【掌編】『魔法の解かれた先で』(第九十話)
【前回までのあらすじ】
長い旅を終え、アルトリアへ帰還したテオたち。シュバルツを実家へ送り届けたのち、城へ戻ったテオはヴァルドやラズロと再会する。そしてエレノアに見守られながら、十年ぶりに母の部屋へ。扉の先で変わらぬ笑顔を向ける母を見た瞬間、テオは思わずその胸へと駆け出す。
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※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
第九十話
駆け出した勢いのまま、母の身体を両腕で抱きしめた。記憶にあるよりもずっと小さな身体は、すっぽりと私の腕の中に収まっていた。
いつも見上げることしかなかった母の顔が、今は私の目線より下にある。幼い頃はいつも母に包まれているように感じていたのに、会えなかった長い年月の間に、それもすっかり逆になってしまった。
「母上……私も、ずっと会いたかった」
口にした途端、喉の奥が熱くなった。それ以上続けようとしても声にならず、私は母の肩へ顔を伏せるように背を丸める。
母の腕が背中へ回り、後頭部へ伸びた手が、ゆっくりと髪を撫でた。
「長い間、心配をかけましたね」
その手つきに触れた瞬間、胸の奥に押し込めていたものが一気に込み上げてきた。
最後にこうして母に髪を撫でてもらったのは、いつだったか……。
その日が最後になると分かっていたら、きっと私は母のそばから離れなかったに違いない。だが、別れは突然訪れた。いつの間にか母の部屋の扉は閉ざされ、声をかけても返事をしてもらえない日が増えていった。
――もう一度だけでいいから、母上の腕で抱きしめてほしい。
子供の頃、何度そう願ったことか。それがようやく叶ったと思うと、目の奥が熱を持ち、息を吸うたびに喉が震えた。泣きそうな顔を見られたくなくて、母の肩から顔を上げることができない。
いまこの瞬間、私と母の間にはどんな言葉も必要ないように思えた。むしろ言葉にしてしまった途端、胸の中に溢れているものすべてが作り物になってしまうような気さえする。
私は両腕に力を込め、母を強く抱きしめる。母も返事のかわりに、何度も私の髪を撫でてくれた。
やがて、その手が後頭部から頬へ移る。
「テオドール、……顔を見せて」
母の声に促されるまま、名残を惜しみながら身体を起こした。それでもすぐには腕をほどけず、互いの肩へ手を置いたまま顔を見合わせる。
母は髪をきれいに結い、淡い色のドレスを身につけていた。頬は記憶の中より少し痩せていたが、今日のために丁寧に整えられたであろうその姿には、昔と変わらない気品があった。
母の指先が、私の頬をそっとなぞった。
「本当に大きくなったのね。最後にちゃんと顔を見た頃は、まだ私よりずっと小さかったのに……」
「十年も経てば、さすがに背も伸びます」
そんな冗談みたいなことを口にして、ようやく笑うことができた。
「そうね。でも、私の中ではずっと、あの頃のテオドールのままだったものだから」
――私の胸に浮かぶ母上の姿だって、ずっと昔と同じだった。
母の手が頬から離れたのをきっかけに、ようやく腕をほどいた。二人で窓辺の卓へ移り、向かい合って腰を下ろす。
「ヴァルドから、あなたが城を出たと聞いた時には驚きました。あなたまでベルナールのように、どこかへ行ったきり戻らなくなるのではないかと……」
「……心配をかけて、すみません」
城を出る時に見上げた母の部屋。その時に感じた罪悪感が静かによみがえる。
「最初は、遺体が父上なのか確かめたら戻るつもりでした。しかし、父上ではないと分かって……そこから先は、自分でもここまで長い旅になるとは思っていなかったのです」
手掛かりを追うたびに新しい土地へ着き、そこでまた別の人と出会った。父を探すために始めた旅だったはずなのに、いつしかそれだけではなくなっていた。
「結局、父上は見つかりませんでした……」
母はしばらく私を見つめたあと、静かに尋ねた。
「あなたは、この先もベルナールを探すつもりなの?」
「……分かりません」
口から出た言葉は、自分でも少し意外だった。少し前の私なら、迷わず探し続けると即答したはずだ。
「父上のことを諦めたわけじゃありません。でも今は、父上のことよりも、仲間と進む道の方が大切なように思えます」
母は少し目を丸くし、それから口元をほころばせた。
「まあ。あなたの口から仲間だなんて、何だか頼もしいわ」
「そんなに意外ですか?」
私が尋ねると、母の細い指先が私の顔に伸び、頬を優しく撫でた。
「だって昔のあなたは、いつもベルナールの背中にくっついて離れなかったでしょう?」
「もう……昔の話です」
そう言いながらも、城を出てからずっと父の背中を追い続けて来たことを思い返して、変な気分になる。
ふと、廊下で待っているエレノアのことを思い出し、扉へ目を向ける。
「そうだ。母上に紹介したい人がいるのですが――」
「まあ、どなた?」
「旅を一緒にしてきた仲間です」
ゆっくりと席を立ち、扉へと向かう。廊下に出るとエレノアは先ほどと同じ場所に立っていた。
「もうお話はいいの?」
「いいや、これからだ。母に君を紹介したい」
エレノアはきょとんとした顔で私を見上げたが、すぐに笑顔を見せた。
エレノアを連れて部屋へ入り、母の前まで進むと、その姿を見た母の顔にも笑みが浮かんだ。
いつもより少し緊張した面持ちのエレノアは、ドレスの裾をつまんで丁寧に頭を下げる。
「エミュニア第一王女、エレノアと申します。突然のご挨拶となりましたことをお許しください」
母は静かに椅子から立ち上がり、礼を返した。
「あなたがエレノア姫なのね。ヴァルドから聞いているわ。テオドールと一緒に旅をしてくださったのでしょう? この子が、ずいぶんご迷惑をおかけしたのではありませんか?」
「母上……、そんな子供みたいなことを……」
思わず口を挟むと、母の笑い声が部屋に広がった。
その音を聞くだけで、ほんの少し前まで胸の中に残っていた緊張が遠のいていく。
エレノアがこちらに視線を向けたまま、母へと言葉を返す。
「私の方こそ、旅の間はテオにたくさん助けていただきました。ただ、シュバルツさんには二人とも随分甘えていたかもしれませんね」
「君まで何を言ってるんだ」
「……シュバルツも一緒に戻ったのですか?」
母が扉の向こうを覗くように小さく首を傾げる。
「ああ。だが、今は休暇を与えて実家に帰ってもらっています。数日したら城にも顔を出すと思います」
そう告げると、母は少し残念そうな表情を見せた。
「そう……。やっと顔を見られると思っていたのに」
シュバルツが城にやってきたときには改めて紹介することを約束し、それからは旅の話を振り返るように語った。
母は各地の情勢よりも、私たちがどんな宿に泊まり、どんなものを食べたのか。どんな人々と出会い、どんな話をしたのか。そんな些細なことを聞きたがった。
エレノアが私の失敗を嬉しそうに付け足せば、母は笑い、代わりに幼い頃の私の話を持ち出してエレノアを喜ばせる。
やがて話が途切れたところで、母が静かに口を開いた。
「テオドール。ベルナールのことだけれど……」
母の改まった様子に、思わず背筋が伸びる。
「何ですか?」
「私はもう、あの人を待ち続けるのはやめることにしました」
先ほどまでの笑い声が残る部屋で、その言葉が静かに胸へ届いた。
「忘れる……ということですか」
「ええ。もう、あの人のことで自分を苦しめるのはやめようと思ったの」
母はそう言って、窓から差し込む光へ目を細めた。
母の顔は晴れやかに見えたが、本音は分からなかった。自分にそう言い聞かせているのかもしれない。
でも、それで母上がこうして笑えるのなら、今はそれでいいようにも思えた。
ひとまず今は旅の話を続けたかった。話したいことは、まだいくらでもある。十年分の時間を取り戻すには、一日では到底足りそうにない。
掌編『魔法の解かれた先で』
第九十一話に続く→
第九十話のご拝読
ありがとうございます✨️
【あてにならない次回の見どころ👀】
母と過ごす久しぶりの昼下がり。
📔第九十一話の更新は
9/5(土)を予定しています。
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