怪異ハ浸食スル⑧異世界編/ホラー小説部門
第八話『三十二歳/異世界へ迷い込む』
まぶたを開くと部屋の中は明るかった。
車の走行音が聞こえて、九時くらいかなと予想をして、手さぐりでスマホを探して時刻を確認する。十時四十二分。深酒をしたつもりはなかったけれど、いつの間にベッドに移動して寝入ったのか、記憶がなかった。
ふいに尿意を感じて、ゾンビのようにのっそり起き上がりトイレに行った。部屋に戻り、その散らかりぐあいを改めてながめて、大きなため息をつく。
ローテーブルに転がっているビールの空き缶。惣菜のパックや焼き鳥のくし。食べかすが残ったスナック菓子の袋。脱ぎ捨てたスーツや靴下。倒れた通勤バッグ。会社にあった私物をつめこんだ紙袋。
ぼくはベッドに倒れこみ、スマホでメッセージアプリを開いて、恋人の春奈とのやりとりをながめた。
『会社が倒産した』
『どこの会社?』
『ぼくが勤めていた会社』
『なんかの冗談?』
『冗談じゃなくて事実』
『なんで?』
『資金繰りができなくなったって』
『本当に?』
『本当に倒産した』『社長と幹部から説明あったし』『今日から無職』
『これからどうするの?』『大丈夫?』
『すぐに次の仕事を見つけるよ』
『頑張ってね』
『頑張るよ』
昨夜はそれで終わり。新しいメッセージはない。淡泊な文面はさらりと流れてゆき、なんのなぐさめにもならなかった。
村田春奈とは、会社の同僚が誘ってくれたコンパで知りあって、付き合いだしてもう五年になる。出会ったときの甘さなどとっくになくなってはいるけれど、このまま結婚するだろうなと思いながら付き合い続けていた。お互い三十二歳。そろそろかなと思っていた矢先に、ぼくは無職になってしまった。今ごろ春奈は、結婚してなくてよかったと、胸をなでおろしているかもしれない。
「見切りをつけられたりして」
本気でそう思ったわけじゃないのに、声に出したとたん、ありえるなと思った。
だめだ。このままだとウツに飲みこまれる。ぼくは勢いよく起き上がり、ゴミや床に散らばった衣類を片付けて、ついでに簡単に掃除をして、シャワーを浴びた。
無職二日目。まだたったの二日だ。今日はゆっくりしよう。忙しくてやれなかったことをやろう。そう決めただけで、心がすうっとラクになった。
それでも時間をむだにはできない。トーストとコーヒーで簡単に朝食をとりながらも、ネットで失業や転職について調べ、転職サイトをざっと見た。よさそうな求人はない。いやな焦りがこみあげてきたが、のがれるようにスマホをふせて、コーヒーを飲み干した。
せまいベランダに洗濯物を干していたら、天気もいいし出かけたくなった。散歩がてら図書館に行くことを思いついてアパートを出ると、秋の澄んだ空気が気持ちいい。住宅地を歩いていると、きんもくせいの柔らかい匂いがして、ぼくの心をほぐしてくれた。
ゆったり歩いて三十分ほどで図書館に着いた。二階建ての真新しいきれいな建物で、館内は、高齢者や幼い子ども連れの母親などで、ぼちぼちにぎわっている。
ぼくは二階に上がり、仕事関連の並びを見つけると、さっそく本を物色した。
『転職マニュアル』『失業したらQ&A』『自分を売り込め!』『会社を辞めたら』などのタイトルの本を、かたっぱしから手に取ってぱらぱらめくる。
何冊か借りることにして、他の棚も物色した。人生啓発や成功哲学、スピリチュアル系が並ぶ棚を見ていて、『引き寄せ』のタイトルに目が止まった。
聞いたことがある。昔、流行ったような。今も流行っているんだっけ? ポジティブに思考することで自分の望むものを引き寄せる、そんな内容だったような。
気になったタイトルをかたっぱしから手に取ってぱらぱらめくる。読みやすそうなものを一冊見つけて、近くにあるソファーに腰を下ろして、じっくり読み始めた。
『ポジティブ思考で人生を思い通りに』『あなたは成功できる』『たったこれだけ』『良い考えを持ち続けるだけ』『悪い考えは持たない』『ほしいものが簡単に手に入る』
読んでいるだけで気持ちが前向きになった。倒産なんてどうってことない、次の仕事などすぐに見つかる、人生などどうにでもなる、楽勝だと思えた。
書かれている内容をすべて鵜呑みにしたわけではない。でも、今のぼくにとってこの本は、いっときの精神安定剤になる。そう思って借りてゆくことにした。
アパートに帰ると、ぼくはさっそく引き寄せの本を再読した。
『目標をはっきりさせる。その目標が達成したところをイメージする。実際に達成したようによろこぶ。そのイメージと感情を持ち続ける』
読み終わった結果、ぼくはそう要約した。よし。まずはかなえたい目標をはっきりさせよう。
『一カ月以内に、次の仕事を決める』
ルーズリーフに太いマジックペンで大きく書いた。壁に貼りたかったけれど賃貸だからやめておいて、三段のカラーボックスの側面に貼っておいた。
それだけでちょっとした達成感を味わえた。あとはイメージだ。面接がうまくいく。採用が決まる。それを春奈とよろこぶ。イメージ。いい感じだ。わくわくできた。
ひと仕事終えた気分で満足して、夕ごはんの準備をすることにした。
社会人になって一人暮らしを始めてすでに十年、料理もできるようになった。と言っても、ごはんを炊く、野菜を煮てお味噌汁を作る、肉や野菜を炒める、程度だけれど。手間がかかるものは近くのスーパーで買っている。
から揚げかコロッケでも買いに行こうかな、と思いついたとき、ローテーブルに置いてあるスマホが振動した。見ると春奈からメッセージが届いている。
『仕事終わった』『今からアパート行っていい?』
『いいよ』『夕飯食べるよね?』『ごはん炊いてお味噌汁作るよ』
『おかず買っていこうか?』
いつもと変わらないやりとりに、ほっとして『たのみます』と返した。
お味噌汁ができて、ごはんも炊き上がるころ、スーツ姿の春奈がやって来た。全身に疲労感をまとい、一日の労働を終わらせたあとの、気の抜けた表情をしている。
「お疲れさま。今日は残業、なかったんだね」
「うん。コロッケ買ってきたよ」
ふたり分のごはんと味噌汁とお茶と、電子レンジで温めたコロッケに、春奈がついでに買ってきてくれたカット野菜をそえて、ローテーブルに並べた。
ふたりそろって、「いただきます」と手を合わせる。
ごはんの上にコロッケをのせて、ソースをしみこませてつぶしぎみにして、ごはんと一緒に口に入れた。春奈も同じようにしている。この食べ方は、どっちが始めたんだっけ。でもこういうところが楽しかったんだと、ぼんやり思った。
「それで、今日はなにしてたの?」
「掃除と洗濯して、図書館で本を借りてきた」
「ハローワークは? 行ってないの?」
「まだ離職票が届いてないし。でも早めに行った方がいいよね。明日行くよ」
「落ち込んでいるだろうから、そっとしておいた方がいいかなと思ったけれど、わりと平気そうだね。それで、あれなの?」
春奈は、あごでカラーボックスを示した。見られて少し恥ずかしい。
「一カ月以内には次の仕事を決めるよ」
「決まりそうなの?」
「なにもしていないから分からないけれど、そのつもり」
「……のんきだね」
春奈は、いやみのようにおおげさなため息をついた。
「悠はいつだってそう。でも今回ばかりはのんきではいられないよ。ちゃんと考えて。今後はどう動くつもりなの?」
上司のようなものものしい言い方に、ぐっとのどがつまった。
「えっと、そうだな。まずは、実家にでも帰ろうかな」
「アパート引き払って、向こうで就職するの?」
「そうじゃなくて。前に言ったよね、萌が里帰り出産して実家にいるって。だからぼくも顔を出そうと思って。写真はたくさん送ってもらったけれど、せっかく時間があるから甥っ子を見に行くよ。春奈も」一緒に行かない? 言おうとして飲みこんだ。
「ここぞとばかりに遊ぶのはほどほどにして、早く仕事を見つけてよ」
「もちろん。それは分かってるよ」
春奈はごはんを食べ終わると「明日も仕事だから」と言って、すぐに帰ってしまった。置き去りにされた子どものような気持ちになったけれど、それをまぎらわすようにてきぱきと後片付けをした。
なぐさめに来てくれたと思っていたけれど様子を見に来ただけで、ぼくが仕事に就けなければ関係を終わらせるつもりかもしれないと、いやな考えが頭をよぎる。
今後、どうなるんだろう。ぼくはどうしたいんだろう。春奈に見切りをつけられるのを、おとなしく待つしかないのか。恋なのか愛なのか、なじみ深いものを手放しがたいだけなのか。自分がどうしたいのかも、よく分からない。近くにあって当然と思っているものは、改めて評価がしにくい。
決まりきっていた人生が、指のすきまからこぼれ落ちているような感覚がした。
次の日。午前中にハローワークに行って、それから電車を乗り継いで三時間程度で、実家の最寄り駅に着いた。
歩いてマンションに行き、インターホンを押すと「はーい」と萌の声がして、赤ちゃんの泣き声もかすかに聞こえた。うれしくなって「ただいま。お兄ちゃんだよ」としぜんと陽気な声が出た。
玄関ドアを開くと、母親の顔をした萌が、ふにゃふにゃの赤ちゃんをだっこして出迎えてくれた。
「うわぁぁ。ちっさ。かわいい。甥っ子だぁぁ」
「うるさい。うざい。近づくなら手洗いうがいをして。なにしに帰って来たの? わざわざ見に来たの?」
「会社が倒産して、お兄ちゃんは無職になった。せっかくだから会いに来たんだよ」
「ばっかじゃないの。のんきに帰ってる場合じゃないって」
萌はあいかわらず萌だった。赤ちゃんに対しては母親なのに、ぼくに対しては皮肉多めな妹に戻る。それがやけにうれしかった。
「あおいくーん、伯父さんですよ。そうだ、三人で散歩に行こうよ。天気がいいし、この子にいろいろなものを見せてあげようよ」
「生まれたばかりは、むやみに外に出しちゃいけないの。免疫が低いから」
「そうなの? この子のためになにかしたかったのに」
「だったらわたしをねぎらってよ。母の健やかは子の健やかにつながるんだから」
「なるほど。じゃあ萌の好きなチョコレートケーキを買ってこようか?」
てっきりよろこぶと思って提案したのに、萌はしかめつらになった。
「母乳に影響あるかもしれないから、いらない」
「そうなの? 萌はえらいな。すっかり母親だね」
「でもさ、チョコレートケーキなんて言うから、食べたくなっちゃったじゃん。ちょっとくらい、いいかな。カフェインはだめだけど」
「プリンは? いつもの大通りのケーキ屋、まだあるよね? あそこのプリンも、萌はお気に入りだったよね」
「食べたい」
「買ってくるよ。ついでに散歩もしたいし」
ぼくはすぐにマンションを出た。あたりをながめながらのんびり歩き、大通りを左に曲がってしばらくするとなつかしいケーキ屋が見えてきて、ふと思い出した。
少し歩けば、蒲生の家がある。
気になった。思い出さないようにしていたけれど、そこで骨を発見したことを思い出した。そうなったら行かずにはいられない。いい機会だ。見ておきたいと思った。
ケーキ屋を通り過ぎて、住宅地に入る。見覚えがある家、建て替えられて新しくなった家、ながめながらしばらく歩いて、目印にしている洋風の家の屋根が見えてきた。その向こうに、平屋が見え、いや、なんだ、あれは。
そこにあるはずの平屋はあとかたもなかった。代わりに、二階建ての、今風のシンプルなデザインの、新しそうな住宅が建っていた。
は?
意味がわからない。ここは、この場所だけは、ずっと変わらず、みすぼらしい平屋のまま、荒れた庭のまま、廃屋のように、時間が止まったように、あり続けなければならないのに、そうあるべきなのに。
ジーンズのポケットからスマホを取り出す。県名、町名、事件で検索する。
『刃物を持った男がショッピングモールに』昔のニュースが表示される。これじゃない。事件を殺人事件にして検索する。それらしきものは出てこない。骨、発見、入力して検索する。それらしきものは出てこない。
は?
意味がわからない。建て替えられたのなら、骨が発見されているはず。
骨を移動させてから、建て替えた? いや、そもそも骨などなかった?
二階建ての住宅。はためく洗濯物。芝生が敷きつめられて、小さい花壇がある庭。玄関ポーチには三輪車が置いてある。こんなの、どう見たって。
表札を確認する気にもなれず、ぼくはすぐにその場を去った。
早足で大通りに戻ってケーキ屋に入る。さっき見たことを記憶から消すように、ショーケースに並ぶきらきらしたスイーツに集中した。カフェインはだめ、代わりにプリン。せっかくだからもっと買っていこう。シュークリーム、ショートケーキ、チーズケーキ。もっともっと。
ケーキのつまった箱を大切にかかえてマンションに戻ると、父と母がいた。一緒に買い物に行っていたらしい。ふたりとも、しわが増えた顔をうれしそうにゆるめている。
「帰ってくるなら連絡してよ。ごはん、たいしたもの作れないわよ」
「萌から聞いたぞ。大変だったな」
父と母はねぎらってくれた。萌はケーキの箱をのぞいて「買いすぎ」と、うれしそうに呆れたように笑った。すこすこと安らかな寝息を立てる甥のあおい。ぼくだって幸せなはずだ。それなのに。
ああ、見なければよかった。
いまだにぼくは、あいつらが不幸であってほしいと、そう願っていたことが分かってしまった。いや不幸であるのが当然だと、あんな人間が幸せになっているはずがないと、そう思いこんでいた。
ぼくは、このマンションの自分の部屋でこっくりさんをやっていたときと、なにも変わっていないのかもしれない。その事実に、過去の自分にとりつかれているような、妙な気分になった。
それでも、父と母と妹と水入らずの団らんを楽しんでいるうちに、いくぶんか気持ちはほぐれて、ひさびさの母の手料理をたらふく食べて、そのまま一泊した。
次の日の朝、ぼくはリビングで新聞を読んでいる父に訊ねた。
「あのさ、叔父さんと連絡とってる?」
「たまに電話で話すぞ。あいつも元気そうだ」
祖父も祖母もすでに亡くなっていて、今、祖父の家には叔父が住んでいる。四十歳間近で結婚した相手とともに。子どもはいないけれど、
「奥さんとも仲良くやっているみたいだ。店もうまくいっているらしい。ふたりで育てた野菜を、近くにある道の駅におろしたり、料理して店で出したり、楽しそうだ」
それはすごくいいことなのに、ぼくは取り残されたような気分になった。オカルト好きで子どもっぽい叔父さん。その人は、もういない。
康弘もそうだ。大学を卒業してIT企業に就職して、同僚の女性と付き合って結婚して、今や一児の父親だ。オカルトはいまだに好きだけれど、優先順位の一位ではない。一緒に心霊動画を求めた康弘は、もういなくなってしまった。
時間の経過とともに、正しく変われる人々。ぼくだけが、すっかり取り残されて、同じ位置に居続けているような気がした。
なんだかひとりになりたくなった。
「もう一日くらいゆっくりしていったら」と言う母の申し出をやんわり断り、ぼくは昼過ぎにマンションを出て電車に乗った。
やがてアパートの最寄り駅に着いたけれど、動きたくないという気持ちが体を重たくさせた。降りてしまったら現実と向き合わなければならない。
そのまま座席に座っていたら、電車のとびらがプシュウと音を立てて閉まり、発車の合図がして電車が動きだした。いっそのこと知らないどこかに、ぼくを運んでほしいと思いながら、車内や窓の外をながめる。
増えたり減ったりする乗客。流れる景色。ビル、家、田畑、川、橋、山。現実が追い付かないように、早く、早く、はやく。
頭がぼんやりして、白昼夢を見ているような感覚におちいった。
乗り換えたのか、ずっと同じ電車に乗っていたのか、よくわからなくなっていた。外はすっかり暗くなっている。車両に数えるほどの人はいるけれど、それは残像のようにあやふやで、ただの影のように見えた。
ふいに電車が停車して、ホームにある、駅名が書かれた看板が目に入った。文字はかすれてすべてを判読できない。『そ ち』
とびらが閉まって電車が走りだす。しばらくしてまた停車する。さっきと同じホーム、さっきと同じ看板。書かれている駅名は『 のに』
走る、停車する。『 さん』
走る、停車する。『そ よん』
ぼくはどこで降りればいいんだろう。『そ ご』
どこでもいいや。『 のろく』
どこでも同じだ。『 な 』
同じ状況に少し飽きてきて、ぼくは席を立った。
ホームに降りて左右を見る。誰もいない。背後で電車のとびらが音を立てて閉まった。とたんに焦って振り向くが、電車は車輪をきしませてゆっくり発車すると徐々に加速し、あっという間に暗やみにまみれてしまった。
あたりを見まわす。あかりがもれる小さな駅舎があるだけで、他にはなにもない。遠くもなにも見えない。ひたすら闇。このホームが、黒く静かな海に浮かぶ船のように思えた。
どうしようと思う反面、どうなってもいいやと思う。ここでじっとしている方がいいような気がしたけれど、ぼくは駅舎に向かい、自動改札口ではない昔の、切符を駅員さんが手切りするような、鉄製の柵しかない改札口を抜けた。
建物内の左には切符を売る窓口がある。窓枠もカウンターも濃い茶色の木製で、角は丸みをおびて年季が感じられた。右には待合があり、木製のベンチがL型で造りつけてある。前方にある出入口の先は、暗やみがせまっていた。
時の流れに取り残されたような、古びた駅舎だ。誰かの記憶の中にだけ存在しているような、今はどこにも存在していないような、そんな駅。
なつかしさで胸がじんわりした。ぼくはそこにいたのかもしれない。いや、いたはずがない。
「悠」
ふいに優しい声が聞こえて顔を向けると、出入口の向こうの暗やみに、ぽつんと叔父が立っていた。今のぼくと同じ歳くらいの、若かりしころの叔父が。
「自分の生霊なんて見るもんじゃないな」
その言葉に、小学生のころ見たものを思い出した。白いマネキンのような。くね、くね、首、腕、腰、脚、関節をありえない方に動かしてはぴたりと止まり、ふいにまた動く。暑さのせい。かげろう。ドッペルゲンガー。くねくね。生霊。
への字の目、お椀の形をした口。ちがう、あれは、叔父じゃなくて、叔父によく似た。
そうか。あのときぼくが見たものは。
「よもかたぁ」
とげとげした声が聞こえた。叔父がいなくなり、代わりに蒲生が立っていた。学ランを着た中学時代の蒲生が。にたりといやな笑みを浮かべている。
「自分の都合のいい妄想ばかりを見やがって。さすがオカルトオタクだな。きもっ」
都合よく勝手口が開いて、簡単に侵入できた平屋を思い出した。そこに居てぼくを招き入れる、中学時代と変わらない姿の蒲生。そして床下の骨。
そうか。あのときぼくが見たものは。
「悠」
親しみがこもった声に呼ばれた。蒲生はいなくなり、代わりに康弘が立っていた。制服を着た高校時代の康弘が。
「すごいな。悠が引き寄せたんだ」
なにを? どこからどこまでを? それとも、ぜんぶを?
そうか。今までぼくが見ていたものは。
もしそれが真実ならば、すべてはぼくが引き寄せたもので、ぼくの妄想が具現化したもので、完全にぼくのひとりよがりで、だったら怪異の真相は、なんだって言うんだ。
そんなこと知りたくなかった。あいつらに一矢報いたと、その可能性の中で生きていたかった。その世界線で。
「……あぁぁぁっぁぁあぁっ」
頭をかきむしり、声にならない声を上げる。その場にうずくまると、涙なのか鼻水なのかよだれなのかわからない液体が、ぼたぼたとコンクリートの床に落ちた。
気の済むまでそうしていたら、やがて液体を出し切ったかのようにそれは治まり、呼吸を整えながらゆっくり顔を上げると、康弘はいなくなっていた。
頭も、目の奥も、鼻の奥も、体のいたるところが重たかった。それでもなんとか動いて、駅舎から外に出た。
『 な 』の駅からはなれる。まぶたを開いているのか閉じているのか分からないくらい、あたりは暗い。自分の体すら見えない。どちらに進めばいいのか分からない。でも脚を動かした。不思議と冷静だった。
この世界も、自分が引き寄せただけなのかもしれない。
タイムリープ? 異世界に迷いこむ?
ふいに、テレビかネットで仕入れたオカルト情報が頭をよぎった。
そんなもの、霧が見せた幻想だ。霧の中に頭をもうろうとさせるガスが混じっていたんだ。いや、ガスがなくても見える、ただの白昼夢だ。夢遊病だ。夢で見ていることと同じ行動を起こしてしまうという、レム睡眠行動障害だ。
ぼくは今、夢を見ているだけだ。
夢だったら好きに描けばいい。ぼくはなにを望む。蟲毒が成功した世界線を望む。
あいつらが、幸福のうちに結婚して子どもが産まれて「いじめなんてだめだぞ」なんて偉そうに教育するなんてぜったいに許さない。
蒲生は母親によって殺されて床下に埋められ、母親は蒲生の転校届を中学に提出して行方をくらませた。それとも、蒲生の父親は母親によって殺されて床下に埋められ、母親は蒲生になにも話さずに、ふたりは平屋をあとにしたというパターンも作れる。
片桐は高校時代の彼女に振られて、先生になるという夢も潰えて、そうだ、いじめっ子の子どもはいじめっ子になる。片桐と浦田の子どもはいじめっ子になり、その対応に父親は心身をすり減らすことになる。これこそ因果応報だ。すばらしい。
それとも、みんな、井戸で亡くなった女性に呪われた。にしようか。蟲毒に呪われるというパターンもある。いくらでも、作れる。
「あははははは」
乾いた笑いが口からもれた。むなしかった。それでも笑った。笑って、笑って、ひたすら笑いつくしたら、ひとつの真実が見えた。
いつまでもそんなことにしばられている自分自身が、一番わずらわしい。
本当は、蒲生も片桐も浦田もどうでもいい。ぼくはしばりを解いて、くだらない人間の手の届かないところに行ってしまいたい。あいつらとは交わらない世界線、別の次元に。
心の底から望むものは、しかえしなんかじゃない。いじめや争いという概念のない世界に行くことだ。愛する者だけがいるだけの、平和な世界だ。
引き寄せたいのは、ただそれだけだった。
争いたいやつはそれを望む者同士だけで、好きなだけ争えばいい。己の強欲をむさぼって、好きなだけ、思う存分やればいい。だけど、その報いはおまえらだけで受けてくれ。ちがう次元に行ってくれ。
ぼくにとっての真実はそれだけだ。
だから、手放そう。蒲生。片桐。浦田。その他、争いを好む人々を。ぼくは、おまえらに利用されるだけのコンテンツに成り下がる気はない。そっちだけで勝手にやってろ。
さっきまで一緒にいた、父を、母を、萌を、あおいを想った。友を、康弘を想った。祖父を、祖母を、叔父を想った。それから、春奈を想った。だめになるかもしれないけれど、それでも想った。思い出して胸が温かくなる人や思い出だけを、想った。
暗やみの中を歩く。前方がじょじょに白み始めて、なにかが見えてきた。遠くに、白いもやにまぎれてぼんやりと、見慣れた二階建てのアパートが浮かび上がった。
そうだ、ぼくはただ、いつもの駅で降りて、アパートまでの道のりを、白昼夢を見ているようにぼんやりしながら、うだうだと歩いていただけにすぎない。
ひとたびそう思ったら、それが真実になったようにしっくりきた。ぼくはひたすら当たり前に、アパートの自分の部屋に帰った。夕ごはんを作って食べて、お風呂に入って、なにかを憂うこともなくぐっすり眠った。
次の日から、ぼくは就職活動だけに集中した。ハローワークに行き、スマホで求人をチェックし、完璧な履歴書と職務経歴書を準備し、応募した会社の情報を調べつくして、求められる人材を分析し、面接で質問されることを想定し、練習した。
二ヶ月後、努力は実を結んで就職先が決まった。仕事内容も給料も申し分なく、同僚も気さくそうで、骨をうずめて働けそうな、そんな職場だった。
春奈との付き合いも継続していた。ずるずる付き合っているだけかもしれないけれど、それがラクでもある。お互いを知り尽くしているし、この先もずっと共にいることが容易に想像できた。向こうも同じ気持ちのようだから、いいかげん本腰を入れて結婚の話し合いを始めることにした。
新しい職場にもなれてきた、ある日曜日の夜。アパートで、ひとりでくつろいでいたらスマホに着信があった。『叔父さん』の表示に、しぜんと顔がほころぶ。
「もしもし」
「悠。俺だ。ひさしぶりだな」
その声と口調に感覚が呼び戻されて、叔父とどういう感じで話していたかをすぐに思い出すことができた。
「ひさしぶりだね。元気なの、叔父さん」
「元気だよ。悠はどうだ? ひさびさにおまえと話したくなってさ」
叔父は今日、神社のある山に登ったらしい。小学生だったぼくと未確認生物を探したことを思い出してなつかしくなり、ぼくと話したくなったと、おだやかな口調で語ってくれた。それから、萌とあおいに会いにマンションに行ったことや、まだまだオカルト好きなこと、奥さんと楽しくやっていることを話してくれた。
ぼくも新しい職場のことや春奈のことを話した。
話は尽きなかったけれど、ひと段落したときに叔父が「そういえば」と、少しだけ声色を変えたので、あの話かなと、ぼんやり思った。
「昔はなんて呼んでたっけ、ええっと、思い出した、人間もどきのボスだ。俺、兄貴んちに行ったついでに、もどきのボスの家を見に行ったんだ」
もどきの三文字に刺激されて、走馬灯のように中学時代を思い出したけれど、胸はざわめくこともなく平静を保っている。
「ぼくをいじめていた三人組のボスだったら、蒲生っていう名字だけど、建て替わっていたでしょ、あいつの家。ぼくも見に行ったよ」
「いや、まんまだったぞ。ぼろい平屋に荒れた庭で」
思わず首をかしげる。そんなわけない。
「建て替わっていたよ。二階建ての、いかにも若い夫婦が住んでいそうな家に」
「ちがうところを見ていないか? 俺が見たところは当時のまんまの家、いや、あれからもっとぼろくなった平屋が建っていたぞ」
お互い、蒲生家のまわりにあるものを言い合った。平屋があったのは住宅地の角地。となりはオレンジ色の屋根瓦の洋風の二階建て。まったく同じだった。
「あれ、どういうことだ?」
「よく分からない。不思議だね」
言いつつも、それ以上追求する気にはなれなかった。どうでもいいやと思った。それはぼくが、いやな過去にとらわれずに未来に向かえるようになった証拠かもしれないけれど。
自分の都合のいいように、どうとでも解釈できる方が、いいなと思った。
現地に行ってたしかめるつもりはない。それに、あいつらはすでに過去の残像で、今ぼくに影響を与えることはできないのだから、あやふやなままでもかまわない。それでいいじゃないか。
叔父さんはオカルトオタクらしく「平行世界か」「タイムスリップか」と考察をくり広げて、ぼくもそれに楽しく付きあったけれど、話はいつしかネットやテレビで仕入れた都市伝説に移っていった。さんざん話をして、「またな」「またね」と言って、満足して通話を終えた。
ぼくはお風呂に入って、明日も仕事だから、さっさと寝ることにした。温かな布団にくるまって安心しながら、
蒲生はどこに行ったんだろう。いや、ぼくはどこに来たんだろう。
ふと、そんな考えが頭をよぎったけれど、心地よいまどろみに包まれて、すべてがあやふやになり、すぐに夢の中へ引きこまれていった。
読了ありがとうございました。
怪異ハ浸食スル 了
