著書『成り損ない』ドラフト|第二話「自我」
物心つくかつかないかの頃の俺だったので、まったく記憶にないのだが、のちに母が何度も話してくれたことがある。
「あんたは少しおしゃべりできるようになった頃、伝えたい気持ちが先走って『うんとね!うんとね!ゆうちゃんね!うんとね!うんとね!ゆうちゃんね!』って言って、なかなか言葉が出てこんかったと。だから私たちは『何ね?早よ言わんね!』って、いつも笑いよったとよ。」
俺の「自我」の始まりである。
毎年、正月とお盆は、父が運転する車で福岡から宮崎の祖父母の家へ向かった。
当時はまだ高速道路が完成していなかったため、片道10時間ほどかかり、親にとっては大変な道中だったようだ。
しかし実を言うと、俺は祖父母の家があまり好きではなかった。
宮崎の中でも霧島火山の麓にある都城盆地は、夏は酷暑で冬は極寒。
おまけに敷地内には牛小屋や鶏小屋があり、家畜や肥料の匂いが常に漂っていた。
祖父母は確かに可愛がってくれたが、方言のイントネーションが福岡とは全く違うため、はっきり言って何を言っているのか分からなかった。
さらに嫌だったのは、夜になると父も祖父も芋焼酎を飲んで酔っ払って声が大きくなることだった。
正月、新年会で親戚の集まりともなれば、30人ほどの大人たちがこぞってドンチャン騒ぎをしていた。
社交的ではなかった俺は、親戚のおじさんやおばさんたちに馴染めず、ただただ大人が怖くて嫌いだった。
そんな中、忘れもしない、ある大事件が起きる。
俺たちが「ツルツルのおじちゃん」と呼んでいた頭の禿げた親戚のおじさんが、酔った勢いでまだ1歳にも満たない幼い妹を抱きかかえ、ふざけて俺に言い放った。
「もらって帰るね!」
それを真に受けた俺は、言葉で言い返せない悔しさと悲しさと怖さで感情が爆発した。
「なんてこと言うの?絶対にダメだ。妹を守らなきゃ!」
その気持ちを、全力で大泣きすることによって訴えるしかなかった。
今思えば、ツルツルのおじちゃんなりの「不器用なコミュニケーション」や「おふざけ」だったのだろうが、当時の俺にはそれが理解できず、ただただ「恐怖」でしかなかった。
これが人生で初めて、明確な意思表示として「キレた」記憶であり、そしてこれこそが、自覚がないながらも、のちの「大人社会への反骨精神の原点」だったのだろう。
宮崎から福岡に戻る際、車のトランクは祖父母が持たせてくれた米や野菜、らっきょう漬けで満載になった。
車が敷地を出る時、祖母はいつも、俺たちと離れるのが寂しくて泣いていた。
当時の俺は、おばあちゃんが俺たちへの愛情の表れとして泣いてくれているのだとはまだ理解できず、ただ「おばあちゃんが泣いている」という事実そのものに、どうしようもなく悲しくなり、戸惑っていた。
そんな風に、大人たちに恐怖や戸惑いを感じていた幼い俺にとって、野球漫画原作のTVアニメ『侍ジャイアンツ』の主人公、番場蛮が俺のヒーローだった。
番場蛮は漁師の父をクジラに殺された体験から、「強くてデカくて威張った奴」に異様な闘志を燃やす男だ。
巨人軍を野球の世界のクジラに見立て、あえて飲み込まれ、その腹の中から掻っ捌く――そんな生き方に、幼い俺は妙に共感していた。
大人が怖くて仕方なかった俺は、いつか大人たちを見返してやりたいという反骨心を、この頃すでに自覚し始めていたのだと思う。
小学生になったら、住んでいた団地の少年野球部に入った。
当時あまり強いチームではなかったが、現在は「堤ヤンキース」という名前で頑張っているらしい。
人見知りで、まだ小1の俺にとって、ここでも大人に馴染めなかった。
保護者と明るく挨拶ができなかったし、先輩や監督が怖かった。
それでも辞めたいと思った記憶はない。
父親が学生時代に野球をやっていたらしく、よくキャッチボールの相手をしてくれたり、バットのスウィングを見て指導してくれた。
球拾い要員から3軍、2軍、1軍と上がっていくシステムの中、身体は小さい方だったが走るのが速く、代走や外野で出場を重ね、2軍になって初めてユニフォームがもらえた。
小5でレギュラーになり、ホームランバッターとして期待される存在になっていった。
小6に上がると同時に、どんな大人の事情があったのかわからなかったが、自分の父親が監督になった。
普段「お父さん!」と呼んでいる相手を「監督!」と呼ばなければいけないことに違和感しかなかったし、いつもプレッシャーを感じていた。
打率、打点、出塁数、盗塁数、本塁打数の5冠王という成績を残しても、父親は俺を褒めてくれることはなく、打順もいつも3番のままだった。
それでも俺は何も不平不満は言わなかった。
父親の立場を俺なりに理解していたし、誰かに認められるより、自分が納得できるかどうかの方を昔から重要視していたのだと思う。
当時の福岡は、伝説の西鉄ライオンズが撤退して以来、弱小球団のイメージが続いていた。俺はぼんやりとプロ野球選手になる夢を持っていたが、いつしかその夢はフェードアウトしていった。
小5の頃、自動車漫画『サーキットの狼』のヒットで、日本全国にスーパーカーブームが到来した。
ランボルギーニ カウンタック、フェラーリ ディーノ、ランチア ストラトス――俺はその渦中にのめり込み、試乗会でドリフト走行を体験してからは、カーレーサーになるという明確な夢を持った。
両親に「中学生になったら、カートレースをやらせて欲しい。」と頼んだ。
だが、即答で全否定された。
「危ない、事故を起こしたら大変」という、親としては当然の判断だったのだろう。
だが、それまで英語、絵画、書道、野球、俺が興味を持ったことは全て受け入れてくれた両親に、初めて大反対されたことは大きなショックだった。
今となれば、その後の人生の分岐点になる大事件だった。
初めて直面した親からの拒絶。
その後すぐ、気持ちを処理できないまま、小学校の卒業文集に『将来の夢』を書くことになった。
そこで俺は思った。
「はぁ? どうせ否定するだろ!」
皮肉を込めて「普通のサラリーマンになりたい。」と、微塵も思っていないことを書いた。
担任教師からは「なんて夢のないことを書いてるの!」と、こっ酷く叱られた。
どちらにしても否定してくる大人の理不尽さに、俺の心は激しく反発した。
これをキッカケに、「いつか見てろ!」と大人社会への反撃の機会を狙うことになる。
中学は福岡市立長尾中学校。
学校の敷地が狭く野球部が存在しなかったため、走るのが速かった俺は仕方なく陸上部に入部した。
だが俺は、個人競技であるが故の黙々とトレーニングするスタイルがあまり面白くなく、サボり気味になり、ヤンチャな友達とツルんで他校の連中と毎週のように殴り合いのケンカをするようになった。
その頃、俺には「キレるスイッチ」があることを知った。
中1の二学期、父の会社の下請け業者が開発した住宅地の一戸建てを購入したことで校区が変わり、転校を余儀なくされた。
好きだった女子と離れることになり、転校を噂で聞いた別の女子からラブレターをもらったりと、環境の変化に戸惑った。
転校先の福岡市立梅林中学校では、体育教師にサッカー部へスカウトされたが、新しいコミュニティーに入る気がしなかったので断った。
それでも新しい好きな女子を見つけることは忘れず、告白する勇気はないままチャンスを待つだけの片思いを続けた。
中2でクラス替えがあり、「不良」と呼ばれる数人もいたが、俺は彼らに特に媚びることもなく普通に接していた。
ある日、クラスメイトの1人が、主謀者Mの指示で取り巻きたちから無視され、学級会で理不尽な揚げ足取りを浴びせられる状況になった。
俺自身がイジメられているわけではなかったが、その理不尽さが我慢できず、学級会で本人を擁護し、Mたちの発言の矛盾を指摘した。
するとMと取り巻きは、俺のことも無視するようになった。
担任教師はその場にいながら、何のアクションも起こさなかった。
小学校の時に感じた大人の理不尽さと同じ怒りを感じた。
ある日、俺はトイレに呼び出された。
周りを数人に囲まれ、実行役Tが言う。
「Mがやれって言うから、殴らせてくれ。」
出入り口からはMが覗いていた。
Tは数日前まで俺と普通に話していた普通のクラスメイトだった。
俺は、Mの言いなりにならざるを得ないTが可哀想に思え、Mに向かって殴りかかろうかとも考えた。
だが、俺は一度キレると自分でもブレーキが利かなくなる気がして思いとどまった。
結局、Tの拳は俺の顎を優しくなでる程度のへなちょこな一撃で、その直後にTは「ごめんね。」と一言謝ってきた。
俺は、なんだか馬鹿らしくなった。
振り返ると、Mは既にいなかった。
それきり、そのイジメはいつの間にか消えていた。
数年後の同窓会でMと再会した時、向こうから「久しぶり。」と声をかけてきたが、俺は「ん。」としか答えなかった。
数十年後、当時を知る女友達を含む何人かで飲んだ時に「あの頃から、ゆうたんは正義感があったもんね!」と言われた。
その女友達こそ、俺が当時片思いしていた女子である。
「あの時、告白していれば成就してたかも?」と、今でも少し思う。
とは言っても、実は俺の中では正義感という意識はなく、ただ理不尽なことが許せなかっただけである。
中3で、生徒数過多により新設校の田隈中学校へ2回目の転校をすることになり、いよいよ高校受験を迎えた。
「学校の成績が悪いと大人に舐められる」と考えた俺は、夏も冬も塾通いに明け暮れた。
大人社会への反発のために塾通いで親に協力してもらうという、今思えば矛盾した戦略だったが、目的達成のための思考は、この頃からあったのだろう。
そして俺は、福岡県立城南高等学校を受験し、合格した。
福岡県内トップの修猷館高校を受ける学力もあったが、元々肩書きや名声にあまり興味がなかった俺は、万が一落ちた場合の滑り止めが当時男子校の私立福岡大学付属大濠高校だったため、女子がいない環境だけは絶対に避けたいという理由で、共学で、何か事故が起きない限り、ほぼ確実に合格する県立進学校、城南高校を選んだのだ。
今思えば、修猷館を受けていたら違う人生だったのかもしれない、というパラレルワールドを想像することもある。
しかし、この後経験する高校生活は、俺が想像していたものとは全く違っていた。
予告
第三話「心影」へ続く――。
