその匂いを嗅ぐと、一瞬で幼稚園の景色が頭の中によみがえる。

その後、福岡市西区(現在は城南区)の堤団地へ引っ越し、プロテスタント系の慶光幼稚園へ転園した。

10円募金や日曜学校。
セーラー服に角帽という制服。
そして、淡い初恋。

名前も知らない。 話したこともない。
ただ、遠くから見ていただけだった。
そのときめきが何なのか、俺にわかるはずもなかった。
それでも、幼い心には、確かに「恋心」があった。

裕福な家庭ではなかった。

ある夜のことだ。
寝る前、布団の横で母が正座をしながら洗濯物を畳んでいた。
俺は布団の上でゴロゴロしながら、子どもらしい素朴な疑問をぶつけた。

「ねぇ、うちって金持ち? 貧乏?」

子供ならではの忌憚の無さすぎる言葉だ。
母は手を止めることなく、少し考えてから静かに答えた。

「そうねぇ。どちらかというと、貧乏かねぇ。」

衝撃だった。
今でも鮮明に覚えている、一生忘れられない一言だった。

「うちは貧乏なんだ。」

その言葉は、小さな胸に、思っていたよりずっと深く刻まれた。
子どもというのは不思議なもので、そういう一言だけを、なぜか一生分の重さで覚えている。

それでも両親は、英語、絵画、書道と、いくつもの習い事をさせてくれた。 当時の俺は、それがどれほどありがたいことなのか、もちろん分からなかった。

親は、子どもに何を残せるかを考える。
俺の両親が残してくれたのは、形ある財産ではなく、経験という財産だった。

あの頃の俺は、そんな親の想いなど知る由もなかった。

振り返ってみると、すべてはこの頃から始まっていた。

消防車に大泣きした臆病さも、 貧乏という一言に打たれた敏感さも、名前さえ知らない女の子に覚えた淡いときめきも。

後に「人を笑顔にする」ことばかり考えて生きていく俺の、最初の輪郭だったのかもしれない。

黎明期のゆうたん®︎

予告
第二話「自我」へ続く――。

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