【掌編】『魔法の解かれた先で』(第102話)
【前回までのあらすじ】
王妃の部屋を訪れたテオとシュバルツ。二人が笑い合う姿に、王妃は後悔に涙を流し、テオも想いを打ち明ける。そして王妃はシュバルツへ感謝を伝える。部屋を出た二人は、ヴァルドがシュバルツを探していると知り、そのまま書庫へ向かう。
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※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
第102話
母の部屋を出たあと、私とシュバルツは侍女に言われた通り、そのまま書庫へ向かった。
扉を開けると、ヴァルドは大きな机の前に座り、何冊もの本と書類を広げていた。私たちの姿に気づくと顔を上げ、いつものように軽く頷く。
「ヴァルド様、ご要件というのは……」
シュバルツが尋ねると、ヴァルドは机の端に積まれた数冊の本へ手を向けた。
「この本を、本棚の最上段まで上げてほしいのだ」
示された際には、見上げるほどの本棚が天井まで続いていた。私には無理だが、シュバルツなら脚立に乗れば簡単に手が届きそうだった。ただ、ヴァルドの背丈もシュバルツとさほど変わらず、すぐ脇には脚立もある。
「私がいない間に、高いところが苦手にでもなったか?」
からかうように口元を緩めると、ヴァルドは「ご冗談を――」と笑った。
「先ほど急に立ち上がったところで、少々足元がふらつきましてな。ここ最近の無理がたたったのでしょう」
ヴァルドが眉間を押さえて目をつむる。
「ヴァルド、お前が弱音を吐くなんて珍しいな」
「恥ずかしながら、歳には勝てませんね」
ヴァルドはそう言って薄く笑った。
――ヴァルドが、自分からそんなことを言うなんて。
「そういうことでしたら、ここは私が――」
シュバルツがすぐに本棚の前へ向かう。ヴァルドも本を手渡そうと立ち上がったが、その仕草は少し重たく見えた。
「私がやるから、お前は座っていろ」
見かねてヴァルドの元へと歩み寄り、机の本へと手をかける。
私は本を一冊手に取りシュバルツへ渡した。彼は脚立に上ると、軽い身のこなしで最上段の隙間へと本を収める。
次の本に手を伸ばしながらヴァルドを見ると、その立ち姿に城へ戻った日の記憶が重なった。いつも背筋が伸び、芯が通ったようにまっすぐだったはずのヴァルドが、あのときと同じように小さく見えた。
――いや、そう見えたのは、背中が僅かに曲がっていたからだ……。
幼い頃から、ヴァルドは私より大きく、何でも知っていて、困れば当然のように手を差し伸べてくれた。それはいつまでも変わらないと、勝手に思い込んでいただけなのかもしれない。
「もし困ったことがあれば、いつでも力になるぞ」
私はヴァルドに声をかけた。すると、彼は目尻に皺を寄せ、少しだけ俯いた。
「……成長なされましたな、殿下」
「無理をして倒れられたら困るからな」
気恥ずかしくなって顔を逸らし、また一冊、シュバルツへ手渡す。
「テオ様、この本……」
本を手放そうとした矢先、シュバルツが声を上げた。手元を見ると、色褪せた革張りの表紙に見覚えのある文字が刻まれていた。
『旅人の詩』
その題を目にした途端、遠い夜の記憶とともに父の声が耳の奥へ蘇る。
「……懐かしいな」
本を手元に引き寄せると、脚立を降りたシュバルツも表紙を覗き込んだ。本の中にはいくつかの詩が収録されていた。父が読み聞かせてくれたのは、どうやらそのうちの一つらしい。
「ヴァルド、この本、借りてもいいか?」
私は掌でそっと頁の表面を撫でながら、ヴァルドに声をかけた。ヴァルドは低い声で答える。
「もちろんですとも。読み終えたら、元の場所へお戻しくだされば」
私は本から目を離し、天井際の空いた隙間を見上げた。
「それはシュバルツの仕事だな」
「そのくらいはご自分で――」
シュバルツは言葉を止め、私の目線を追って天井を見た。
「――私の背では届かん……」
自分で口にした途端、妙に悲しくなってきた。
自室に戻った私は、机に『旅人の詩』の本を広げた。
短い詩が並ぶ中には、題名のない呟きのようなものもあった。ひとつずつ読み進めるうちに、とうとう『旅人の詩』と題された一篇を見つける。
「これだ……」
シュバルツと目を合わせる。
「少し文言は違いますが、母が聞かせてくれたものと似ています」
確かに父が聞かせてくれたものとも少し違っていた。幼い私のため、分かりやすく言い換えていたらしい。
《青き命の雫が大地を濡らし
光は沈んでいた夢を呼び起こす
月が夜に背を向けて
海は古い眠りから覚める
潮が息を吐き尽くし
浜辺に浮かぶ青い火ひとつ
ひとつ鐘が鳴れば
慌てた子らは道に迷い
ふたつ鐘を待てば
帰る道に灯がともる
空を突く槍先に星が傾いて
霧に白い鳥が羽ばたこうと
翼の影に心を預けず
ただ胸の灯だけを抱いてゆく
水の上に生まれた星が
波を連れ空へと帰る
風はようやく眠りにつき
海は鏡のように我を映す
草で編まれた冠は
月なき水面へ静かに浮かび
影の過ぎ去った扉の前に
夢の待ち人が名を呼ぶ
鏡が求めるままに
帰すべき者の名を告げる
選ばれし夢は海に沈まず
霧は波を押し上げて開く
夢の内では刃は眠り
満ちるものは奪われることを知らない
帰る道が深い霧に包まれるうちは
天も地も青々と命を繋ぐ
美しき夢を見続けんとすれば
夢の話は海に沈めよ》
詩の意味するものはまるで分からないが、父と母と私、三人で並んで眠った夜は素直に蘇ってくる。
――あの頃は、みんな笑っていたな。
そんな日が戻ってくることは、もうないのだろうか……。
「テオ様、あれ……」
ふとシュバルツが寝台脇の小さな棚を指さした。
そこには父が舞踏会で残した、あのゴムサンダルが揃えてある。旅から戻った時、結局またこの部屋へ置いたものだ。
「まだお持ちだったんですね」
「ああ――」
私は席を立ち、棚からそれを持ち出した。
表面は擦り切れ、少し形も歪んでいるが、舞踏会の夜から何も変わっていない。
「――何度か捨てようか、とは思ったんだけどな」
私はゴムサンダルの表面を撫でながら、そばに置かれた屑入れに目をやった。
「……また、陛下を探しに行かれるおつもりなのですか?」
シュバルツの問いかけに、すぐには答えられなかった。
思えば、城を出たのは父が死んでいないと確かめるためだった。遺体が父ではないと知ったあとも、残されたものを追えば、もう一度会える気がしていた。
けれど母と向き合ううち、このまま追い続ける意味も分からなくなっていた。
「……分からない」
ようやく出てきた言葉は、自分でも驚くほど曖昧だった。
「父を憎んでいたはずだった。なのに、頭に浮かぶ父はいつも笑っていて、その背中はいつも大きくて温かいんだ。……勝手に城を飛び出して、母をあんなに悲しませて、私もひとりぼっちになって――」
言葉に詰まる私の肩に、シュバルツがそっと手を差し伸べた。大きな掌が触れるだけで、少しだけ気持ちが落ち着く。
「また旅に出られるなら、それはきっと父を追うためではないんだと思う。まだ見たことのない世界に触れるためだ」
言いながら、自分でもそれが本心なのかは分からなかった。父を忘れることなんて本当にできるんだろうか。
母は、『折り合いをつけることも、立派に忘れることだ』と話していた。けれど、その言葉を口にした母の頬を涙が伝っていたことも、私は覚えている。
――本当に忘れるって、どういうことなんだろうな。
「どんな理由であろうと、テオ様が行くところに私もついていきます」
曖昧で混沌とした私の心には、シュバルツのその優しい言葉がただただ嬉しかった。
私は手の中に残ったサンダルをもう一度眺めた。
今となっては、何のためにこのサンダルを持ち続けているのか、自分でもうまく説明できない。
――屑入れはあんなにも近くにあるのに、ものすごく遠い。
結局、私はゴムサンダルを元あった棚へ戻した。
父を忘れることは、このサンダルを捨てることよりも難しいのかもしれない。ただ、今の私はこうして答えを先延ばしにすることでしか、父と繋がっていられなかったのだ。
掌編『魔法の解かれた先で』
第103話に続く→
第102話のご拝読
ありがとうございます✨️
【あてにならない次回の見どころ👀】
知らないうちに進んでいた事柄で、テオは大きく翻弄されることに。
📔第103話の更新は
9/17(木)を予定しています。
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