量子力学を、スピリチュアルの入り口にしない「観測すると現実が変わる」から、一気に意識の力へ飛ばないために
量子力学を、スピリチュアルの入り口にしない
「観測すると現実が変わる」から、一気に意識の力へ飛ばないために
こんにちは、ぜっとです。
量子力学について調べていると、とても魅力的な言葉に出会います。
「観測すると結果が変わる」
「観測するまで状態は決まっていない」
「観測した瞬間に現実が確定する」
ここから、さらに話が進むことがあります。
「だから、人間の意識が現実をつくっている」
「思ったことが現実になることを量子力学が証明している」
「宇宙は私たちの意識に反応している」
たしかに、物語としてはものすごく面白い。
私自身、意識や自我、クオリア、観測者とは何かという問題をずっと考えています。
だから、この方向へ想像を広げたくなる気持ちもよく分かります。
ただ、ここで私は一度、線を引きたいと思っています。
量子力学を、安易にスピリチュアルの入り口にはしない。
これはスピリチュアルそのものを否定したい、という話ではありません。
もっと単純な話です。
物理学が言っていることと、そこから人間が考えたことを、同じ箱に入れない。
そのほうが、むしろ量子力学も、意識の問題も、ずっと面白くなると思うからです。
一番危ないのは「観測」という言葉かもしれない
量子力学を初めて知ったとき、多くの人が引っかかるのが「観測」です。
日常語で観測と言われれば、
誰かが見る。
人間が確認する。
意識を向ける。
そんなイメージを持ちます。
ところが、量子力学で扱われる観測は、まず人間の心の中の出来事ではありません。
本編では、量子力学における観測を、
測定対象と測定装置が相互作用し、その結果が記録として残ること
として整理しています。人間がその場で「見た」こと自体が観測成立の条件なのではありません。
ここは小さな違いに見えて、実はかなり大きな境界線です。
「観測によって結果が変わる」
から、
「人間の意識によって現実が変わる」
へ行く間には、一段階ではなく、かなり大きな論理のジャンプがあります。
元の記事でも、そこから一気に「意識が世界をつくる」と進めば、物理の議論から外れてしまう、と明確に切り分けています。
「観測したら粒になる」も少し注意したい
もう一つ、よく聞く説明があります。
「量子は観測するまでは波で、観測すると粒になる」
これも、とても分かりやすい。
ただ、分かりやすすぎるために、逆に誤解を招くことがあります。
まるで、
誰も見ていないときにはフワフワした不思議な存在だったものが、
人間が見ると突然、
「はい、粒になりました」
と姿を変える。
そんな魔法のようなイメージになってしまう。
本編で重視しているのは、そこではありません。
何を測るのか。
どう測るのか。
どの条件で測るのか。
測定条件と、現れる結果との関係を見ることです。
この部分を飛ばしてしまうと、
量子力学の面白さが、
「人間が見ると世界が変わる不思議な現象」
という物語だけになってしまいます。
それでは、少しもったいないと思うのです。
では、意識について考えてはいけないのか
ここからが、私が一番言いたいところです。
私は、
「量子力学と意識を結びつけて考えるな」
とは思っていません。
むしろ考えたい。
観測とは何なのか。
意識とは何なのか。
私たちは世界をそのまま見ているのか。
なぜ同じ出来事を見ても、人によって現実の受け取り方が違うのか。
「私が世界を見ている」とき、その「私」とはいったい何なのか。
こうした問いは、とても面白い。
ただし、
物理学が証明したこと
と、
物理学をきっかけとして人間が考え始めたこと
は分けておきたいのです。
この区別さえ残しておけば、かなり遠くまで思考を進められます。
反対に、この二つを最初から混ぜてしまうと、
面白い仮説なのか、
哲学なのか、
比喩なのか、
科学的に確認された事実なのか、
分からなくなってしまいます。
「比喩として使う」のと「証明されたと言う」のは違う
たとえば私は、量子力学の観測という考え方から、人間の判断について考えます。
私たちは現実を見ているつもりでも、
感情。
記憶。
経験。
期待。
不安。
立場。
そうしたものを通して世界を見ています。
その結果、起きた出来事そのものより、自分の反応を「現実」だと思ってしまうこともあります。元記事でも、この認識のズレを観測の問題から感情・意識・自我へつないでいます。
ここには、とても実用的な問いが生まれます。
「実際に起きたことは何か」
「私はそこに何を付け加えたか」
「まだ確認できていないことは何か」
これは仕事にも、人間関係にも、経営にも使えます。
ただし私は、
「これは量子力学によって証明された人生法則です」
とは言いません。
量子力学を足場にして、人間の観測を考えている。
ここまでです。
この一本の境界線は、かなり大事だと思っています。
科学とスピリチュアルの間に壁を建てたいわけではない
私は、科学だけで人間のすべてが説明できるとも思っていません。
意識。
クオリア。
死。
存在。
自己。
宇宙。
まだ分かっていないことはいくらでもあります。
分からないからこそ、考える価値がある。
ただ、
「まだ分からない」ことと、「だから私の考えが正しい」ことは別です。
ここは混ぜないほうがいい。
私はむしろ、
分からないものを、分からないまま置いておけることも知性の一つだと思っています。
科学で確認されているところまでは科学として扱う。
その外側で考えるなら、
「ここからは仮説です」
「ここからは哲学です」
「ここでは比喩として使っています」
と一言置く。
それだけで、議論はずっと自由になります。
神秘を消すのではなく、混線をほどく
量子力学から神秘性を全部取り除きたいわけではありません。
むしろ逆です。
よく分からないまま、
「意識が宇宙を変えるらしい」
で終わってしまうより、
分かっていることと、
分かっていないことを分けたほうが、
その先にある謎がはっきり見えてきます。
物理の問い。
哲学の問い。
意識の問い。
自我の問い。
人間の認識の問い。
それぞれを一度分ける。
そして必要なら、もう一度つなぐ。
私は、この順番で考えたいと思っています。
混ぜるのではなく、分けてからつなぐ。
そのほうが、量子力学はスピリチュアルの証明道具ではなく、
もっと根源的な、
「私たちは世界をどう知ることができるのか」
という問いの入り口になってくるからです。
では、量子力学の「観測」とは結局なんなのか
ここまで読んで、
「では実際、量子力学でいう観測とは何なのか」
と思った方もいるかもしれません。
そこで本編では、
「観測=人間が見ること」
というところから一度離れ、
量子力学の観測を整理したうえで、
そこから改めて、
感情。
意識。
自我。
そして私たち自身の判断へと話をつないでいます。
元記事の狙いも、物理と人間の認識を曖昧に混ぜることではなく、どこまでが物理で、どこからが認識や判断の問題なのかを切り分けてから橋をかけることにあります。
興味がある方は、ぜひこちらから続きを読んでみてください。
『量子力学の「観測」とは結局なにか
― 感情・意識・自我までつなげて考える』
量子力学を信じるためでも、
スピリチュアルを否定するためでもありません。
自分が何を事実として見て、どこから意味を加えているのか。
その境界線を一度、自分で観測してみる。
そこから始めてみたいと思います。
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